短編 | ナノ


 城下町に甲賀の忍が紛れ込んでいる。服部半蔵がそう知らせを受けたのは、ある春の日のことだった。なんでもその忍は茶屋の娘に扮し、江戸の土地や徳川の戦力に関する情報を集めているらしい。
 それが真実であるとしたら、主の寝所を騒がす鼠を排除しないわけにはいかない。だが行動に移そうにも、偵察に出した草の報告はどうにも信用できなかった。――と言うのも、みな一様にその茶屋の娘の素性に関しては言葉を濁らせるのだ。

「確かに、足跡を辿ればかの娘が甲賀の者であることは明白です。……しかし拙者には、どうしてもあれが忍であるとは思えないのです」

 それ以上問い詰めようとしても、草達はただ首を横に振るばかりで何も語ることはなかった。「あれは――いや、あれは駄目です、違います」とうわ言のように繰り返される言葉がいやに耳に残っている。草は使い物にならぬかとその茶屋を贔屓にしているという武将にそれとなく探りを入れてみたが、その男も「あれはよい娘御だ、今時珍しい孝行者だ」と誉めそやして憚らない。骨抜きである。おまけに半蔵が何も言っていないにも関わらず、よもやあの娘に手を出すつもりかと鼻を膨らませる始末だ。あまりつつくと誤解を招く羽目になりそうだと判断した半蔵は、呆れて物も言わぬ忍に男が疑いを確信へと変える前に、身を翻して影の中へと退散した。
 かの娘はよほど巧妙に自らの正体を隠しているらしい。もしくは、男を籠絡する術に長けた魔性の女なのか。業を煮やした半蔵は、自らの目で確かめることにした。
 腰帯をしかと結び、そこに大小の刀を差す。袴を身に着けず胸元のあわせをいくらか崩しているのは、気を抜いていると見せかけて相手の警戒をやわらげるためだ。髪は総髪にしてうなじで結わい、傷のついた顔は陽にさらしたまま一切隠さない。――これで、自分が『服部半蔵』であることは誰も気づかない。
 彼は昼の最中の空に眩しげに眉を寄せると、屋敷の正面から歩いて城下へと足を運んだ。




 しばらく戦がなかったためか、城下町は穏やかな賑わいを見せていた。井戸の傍らでは袖をたすき掛けにした女達が洗濯の片手間に噂話に花を咲かせ、大通を駆ける子らが道行く大人の笑顔を誘っている。建ち並ぶ店からは客引きの声が止むことがなく、荷を負った旅人がそれに引かれて品を覗き込んでいる。
 半蔵はそれらにいちいち目を配りながら、ゆったりと余裕に満ちた足取りで町中を歩いていた。通りがかる彼に気づいた民達は、その顔を見て「正成さま」とみな丁寧に頭を下げる。
 ――正成。それが民に見せている半蔵の武士としての顔だった。その正体がかの徳川の守護神と並んで恐れられる影の頭領であると知っている者は、城の中ですらごくごく限られている。ましてや、民の中にそれを見破ることができる者は皆無だろう。
 周囲の敬意に満ちた会釈を『武士らしく』涼しげな表情で受け流しながら、彼は通りを左に曲がる。

「これ、アヤメ!」

 覚えのある茶屋の女主人の年老いた声が、ひっくり返ってひとつの名を呼んだ。――件の女忍の名だ。半蔵はその場で足を止め、遠目に茶屋の店先を伺った。

「はぁい、おみつさん! どうしました?」

 一軒の家屋の中から、明るくのびのびとした娘の声が響く。どこか間の抜けたようにも聞こえるその声に、ぴしゃりと女主人の言葉が叩きつけられる。

「あんたって子は、まぁた金勘定を間違えたろう!」
「あら、うそ?」

 半蔵は屋内を移動する草履の音を聞いた。しばらくして、きゃらきゃらと楽しげな笑い声が弾ける。

「やだ、本当! もう、私ったらバッカみたい!」
「全く……そら、笑ってないでお行き。追っかけるんだよ!」
「はぁい!」

 元気の良い返事と共に、店先から芥子色の着物が飛び出してきた。代金を間違えた客を探して左右に首を巡らしたその娘は、半蔵の姿を目にして驚いたように目を瞬かせる。――なるほど、さして特徴のない顔だ。正面から娘を見て、半蔵は無表情に感心した。あえて言うなら瞳がやや大きいのが目につくが、印象に残らないその顔立ちは変装や潜入には打ってつけだ。
 娘――アヤメはその平々凡々な顔いっぱいに笑みを広げた。愛嬌はあるが、数多の男を骨抜きにできるようにはとても見えない。

「あら。いらっしゃいませ、お侍さま」

 彼女は深々と頭を下げると、草履でじゃりじゃりと土を蹴りながら半蔵へと駆け寄ってくる。彼は訝しげに眉を寄せて、込み上げる警戒心と疑心を不審に思われないようその眼差しに溶かし込んだ。アヤメはそれを全く感じていないような素振りで、彼の顔を真っ直ぐに見上げる。

「ちょうど良かった、この辺りでこう――目が小さくて口がへらべったくて、頬骨の目立つ痩せた男の人を見かけませんでした?」

 この辺りにおできがあるんです、と彼女は自分の右の目頭をつつく。それならば、半蔵にも覚えがあった。先程曲がり角ですれ違った男がそうだろう。彼は隙を装いつつも、いつ斬りかかられても対応できるようさりげなく刀の柄頭に手をかけ、ふいと顎でそちらの方向を指し示した。

「あちらで見かけた」
「本当ですか! ありがとうございます、お侍さま!」

 ……どうやら、半蔵の正体に勘づくほどの実力は備えていないようだ。全く無警戒に再度深く頭を下げた彼女は、草履の踵を引きずってその場を走り去ろうとした。――が、足元に小石が顔を出していたのに気づかなかったらしい。思いきりそれを爪先で踏んづけたアヤメは、慌てふためいた声を上げつつ大きく体の平衡を崩す。それを目撃しつつ、半蔵はあえて手を出さなかった。忍びならずとも、常人であれば体勢を持ち直すことはできるだろう。最悪の場合でも、着物の裾が乱れる程度で済むはずだ。
 だがアヤメはそんな憶測を裏切って、半蔵の眼前で盛大にずっ転んだ。砂を巻き込んで地面を滑る音が、二重の意味で痛々しい。

「…………」

 半蔵は表情を消して、倒れ込んだアヤメをじっと見つめる。手を差しのべなかった自分に非があるとは決して思わない。ここまで派手に転んだのが彼女の意図したものである可能性も捨てきれない。……だが、さすがにこうも幼子のように転ばれるとほんのわずかな罪悪感が芽生えてくる気がしないでもない。
 今からでも手を貸して怪我の有無を問うべきか。半蔵の逡巡をよそにアヤメはぴょこりと顔を上げると、顔を庇って擦ったらしい腕を曲げてその内側を確認する。

「いったた……あらら、また破いちゃった」

 生地の破れた袖を見てすっとんきょうな声を上げた彼女は、両手で口元を覆ってくすくすと笑いだした。何がおかしいのかさっぱり理解ができない。呆れながら見下ろしていれば、やがて彼女の笑い声は手のひらに収まりきらなくなって、堤防から決壊するようにどっとあふれだした。半蔵は甲高く耳を刺すそれに頭痛を覚えた気がしてわずかに眉間のしわを深める。

「おや、正成さまじゃありませんか! これはこれは、お久しゅうございます」

 アヤメのけたたましい笑い声に何事かと思ったのだろう、店先から顔を出した女主人が半蔵を目にして声をかけてきた。先程のアヤメと同じく――それよりも遥かに丁寧な仕草で頭を下げた彼女は、ようやく立ち上がって膝の砂埃を払っているアヤメを手招いた。

「これ、アヤメ。戻ってこの方にお茶をお出ししなさい」
「え? でも――」
「釣り銭なんかもういいんだよ。ほれ、早よう――ちょいとお待ち、あんたまた転んだね? 手を擦りむいてるじゃないか」

 眉を怒らせて歩いてくる女主人に、アヤメは目をまん丸にして首をかしげる。矢継ぎ早に言葉を浴びせられたものの、その半分も頭の理解が追いつかなかったのだろう。女主人は、ともかく先に手を洗っておいで、と井戸のある方へと彼女の背を叩いた。アヤメは「はぁい」と間延びした返事をすると、じゃりじゃりと砂の音をさせながらそちらへと走っていった。
 その背を眺めていた半蔵は、胸の内に生じた違和感に目を細める。――あれは、本当に忍としての心得がある者の足運びなのだろうか。下手をすると、そこらの娘より余程危なっかしい。

「すみませんねぇ、騒がしくて」

 先程までの厳しい母のような表情から一転して、くしゃりと笑顔を見せた女主人に「いや」と半蔵は首を振る。彼女に勧められた腰掛けに腰を下ろしつつ、彼はアヤメが消えていった方角を見やった。
 草の口にした報告だけを見れば、彼女の正体は間違いなく甲賀の忍だ。だがこうして実際に自分の目で見ても、その眼差しから所作、気配に至るまでまるきりそのような色が感じられない。
 いくら明るい日の元で暮らしているように装っても、影に生きてきた者はその臭いで判別できる。現に半蔵自身にも、いくら正道を生きる武士になりきろうと消し去ることのできない『裏側』の気配がこびりついているのだ。例えば真田のくのいちや風魔のあやかしほどの者であれば、それを容易に嗅ぎ取ることができるだろう。
 ――それが、アヤメには欠片も感じられないのだ。これが演技なのだとしたら、あの娘は相当な手練れということになるが……。

「あれはお前の娘ではないな」

 湯気の立つ湯呑みを盆に載せて戻ってきた女主人に、半蔵はちらと目を向ける。

「ええ、こないだ難儀していたところを拾ってやったんですよ」

 差し出された湯呑みを受け取って、静かに一口すする。飲み下す前に舌の上で転がし、味や舌触りに違和感がないかを確かめる。毒の味を判別するために身に付けさせられた、物心ついた頃からの癖だ。
 女主人が言うに、アヤメは病気の弟のために、全国津々浦々の神社仏閣を巡って祈願の旅をしているらしい。その旅路の途中、この城下町の付近でついに路銀を使い果たしてしまったのだそうだ。食うにも困って立ち往生しているところを見かねた女主人が、茶屋を手伝う代わりに住まわせてやっているのだという。
 彼女は口元に手を宛がってころころと笑った。甲高く弾けるアヤメのそれとは違い、どこか品すら感じさせるゆるやかな笑い声だ。

「よく働いてくれるのは助かるんですが、何分そそっかしくてねぇ」

 呆れを前面に押し出したため息が、薄い唇からこぼれ落ちる。だが、その眼差しには隠しきれない暖かな色がにじんでいた。口ではなんだかんだと言いつつ、アヤメを可愛がっていることは傍目にも分かる。さしずめ、十にもならぬ内に病に奪われた実の娘と重ね合わせているのだろう。
 ――もしもアヤメが甲賀から差し向けられた間者であれば、あの娘の命は速やかに刈り取らなければならない。そうなれば、この茶屋の主人が悲嘆に暮れることは目に見えている。……だからといって、主を脅かす者に情けをかけることはできない。
 だが、滅すべき者だと判断するのはまだ時期尚早だ。彼女が真に甲賀の者なのか、そうだとしたら雇い主は誰か、その目的は何であるか、もっとよく調べて突き止める必要がある。

「おみつさん、いいかい?」

 新たな二人連れの客が現れて、店先に出ている女主人に声をかけた。団子を二串頼むその声に、彼女は愛想よく応対する。その間に茶をぐいと飲み干した半蔵は、代金を支払おうと袂に手を入れた。

「あっ、正成さま、もうお帰りですか?」

 足音を殺すという概念とは無縁の砂利音を引きずって、アヤメがこちらに駆け寄ってきた。半蔵は巾着から銭をざらりと出すと、彼女の腕を取ってその手のひらに握らせた。その一瞬で、彼はアヤメの手まめの位置を確認する。……やわくはあるが、武器を取る者の手に違いはない。
 アヤメは何を渡されたのか理解すると、にっと口の端を広げて笑う。手を開いてそこにある銭を数えだした彼女だったが、そこで不思議そうに首をかしげた。

「あら? えっと――」

 今度は小さく声に出して、一枚一枚慎重に数える。それでも納得がいかなかったらしく、彼女はその眉頭をきゅっと寄せた。茶を飲んだだけにしては多すぎる。団子を注文したとしても、この金額には決して届かない。とうとう唸りだしたアヤメを見かねて、半蔵は口を開く。

「行方知れずになった客の茶代と、着物の修繕代だ」

 アヤメが弾かれたようにこちらを見上げた。ぽかんと開いたその口がなんとも間抜けである。彼女は三度瞬きをした直後、ようやく何を言われたのか理解したらしく再度笑いだした。鈴を転がすどころか板の間に力一杯叩きつけるようなけたたましい笑い声に、だが予測していた半蔵は表情を変えることなく彼女を見下ろす。演じているのかどうか定かではないが、実によく笑う娘だ。

「なぁんだ、もう! 私ったらまた数え間違ったかと思っちゃいました!」

 顔を真っ赤にしながらひとしきり笑った彼女は、目尻に浮かんだ涙を拭いながら再び半蔵を真っ直ぐに見据えた。その手が彼の節くれだった手を握って、彼自身が飲んだ茶の代金を除いた銭を、同じように握らせる。

「お気持ちはとっても嬉しいんですけど、遠慮します」

 水にさらしたばかりの小さな手が、ひやりと半蔵の手を包み込む。ほのかに朱に染まった微笑みには、一切の裏がないようにも見えた。

「だって、正成さまは何一つ悪いことしてないじゃないですか。道理に合わないお金なんて受け取れません」

 声音は暖かく素直で、その眼差しはまっすぐに半蔵の目を見つめている。半蔵の手にそっと添えられたやわらかな指からは、緊張など欠片も感じ取れない。相手の嘘を見破ることに長けている半蔵の勘が、それが彼女の本音であると告げている。
 あまりにも平凡で――それでいて、忍らしからぬほど清く正しい。居心地の悪さを覚えた半蔵は「そうか」と彼女の笑みから目をそらすと、そのまま背を向けた。これ以上留まっていても、今のところ得るものは少なそうだ。下手に粘って怪しまれるよりも、ここは引き下がって別のやり方で探りを容れた方がよさそうだ。

「ありがとうございます、正成さま! またいらしてくださいね!」

 背を向けた半蔵に、アヤメが元気よく声をかける。わざわざ目で見なくとも、彼女が腕をぶんぶんと振っていることはその騒がしい気配から手に取るように分かった。つくづく忍らしくない娘である。放った草が彼女の正体に言及する際、あれほどまでに口を濁した心持ちが今ならよく理解できる。
 今はひとまず、彼女の身辺を探ることが先決だ。それまで、要注意人物として常に草のひとりを監視につけておく。何かしら動きかあれば、即座に対応できるようにしておかなければ。
 曲がり角でちらりと茶屋に目をやると、疑うことを全く知らぬ満面の笑みが半蔵の背を見送っていた。――たまには、己の眼でも彼女の様子を確かめに来るとしよう。





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