短編 | ナノ


 ガタン、と音を立ててグラスがカウンターに叩きつけられる。アヤメはグラスから飛び散って手にかかった水滴を丁寧に拭うと、困ったように笑いながらグラスの持ち主に目をやった。

「ザント様、あまりかっかなさらないでくださいな」
「かっかなどしておらぬわ」

 ふん、と不服そうにザントは鼻を鳴らす。刺々とした声音や普段は見せないような乱暴な所作が、言葉とは真逆の彼の内心を表している。アヤメは苦笑すると相手の細く長い指からグラスを抜き取り、溶け残った氷を流しに捨てた。耳障りな音を立てながら、氷が排水口へと滑り落ちていく。
 ――それにしても、今夜は随分と酔いの回りが早い。さだめし、宮殿で腹に据えかねたことがあったのだろう。
 ザントは大抵のことは内に溜め込み、その上で冷静に振る舞うことができる人物だ。だがやはり溜め込むのにも限界があるそうで、積もりに積もった不平不満が暴発してしまいそうになることが多々あるらしい。そうなる前に、彼はいつも人払いをしたこの酒場で毒抜きをしているのだ。
 昨夜もザントは同じようにここを訪れた。長々と愚痴をこぼしつつ酒をあおっていた彼の、帰る頃にようやく見せたほんの小さな微笑は、彼女のまな裏にいまだ鮮明に残っている。
 それが、たった一日でこの有り様である。
 察するに、かの美しく聡明な王女に手酷くからかわれでもしたのだろう。それを証明するかのように、カウンターに突っ伏したザントから小さな呟きが漏れ聞こえてくる。

「ミドナめぇ……」

 憎々しげに王女の名前をこぼすザントに、アヤメは思わず苦笑する。自分の前だからいいものの、もしうっかり他人に聞かれでもしたら不敬罪は確実である。それを分からぬザントではあるまいに。どうやら、随分と酔ってしまっているらしい。

「今夜はもうおしまいになさいますか?」
「……私はまだ飲めるぞ」

 言葉遣いははっきりしているが、呂律が少し怪しくなってきている。この店に見えた時からかなり疲れも溜まっていたようだし、もうそろそろ限界だろう。アヤメは小さく微笑むと、お冷やを彼の前に差し出した。
 酒に飲まれて潰れるだけならまだ可愛いげがあるが、ザントの場合はストレスとの兼ね合いで時折とんでもない狂乱ぶりを見せてくれることがある。以前二度ほどそれを目の当たりにしたことがあるのだが、どうにも手がつけられなくて大変な思いをしたことは記憶にしっかりと刻まれている。他の客がいなかったのが唯一の救いだ。
 ザントはカウンターに置かれた水を不満げに眺めているが、これ以上アルコールを飲ませるとこちらの心臓にも悪いのだ。分かってほしい。

「あまり過ごされてはお体に毒ですよ。体調を崩されたと風の噂に聞きでもしたら、私は泣いてしまいます」

 冗談めかしてそう言えば、ザントは長い首をぐねりと持ち上げてこちらを見上げてきた。瞳がないために感情の読み取りづらい眼差しを向けられて、アヤメは人知れず肩を強張らせる。

「太陽でも泣くことがあるのか」

 ぽつりと呟かれたそれは、質問というよりも確認に近いもののようにアヤメの耳には聞こえた。
 ――太陽。ザントの口からこぼれたその言葉にふと視線を落とし、彼女は片側に流している長い髪にそっと触れる。
 アヤメの髪には、影の民によく見られる黄昏色に混じって一房だけ金色が混じっている。恐らくは一族が遥か昔に光の世界で暮らしていた頃の名残――いわゆる先祖返りの一種なのだろう。暖かな日の光を思わせるその色こそが、彼女が『太陽』とあだ名されているゆえんである。……誰も本物の太陽を見たことがないというのに、なんともおかしな話である。
 アヤメはザントの瞳に小さく微笑みかけると、おどけたように小さく肩をすくめる。

「ええ、それはもう。ザント様は大切なお客様ですから、何かあったら悲しいに決まっているじゃないですか」
「なるほど。私には『客』である以上の価値はないと言いたいのだな」

 アヤメはおや、と瞬きをしながら小さく首をかしげる。普段のザントならば多少不機嫌になりつつも「そうか」の一言であっさりと話を打ち切るはずなのだが、今夜の彼はまるで不貞腐れた子供のようだ。そう思った直後、彼女はつい口元を手で押さえてしまった。
 ――よりにもよって『不貞腐れた子供』とは。王の側近たる相手になんと失礼なたとえだろう。堪えきれぬ笑みをその口元に浮かべながら、アヤメはそっぽを向いてしまったザントの機嫌を取ろうとしなを作る。

「まさか。こうやってザント様と過ごす時間は、私にとってかけがえのないものです。でなければ、わざわざ貸し切りになんて致しませんよ」

 内緒話をするように顔を寄せて囁きかければ、彼はちらりと不満げな顔をこちらに向けた。真っ白な彼の頬がうっすらと赤く染まっているのは、きっと酒のせいだけではないだろう。――そう希望的に解釈して、アヤメは目を細める。じっと見つめていると、彼はふいと目をお冷やに落として長い指先でグラスを持ち上げた。

「そのようなこと、わざわざ言われずとも知っておる」

 口調はつんけんしているが、なんとか機嫌は持ち直してくれたらしい。――育ちのよさ故か、ザントは言動が偏屈な割に変なところで素直に反応してくれる。こういうところが、彼が姫君にいじられてしまう最大の理由なのだろう。アヤメも少し意地悪をしてみたくなって、彼の横顔にそっと笑みを近づける。

「まあ、お金をたくさん落としてくださるいいお客様であることには変わりありませんけどね」
「む……」

 グラスを傾ける手を止めて目と目の間にシワを寄せたザントがなんとも可愛らしく思えて、アヤメはくすくすと少女のように笑った。

「アヤメ」

 不意に、静かな声で名前を呼ばれる。顔を上げると、ザントはグラスを軽く振ってからんと氷を鳴らした。手に持ったそれに落とされた眼差しにふと色気を感じて、アヤメはどきりとして息を止める。

「私が何故このような場末の酒場に足しげく通うか、知っているか」

 グラスに目を向けたまま、ザントが呟くように問いかける。アヤメは感情の見えない彼の瞳をじっと見つめて口を閉ざしていたが、しばらくして薄い笑みをその口元に刷く。

「それは――私の髪が太陽の色だからでしょう。お客様はみな『太陽』の光を求めてこちらにいらっしゃいますから」

 言いながら、彼女は自身の髪をくるりと細い指に巻き付けた。渦を巻いた黄昏色と金色は、彼女が手を引くとふわりとほどけながら落ちていく。隣り合いながらも決して混ざることのないその色に、アヤメは二つの世界を重ねて目を細める。
 この世界にいる限り、影の一族は永遠に本物の太陽を目にすることができない。だからこそ、誰もがアヤメの髪の色に憧憬を抱くのだ。
 ザントはぐいと仰向いて水を飲み干すと、そのまま流れるようにアヤメに視線を向ける。

「そうだ。お前の髪は確かに美しい」

 ――ほら、やっぱり彼も同じだ。微笑みながら肩をすくめた彼女は「ありがとうございます」といつもの調子で礼を述べようとした。……が、ザントはそれを遮ってなおも言葉を続ける。

「その細くしなやかな指も、なだらかな肩も、慈愛に満ちた瞳も――仕草や表情の一つ一つですら、余人の心を惹き付けてやまない。なればこそ、お前が太陽などと呼ばれ慕われるのだろう」
「ざ、ザント様?」

 アヤメはぎょっと目を見張って思わず一歩下がった。まさか、ザントの口からそのような手放しの称賛がつらつらと流れ出てくるとは思わなかった。そのような褒め言葉にはすっかり慣れているはずなのに、みるみる顔が熱くなっていくのが手に取るように分かる。……これではまるで、年端もいかぬうぶな少女のようではないか。その醜態をなんとか隠さなければと彼女は片手で口元を覆い、笑って誤魔化しながら目をそらした。

「や、やだ、もう。褒め殺しでもする気ですか。ザント様ったら、相当酔ってらっしゃいますね」
「酔っている、か。……そうかもしれぬ」

 低い呟きと共に、ザントは空になったグラスをカウンターに置く。
 洗い物でもしていれば、少しは気も紛れるだろう。これ幸いとそのグラスを回収しようとした彼女の腕を、不意に伸びてきたザントの手が掴んだ。

「――アヤメ」

 驚き手を引こうとしたアヤメだったが、腕や指の細さからは想像もつかないほどザントの力は強く、逆にぐいと力任せに引き寄せられてしまった。前のめりに上半身を倒してカウンターに手をついた彼女に、ザントが長い首を曲げてその顔を近づける。

「光を遠く眺めているだけでは物足りぬ。私は太陽そのものが欲しい」

 目と鼻の先で言い放たれたその言葉に、アヤメは息を飲んだ。
 間近で覗き込むザントの瞳の奥に、ぎらつく渇望の光が垣間見える。これまで見てきたどの瞳にも見たことのない強い感情を宿した眼差しに、彼女は自分がその存在ごと絡め取られていくような心地がして小さく身を震わせた。

「……欲深い方なのですね」
「私に言わせれば、この世界の者が腑抜け揃いなのだ」

 王族も含めてな、と嫌悪に目を細めて鼻を鳴らす。あまりに不遜な彼の物言いに、アヤメは口を閉ざしたまま困ったように笑みを浮かべる。確かに彼の言う通り、このトワイライトに彼ほど大きな欲を抱えた者はいないだろう。
 ……いつしか彼の欲が肥大化して、この穏やかな世界を飲み込んでしまう時が来るのかもしれない。アヤメはふとそんな予感に駆られて、目の前の男に哀れみめいた感傷を覚えた。――きっと、碌なことにはならないだろう。道理に沿わない欲望がどのような結末をもたらすかは、影の世界に伝わる歴史が雄弁に物語っている。
 ザントはアヤメを捕まえているのとは逆の腕を持ち上げると、彼女の頬を壊れ物でも扱うかのようにそっと撫でる。腕を強く掴んで離さない指とは真逆の優しい手つきに、彼女はくすぐったくなって軽く身をよじった。

「これほど簡単に触れられるほど近くにあるのに、これまで誰も手を伸ばそうとさえしなかったとは――滑稽な話だ」

 目元を歪めて他の男達を嘲り笑ったザントは、ふと表情を消すとアヤメをじっと見据えた。張りつめた沈黙に押し潰されてしまいそうになりながらも、彼女はなんとか彼を見つめ返す。
 ほんの一瞬か、それとも数分か。ザントはおもむろにため息をつくと力をなくしたように頭を俯け、アヤメと互いの額をコツンと突き合わせた。額から微かな鈍い痛みと共に相手のほのかな体温が伝わってきて、アヤメは強張っていた肩の力が徐々に抜けていくのを感じた。
 ――ふと、ザントの口が開いて小さく言葉を紡ぐ。聞こえるか聞こえないかの声量で呟かれたそれを耳聡く聞き取ったアヤメが、唇にゆるく弧を描いた。

「ザント様」

 そっと囁きかければ、ザントは視線を揺らしながらもゆっくりと顔を上げる。その頬がわずかに朱に染まっているのは、暗がりでもよく分かった。――照れている、のだろう。
 どこか気まずそうに表情を強張らせて口を閉ざすザントに、彼女はやわらかく、悪戯っぽく笑ってみせる。

「次は、お酒の力を借りずに仰ってくださいね」
「……善処はする」

 ふいと視線をそらすものの否定をしないザントがあまりにも愛おしくて、アヤメは顔を真っ赤にしながらくすくすと笑う。そして自ら床を蹴って身を乗り出すと、紋様の浮かび上がるザントの広い額に軽く唇を落とした。





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