短編 | ナノ


 口元にかすかな笑みを浮かべつつ、アヤメはじっとオルディン火山の稜線を見つめていた。闇の帳に包まれていた空が徐々に白んでいき、ほのかに大地を照らしていた星が近づいてくる朝にひとつずつ溶けていく。その空に染まるように、黒々としたシルエットを描いていた山の端は、霧のベールを纏ったやわらかな青灰色へとその姿を変えていっていた。
 肩にかけていた薄絹が、彼方から運ばれてきた風にふわりと揺れる。冬の厳しさはやわらいだものの、触れる空気はまだアヤメの体には冷たい。彼女は上衣を強く体に巻き付けて、細く息を吐いた。
 ――不意に、濡れた草地を踏みしめる音が耳に届いた。騒々しい魔物達の足音ではない。かと言って、ギラヒムやザントの品の良さが伝わってくる静かな足音とも違う。しかと大地を踏むゆったりとした足運びに、近づいてくる人物のしかめっ面を思い浮かべた彼女は、ひそやかな笑みをその目尻に浮かべる。

「もう夜が明けちゃいますね」

 背後を振り返らずに先んじて声をかけると、足音がふつりと途切れた。小さなため息が、風に乗ってアヤメの耳元を掠めていく。

「夜警など、魔物どもに任せておけばよいものを」
「まあ、それもそうなんですけど」

 呆れ混じりの声に苦笑で答えつつ、体をゆっくりと背後に向ける。顔を上げれば予想していた通りの無愛想な強面が目に入っては、アヤメは思わず小さな笑い声をこぼした。それを見下ろしたガノンドロフの眉間に刻まれたシワがわずかに深くなるのが、ほの明るい闇の中ではっきりと見て取れた。
 不機嫌も露にこちらを睥睨する魔王に、アヤメはおっとりとした笑みを浮かべる。

「夕べは緊張で眠れなかったんですよ」

 するとガノンドロフはアヤメの瞳の奥に躍る悪戯っぽい光に気づいたのだろう、その言葉を鼻先で笑い飛ばした。

「戯れ言を。貴様ほど神経の図太い女を我は知らぬ」
「あら、失礼な。私だってこう見えて繊細なんですよ」

 アヤメは眉を寄せて心外だと告げる。だがガノンドロフはアヤメの表情が単なる見せ掛けだと見破っていたようで、ただ皮肉げに口元を歪めただけだった。彼女の文句を黙殺した彼は重々しい足取りでこちらに歩み寄り、アヤメに並んで遠くに霞むオルディン火山の偉容に目を向ける。
 アヤメは隣に立つ彼を見上げて目を細めた。夢うつつにまどろむ世界の中で、彼の存在だけがやけに鮮烈に感じられる。――強すぎる力は世界の調和を乱す。それをこんなところでも実感する羽目になるとは思わなかった。
 再び遠くに視線を戻すと、先程よりも幾分か明るくなってきた空が目に入った。山際にわずかに朱がにじんでいる。
 隣に立つガノンドロフの大きな気配に気がゆるんだのだろうか、アヤメは込み上げてきたあくびを手を口元に当てて噛み殺す。ガノンドロフが小さくため息をつき、視線だけを彼女に向ける。その呆れたような眼差しすら、確かな質量を持って頬に触れるのをアヤメは感じた。

「とっとと仮眠でも取っておけ。じきに行軍も始まる。日の昇りきらぬ内に、我が軍はハイラル軍と衝突するだろう」
「んー……」
「『寝不足が祟って戦に集中できなかった』とあの世で弁明をするつもりならば構わぬが」

 相変わらずの辛辣な物言いである。だがその冷たい言葉の裏に隠された彼の真意に気づけないアヤメではない。彼女は低く穏やかに笑いつつ、じっと東の空に視線を注ぐ。

「もうちょっとだけ、待ってください」

 ガノンドロフはしばらくアヤメを胡乱げな目つきで見下ろしていたが、これ以上追求する必要はないと判断したのだろう、無言のまま視線を前方のオルディン火山に向け直す。
 空の赤みが徐々に強くなってきた。それにつれて、山の岩肌にも温かな生気が戻ってくる。近づいてくるその瞬間に向けてふくらむ期待が、アヤメの呼吸をひそめさせる。太陽の気配はすぐそこだ。
 その光景から目を離すことなく、アヤメは静かに言葉を紡ぐ。

「朝日が顔を出す前の一瞬が、一番好きなんです」
「ほう。昇った瞬間ではなく、か?」
「昇っちゃったら、それはもう朝じゃないですか」

 ほんの一瞬、ガノンドロフが口を閉ざした。だがすぐに彼女の言わんとしたことを察したらしく、ふっと小さな笑みを含ませた吐息が彼の口からこぼれる。

「境か」
「そういうことです」

 その時、オルディン火山の岩肌を突き破るようにしてその日の最初の光が産声を上げた。生命力に満ちた赤い光が霧を貫き、アヤメの目を鋭く射る。眼球の裏に痛みを覚えて彼女は顔をしかめた。――今この瞬間、夜が朝に塗り替えられた。じきに草木や虫達が目を覚まし、止まっていた世界が動き始めるだろう。
 陽光を直視できずに軽く目を伏せながら、アヤメはそっと肩の力を抜く。こうして終わってしまえば、なんともあっけないものだ。

「こうやって夜明けを見る度に思うんですよ」

 胸にぽっかりと穴の空いたような虚脱感を覚えながら、隣のガノンドロフにそっと言葉をこぼす。

「夜の後には必ず朝が来るんだなって」
「……何が言いたい」

 視界に入れていないにも関わらず、その低く唸るような声音からガノンドロフが怪訝そうに眉を寄せる様子が手に取るように伝わってきた。ごくごく当然の事象を口にする彼女の心情を計りかねたのか、それとも言葉の裏に隠された真意に気がついたのか。朝日に染まる相手の顔を真っ直ぐに見上げたアヤメは、その不機嫌な眼差しに後者であることを読み取った。彼女の目元にやわらかい笑みが浮かぶ。その瞳の奥ににじむ寂寥も、きっと彼は見抜いているに違いない。

「明けない夜なんて、ないんです」

 ――アヤメは知っていた。光が謳歌する平和は決して永遠ではない。太陽はやがて傾き、黄昏と共に闇が空を侵食する。同じように、闇が世界を覆った後は、必ず光が夜明けを引き連れて世界を照らし出す。遥かな昔から、この世界はそうやって光と闇が交互に訪れては世界を染めるのを繰り返してきた。
 今アヤメの隣で悠然と腕を組んで佇んでいる闇の王も、いずれは昇り来る光に押し負けて世界の外へと追いやられてしまう。それが、彼に与えられたさだめなのだ。――ガノンドロフも、薄々勘づいてはいるのだろう。今日この日に至るまで、時代を越えて緑衣の勇者やハイラルの王女に道を阻まれてきたのだから。
 不意に、ガノンドロフが鼻を鳴らした。彼は生まれたばかりの太陽に向かって右手を伸ばすと、その指を曲げて力強く空を握り締める。彫りの深い顔に落ちる色濃い影の中で、金の瞳が満たされぬ野心を帯びてぎらりと輝く。その口の端は、獣じみた狂暴な笑みに歪められていた。

「ならば、我が世界を昼夜も存在せぬ闇の底へと落としてみせよう」
「あら、頼もしい」

 運命すらも支配すると豪語したガノンドロフの横顔を見上げて、アヤメは茶化しながらも瞳を細める。赤々と輝く暁光の中心にあって、世界を食らわんとする彼の黒く燃える意志がより一層際立って感じられる。繰り返されるさだめをすっかり受け入れてしまったアヤメには、それに抗おうとする彼の強い心こそが眩しかった。
 ――それにしても、なんて魅力的な未来なのだろうか。アヤメは夢見るように淡く染まった頬をほころばせる。全てを破壊し尽くして支配してしまえば、確かに彼の存在は永遠のものになるだろう。野望の炎で世界を侵す彼が道半ばに封じられる様も見なくて済む。彼の苦しみを目の当たりにして胸を引き裂かれることもなくなる。永久に続く安寧の闇の中で、アヤメはただ愛しい男に寄り添って穏やかに生き続けるのだ。

「でも、それはそれで風情がないですね」

 静かな声音で水を差せば、金の瞳がじろりとアヤメを睨めつける。剣呑な色を宿したその眼差しを、彼女は普段と変わらぬおっとりとした微笑で受け流す。

「では貴様一人、朝と夜の狭間に閉じ込めてやろうか?」
「お断りします。世界が移り変わるのを見るのが好きなんですよ、私は」

 くすくすと笑うアヤメに、ガノンドロフは不快も露に舌打ちをする。
 ――この心地のよい夜闇が世界を覆い尽くし、二度と希望が訪れなくなってしまえば。そんな思いがアヤメの中にないわけではない。だが、人々の強い意志が世界を動かす瞬間を見るのは、彼女がひそかに楽しみにしていることのひとつだった。
 時代が染め変えられるその一瞬に押し寄せる、大きな力。歓喜と高揚感への期待に弾ける寸前の、張り詰めた静けさ。それらを肌で感じながら、表舞台から去りゆくものに思いを馳せるのがアヤメは好きなのだ。
 例え朝日に闇が打ち払われたとしても、その陽光はいつか必ず衰える。日が沈めば、再び魔の躍動する夜がやって来る。光の加護の下で人々が生を楽しむ傍らで、ほの暗い夢にまどろみながら闇の訪れを待つのもまた一興だとアヤメは微笑む。

「貴様からその楽しみを奪ってやる日もそう遠くはない。せいぜい、今の内につまらぬ感傷に浸っておくことだ」

 ガノンドロフは不敵な笑みに口の端を持ち上げる。挑発的なその表情に心が絡め取られていくのを感じて、アヤメは目を細めて笑った。――力は世界の調和を乱し、意志は時代を動かす。いつしかガノンドロフがその強さによって、彼自身を縛りつけている理を打ち砕く日が来るのかもしれない。

「待ってますよ」

 穏やかな期待を込めた眼差しを向けて囁けば、ガノンドロフは小さく鼻で笑って身を翻した。赤く燃える朝日に照らされたその背に背に向かって手を上げれば、濃い影の指先が彼の腰布の裾を掴む。相手が自分に落ちかかった影に気づいた様子はない。ちょっとした悪戯が成功した気分になって、アヤメはひそやかに目元を微笑ませる。
 光を浴びて体が温まってきたのだろう。ふと眠気が瞼にのしかかって、アヤメは大口を開けてあくびをした。女性として少々はしたないが、幸いなことに見ている者は誰もいない。――行軍の再開までには、まだ時間がある。しびれを切らしたガノンドロフが叩き起こしに来るまで、寝具に潜り込んでいるのも悪くない。
 涙が薄くにじんだ目尻をこすった彼女は、一度東の空を振り返る。希望に光る空を手ひさし越しに眺めたその瞳が、いずれ来る日暮れを予感して楽しげに輝いた。





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