短編 | ナノ


 ――悲鳴を上げてはいけないよ。
 父の顔は靄がかかったように朧気になって思い出せない。力強い腕に抱き締められる感覚も、大好きだったはずの優しい声も、もうとっくに記憶の彼方だ。だがその言葉だけは、町が燃える臭いと同じく鮮明に覚えていた。
 衣装箪笥に押し込められた娘の顔を、母が自分の胸に強く押し付ける。息苦しくなってなんとか顔をずらした娘の目に、窓の外の焼け焦げた夜空を反射して赤と黒に染まる白刃が映る。父が剣を抜いたところを、彼女はその日まで見たことがなかった。
 母の胸に側頭部をこすりつけるようにして見上げると、影になった顔がこちらを覗き込んでいるのが分かる。もう思い出すことすらできないが、恐らくその口元は微笑んでいたのだろう。
 衣装箪笥の両開きの扉がゆっくりと閉まっていく。光は徐々に細くなり、地獄のような炎の色は見えなくなっていく。その光が完全に遮られる寸前に、父は言った。
 ――何があっても悲鳴を上げてはいけないよ。魔物に気づかれてしまうからね。
 その言葉は、今もアヤメの喉の奥に絡みついている。




 カカリコ村の井戸は七年前から枯れている。なんでも、ある日突然大嵐が村を襲ったかと思うと、いつの間にやら水がすっかり無くなってしまっていたのだそうだ。嵐で水が溢れ出すならともかく枯れてしまうなど、奇妙な話もあったものである。
 もっとも井戸が枯れたといっても、村人の生活はそれ以前と何も変わらない。せいぜい、村の子供達が落ちないようにと気を付けるようになったくらいだ。
 聞くところによると、村を開放したインパが『この井戸の水は体に毒だから決して使わないように』と固く村人に言いつけていたらしい。そのためカカリコ村の住人が生活に使う水は井戸から汲むのではなく、村の外にある川から汲むことになっていたのだ。
 アヤメは大きな桶に並々と水を汲み上げると、それを川縁の草地にどすんと置く。その勢いで幾らか水が地にこぼれるが、その程度は想定の範囲内である。

「よし、こんなもんかな」

 汗を拭って大きく息をつく。これだけあれば、少なくとも明日の朝までは保つはずだ。あとはこれを家まで運べばいいだけなのだが、これがまた骨が折れる。
 こういう時に男手があれば助かるのだが、現実はそう上手くはいかない。足を悪くしてしまった母の代わりに水汲みができるのは自分しかいないのだ。たまに気まぐれのように手伝ってくれる者もいなくはないのだが、毎度毎度それをあてにするわけにもいかない。ため息をついて、アヤメは腰を屈めようとした。

「アヤメ!」
「――っ!」

 バシン、と不意に肩を強く叩かれて、アヤメは驚きのあまり出かかった悲鳴を無意識に飲み込んだ。肩を叩いた何者かから距離を取ろうと慌てて動かした足が濡れた草地を滑る。しまった、と思った時にはもう遅く、アヤメは盛大な音を立てて川に落ちてしまった。
 すぐに水面に浮上した彼女は、息を吸おうとして咳き込んだ。うっかり飲み込んだ水が変なところに入ってしまったらしい。顔を俯けて咳をしながら岸に戻ろうと伸ばした彼女の腕を、革の籠手に包まれた手が無造作に掴んだ。

「悪い悪い。大丈夫か、アヤメ?」

 顔を上げれば、そこには空を映したような青い瞳を楽しそうに笑わせた青年の姿があった。少し濃い色をした金髪が、太陽の光を反射してきらきらと煌めく。森の妖精を思わせる特徴的な緑の装束は、いつだったか彼の故郷のものだと聞いたことがある。

「り、リンク……!」

 名前を呼ぶと、リンクはにかっと歯を見せて笑う。そして腕に力を込めてアヤメをぐいと川から引っ張り上げると、そのまま乾いた草地に立たせた。ぼたぼたと水の滴り落ちる髪をかき上げて重いため息をついた彼女は、半眼でリンクを睨み付ける。彼のせいで、余計な洗濯物ができてしまった。
 リンクはそんなアヤメのじとりと湿気を帯びた視線を気に留めもせず、しげしげと彼女の全身を眺め回している。

「あーあ、びっしょびしょだ」
「なっ! 誰のせいだと思ってんの、もう! この悪戯小僧!」

 他人事のようなリンクの態度に腹が立って、露になっている額に手刀を食らわす。「いってぇ」と大袈裟に呻いて赤くなった額をさする彼に胡乱な眼差しを送り、アヤメはふんと鼻を鳴らした。
 ――本当に、七年前からリンクは何も変わらない。無邪気で底抜けに元気で、こうして事あるごとにアヤメを驚かせにくる。時に物見櫓から飛び降りてド派手な登場をしてみたり、時に手の中にムイムイを隠して近づいてきたり――。真夜中にこんこんと窓を叩く音に目が覚め、不審に思ってカーテンを開いた瞬間『こわそなお面』が目に飛び込んできた、なんてこともあった。悲鳴こそ上げはしなかったものの、あまりの恐怖に泣き出してしまったのは記憶に新しい。それに関しては今でも根に持っている。
 容姿だけは立派な美青年になったというのに、よくもここまで子供のままに育ったものだ。アヤメがあきれ返ったようにため息をつくと、リンクは不満げに唇を尖らせてみせる。

「だってオトナになってからのアヤメ、驚いてんのかそうじゃないのか分からねーんだもん。びっくりさせても全然でかい声出さねーし」
「そりゃそうよ。だって私、オトナになっておしとやかになったんだもん」
「誰がおしとやかだって?」

 胡散臭げに目をすがめてリンクがこちらの顔を覗き込む。その馬鹿にしたような言い方が勘に障って、アヤメは眉を跳ね上げた。確かにちょっぴりお転婆かもしれないが、こう見えてもちゃんと成長はしているのだ。もう男の子と一緒にかけっこもしないし、こっそり家から短剣を持ち出して勇者ごっこもしない。少なくともリンクよりはオトナになっている自信がある。ただ顔が綺麗になって帰ってきただけのリンクとは違うのだ。
 ――なんだか無性に腹が立ってきた。アヤメはリンクの右手を掴むと、絡め取るようにして彼の右腕をしっかりと両腕で抱き締める。

「もういい! こうなったら、あんたも道連れにしてやる!」
「うわっ――」

 全体重をかけて思いきり引っ張ってやると、リンクの青い瞳が真ん丸に見開かれた。虚をつかれた彼は、いとも簡単に体勢を崩してアヤメと共に川面へと吸い込まれていく。――直後、二人分の水しぶきがハイラル平原の一角に飛び散った。

「あっははは、リンクもびしょびしょ! いい気味」

 水面から先に顔を出したアヤメは、文句を言いたげなリンクの顔に笑い声を叩きつける。前髪がぺたんと顔に張り付いてしまって、普段の美形ぶりが台無しだ。彼はため息をつくと、川下に流されそうになった緑のとんがり帽子を取ってそれをぎゅっとしぼった。そんなことばかりしているから、服も帽子もシワだらけなのだろう。今度彼が家に泊まることになった時は、容赦なくひんむいて洗濯をしてあげよう。

「ったく……おしとやかって、少なくとも人を川に引きずり込む奴のことじゃないだろ」
「なによ、そっちが先にやってきたんじゃない。私は仕返ししただけ。はい、悪いのはどっち?」

 人差し指を立てて得意気に言ってみせると、リンクは濡れた髪をかき上げて苦笑した。

「わーってるって。俺が悪かった! 水運ぶのでもなんでも手伝うから、もう勘弁してくれよ」

 この通り、とリンクは両手を合わせて拝むような格好をする。その表情に反省の色は欠片も見当たらないのは少々癪だが、せっかく水汲みの手伝いを申し出てくれているのだ。ここはこちらの方がオトナになってやろうではないか。アヤメはふんと鼻を鳴らすと、手を伸ばしてリンクの濡れた鼻を軽く摘まむ。

「よろしい!」

 満面の笑みを浮かべて許してやると、リンクは子供扱いすんなよ、と言いながら鼻を摘まむその手を払いのけた。目元をほんのりと赤らめてむくれたように唇を尖らせる様子は、主張とは裏腹にいかにも子供じみている。アヤメが噴き出すように明るく笑い声を上げると、リンクはその反応が気に食わなかったらしく、口角を下げてアヤメに背を向けた。そのままざぶざぶと水をかき分けていき、たどり着いた川縁に指をかける。

「ごめんごめん」
「ふんだ、馬鹿にしやがって」

 完全にふて腐れている。アヤメが笑いを堪えつつも謝っているのを無視しながら、リンクは全身をバネのように使って川から体を持ち上げる。その拍子に大きく波立った川面が、当てつけのようにアヤメの顔に水の塊をぶつけた。

「わぷっ……もう、ごめんって言ってるのに!」

 アヤメは目元を腕で拭う。ちょっと子供扱いしたからと言って、そこまですることはないだろう。むっと眉を寄せて顔を上げた彼女は、だが鼻先に差し出された革のグローブに毒気を抜かれて瞳を瞬かせる。

「ほら。アヤメ一人じゃ上がれないだろ?」

 見上げると、リンクが得意気に笑いながらこちらを見下ろしている。……そういうところが子供だというのだ。アヤメはリンクのにんまりとした笑みを睨み付けていたが、やがてため息をつくと素直にその手を取った。悔しいことに、彼の言葉はまごうことなき事実だった。
 ――川から上がったアヤメは、濡れそぼった服や髪を絞りながらリンクの話に耳を傾けていた。彼は魔王を倒すためにハイラルの各地を巡っているようで、かつて栄えていた城下町とカカリコ村しか知らないアヤメには到底知ることもできないあれこれを話してくれる。迷いの森に咲く花、デスマウンテンの溶岩の色や臭い、ハイラル平原に隠されたいくつもの秘密――。聞いているだけで、旅に出たくて体がうずうずとする。もう少し世界が平和だったら、アヤメはたまらず村を飛び出していただろう。

「そういや、おばさんの調子はどう?」

 氷の洞窟で散々転んで尻を痛めたことについて語っていたリンクが、ふと話題を変えた。

「もうすっかり良くなったよ。リンクのオカゲでね」

 アヤメはそう言ってリンクに笑みを向ける。
 つい最近まで、アヤメの母は病床についていた。さほど重くない病ではあったものの、材料が足りないためにオババに薬を作ってもらうこともできなかったのだ。しかもその材料は、よりにもよって危険なデスマウンテンの火口付近にしか咲かない花だという。そんな困り果てていたところにリンクがやってきて、あっという間に材料を調達してくれたというわけである。

「どーいたしまして。またなんかあったら呼べよ。真っ先に駆けつけてやるからな」
「あら、言うじゃない」

 力強い笑みを見せたリンクに、アヤメは同じようににやりと笑みを返す。悪戯ばかりしているやんちゃ坊主のくせに、調子のいいことを言うものだ。アヤメはにやりと笑って、リンクの額を指で小突いてやった。




 閉じていた瞼をそっと開くと、墓石に刻まれた文字に小さな苔が生えているのが見て取れた。ここ数日不安定な天気が続いていた影響だろう。手を伸ばして苔を爪でこそげ取ると、一人の男の名前が露になる。――せめて、写し絵か似顔絵の一枚でも残っていればよかったのに。自分と母を命を懸けて守ってくれた父の顔も思い出せないことに、アヤメは罪悪感を覚えてひとつため息をつく。
 ……そろそろ家に戻らなければ、母が心配するだろう。踵を返した彼女が一歩踏み出したその時、不意に男の叫び声が聞こえてきた。アヤメはびくりと体を強ばらせ、戸惑いも露に周囲を伺う。

「な、なに……?」

 その叫び声を皮切りに、村の方から次々に悲鳴が聞こえ始めた。何が起こっているのかさっぱり分からず、アヤメは瞳を恐怖に揺らしてその場に立ち尽くす。
 どうしよう、どうすればいい。真っ白になった頭で遠い悲鳴を聞いていた彼女の目に、黒い煙が立ち上っているのが映る。――不意に、空が焦げる臭いを嗅いだ気がした。

「お母さん……!」

 たまらずアヤメは駆け出した。母は足が悪く、走ることができない。何かあったとしてもそう簡単には逃げられないだろう。父は自分と母を守ってくれた。だから、今度は自分が母を守らなければ。墓石の間を縫い、もう誰もいない墓守の家の脇を通り過ぎ、アヤメは墓地を抜けて村へと戻る。そこで彼女は思わず立ち止まった。
 ――カカリコ村は、魔物に襲われていた。武器を構えた骸骨が、鎧を纏ったトカゲが、大勢の魔物達を従えて家々を壊し、火を放っている。
 あの日の悪夢が甦る。足に怪我を負った母に庇われながら、炎が消えて黒く染まった城下町を走る幼い自分。横たわる死体やうずくまって食事をする魔物を見る度に悲鳴をあげそうになる口を、必死に手で塞ぎながら生き残ろうとしていたあの日。

「大丈夫、大丈夫だから……」

 自分に言い聞かせるように繰り返しながら、アヤメは口を塞いだ。幸いなことに、目につくところに死体はない。自分の家もまだ燃えてはいない。それに加えて、よくインパを訪ねてくるシークが村の中央広場で奮戦しているのが見える。魔物達の意識はそちらに集中している。ここから家に戻るまでの道のりならば、魔物達に見つからないで進めそうだ。
 彼女は息を吸うと体を屈め、足音を殺しつつ素早く移動を始める。魔物達はまだ気づいていない。このまま、どうか無事に家まで――。

「――っ!」

 不意に足を掴まれて、アヤメは前のめりに転倒した。膝を強く打ち付け、頭を庇った腕が砂利に擦れる。痛い、と悲鳴を上げそうになった喉が無意識の内に気道を塞ぐ。
 痛みを訴える腕を突っ張って振り返ったアヤメは大きく目を見開く。どうやら、土に潜り込んで身を隠していたらしい。子供と同じくらいの大きさの人ならぬ骸骨――スタルベビーが地面から半分体を出して、自分の足首を強く掴んでいた。虚ろな眼窩に宿った赤みがかった黄色の光が不気味に揺れてアヤメを見据える。スタルベビーがかたかたと顎の骨を鳴らすと、細く鋭い骨の先が掴まれた足のやわらかな皮膚を突き破った。
 スタルベビーが力を込めてアヤメの足を引っ張ると、人並みに体重のあるはずの彼女の体がずり、と引きずられた。異様な瞳の輝きが近くなって、アヤメはひゅっと息を飲む。
 咄嗟に広場の方に目をやったアヤメだが、家の影に遮られてしまってシークの姿は見えない。恐らく、あちらからも自分の姿は見えていないはずだ。大声で助けを求めなければ、きっと自分は死んでしまう。

「あ、ぅ……」

 ――悲鳴を上げてはいけないよ。父の言葉が喉に絡み付き、助けを呼びたくても声が出ない。そうこうしている内に、スタルベビーは上体を反らして勢いよく腕を振り上げた。白い骨の刃が、炎を反射して赤く染まる。……誰か、誰か。指が恐怖と焦燥で強張り、地面を引っ掻いた爪の間に砂粒が入り込む。
 ――なんかあったら呼べよ。ぎゅっと目をつむったアヤメの脳裏を、青い瞳を笑わせた青年の顔がよぎる。アヤメはその笑顔にすがるように強く地面に爪を立てると、肺が破裂するのではないかと思うほど大きく息を吸い込む。――その喉が、戒めを引きちぎって大きく膨らんだ。

「リンク――!」

 無様なほどに割れた金切り声が辺りに響き渡る。最期の最期で口にしたのが自分の名前だったと本人が知ったら、彼はどんな顔をするだろうか。……澄んだ青空のようなその瞳は、果たして涙に曇るのだろうか。
 ――瞼の裏の暗闇の中で死を覚悟したは、だが暴れる心臓が十回鼓動するのを待っても一向に痛みが来ないことに疑問を覚えて、空っぽの肺にそっと空気を送り込む。……ひょっとして、もう自分は死んでしまったのではないだろうか。自分の悲鳴にじんじんと麻痺していた鼓膜が、ふと軽いものが落ちる音に震えた気がした。同時に、足首を強く掴んでいた拘束が消え失せる。

「なんだよ、でかい声出るじゃん」

 聴覚の戻ってきた耳が、聞き覚えのある青年の声を捉えた。はっと顔を上げたアヤメの視界に、鮮やかな緑が映る。緑の服に、緑の帽子。ハイラル王国の紋章の輝く盾を構え、不思議に神聖な気配を放つ白い剣をその手に提げて、彼は死体も残さずに消える魔物を険しい眼差しで見つめていた。
 ――リンク。唇が微かに動いて彼の名前を紡ぐ。声に出してはいなかったはずなのに、リンクの長い耳はその微かな息遣いを捉えたようにぴくりと動いた。こちらを見下ろした彼の瞳は、あの日と同じように力強い笑みを浮かべている。

「おばさんは無事だ。村のみんなとデスマウンテンのゴロンの里に避難してる。だからアヤメも早く」

 立てるか、と盾を背に戻してこちらに右手を差し伸べる。アヤメがそれに手を伸ばすと、にっとリンクは唇の端を持ち上げた。そしてこちらの腕をぐいと引っ張り上げ、真っ直ぐにアヤメを立たせる。地につけた瞬間、足がずきりとうずいて顔をしかめるが、傷は浅い。痛みも走れないほどではない。
 アヤメが顔を上げてしっかりと頷いたのを確認したリンクは、同じように頷き返して再び盾を右手に構えた。周囲を鋭い眼差しで警戒しつつ、ちょいちょいと腕を動かして着いてくるように合図をする。どうやらデスマウンテンまで護衛してくれるらしい。

「来てくれないかと思ってた」
「なんだよ、約束したろ?」

 ぽつりとこぼれ落ちたアヤメの呟きに、リンクはにやりと得意気に笑ってみせた。――いつの間に、こんなに頼もしくなったのだろう。

「俺だって、アヤメを守れるくらいにはちゃんとオトナになったんだぜ」

 悪戯を成功させた時と同じその笑みが、この時ばかりはこの上なく心強いものに感じた。





[戻る]



×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -