短編 | ナノ

(夢CP版深夜の創作真剣勝負 10/7〜10/14のお題『二人の馴れ初め』)

 ザントは覚束ない足取りで、ソルの恩恵に照らされた深夜の通りを歩いていた。視界が歪み、脳はぐらぐらと揺れている。時折込み上げる吐き気を飲み込んでは、壁に手をついて一息つく。お陰で歩みは遅々として進まない。――こんなことになるのであれば、飲み会の誘いなど断るべきだった。ザントはため息をつきかけて、不意に訪れた強い目眩に額を押さえる。
 ザントに誘いをかけてきたのは、貧民街から実力でのし上がってきた男だった。出世した今も下町に居を構える変わり者ではあるが、その境遇とこざっぱりとした性格のため、民からの人気は高かった。いずれ王となるためには、実力だけでなく人脈も必要不可欠。野心を隠し持つザントは、その誘いに頷かざるを得なかった。
 そんなこんなで街へと飲みに来たはいいものの、残念ながらザントは元々社交的な性格とは言いがたい。人と飲むにしても、ほの暗い明かりの下で治世について語り合いつつ静かに杯を傾けるのが好みだった。……そんな男であるから、飲めや歌えやの馬鹿騒ぎに彼がついていけようはずもなかった。
 結果的に、周囲で騒ぎ立てる者達を尻目にザントはひたすら沈黙を酒で誤魔化すこととなり、普段飲まないような度数ばかりが高い安酒に悪酔いする羽目になったのである。
 ぐっと胃の奥から込み上げるものを感じて、ザントは腹と口元を押さえる。ここまできたら、いっそ一度戻してしまった方が楽になるかもしれない。ちらりとそう思ったのが引き金になってしまったようで、途端に吐き気が耐えがたい波となってザントを襲った。だが壁に手をついて軽く嘔吐いたところで、間の悪いことに前方から足音が聞こえてきた。
 ――こんな醜態を人の目に晒すわけにはいかない。ザントは舌打ちをすると、慌てて目についた路地に逃げ込んだ。




 胃の中のものをあらかた出しきったザントは、口の中のすえたような臭いと不快感に顔をしかめる。逃げ込んだ先にちょうどごみ捨て場があって、心底助かった。彼は懐から取り出した手巾で口元を入念に拭うと、それを吐瀉物をぶちまけたごみ袋に放り込んだ。上手く力の入らない手で不器用に袋を縛り直す彼の口から、低く重たい呻き声が漏れる。
 腹は幾分か楽になったが、脳をかき回されるような酷い目眩は相変わらず続いている。と、路地裏独特の湿気とカビ臭さに刺激されたらしく、空っぽになったはずの胃が再び痙攣しだした。喉を焼く胃液の刺激と突発的な吐き気に、彼は口元を手で覆いながら顔をしかめて体を折り曲げる。

「そこの方」

 不意に、落ち着いた女の声がした。汚ならしい路地裏には似つかわしくない、物静かだが音楽的な響きを持つ声だ。ザントはごくりと唾を飲み込んで胃液を喉へと押し流すと、そちらに眼球を動かした。
 それはどこにでもいるような、それでいてはっとするほど色香を感じさせる女だった。顔形の美しさで言えば、かの王女が遥かに勝るだろう。だが、この女は純粋な美貌とはまた別に、男を惹き付けてやまないやわらかな魅力があった。
 女は静かな足取りでザントに歩み寄ると、顔を傾けて彼の顔を覗き込んだ。その拍子に、豊かに波打つ黄昏色の髪が肩からするりと落ちかかる。――その髪に、一房の金が交じっていた。影の世界では滅多に見ることのない目映い色に、視線がふと吸い寄せられる。

「ご気分が優れないのですね。よろしければ、私のお店で少し休まれてはいかがです?」

 女の唇がそっと言葉を紡ぐのが視界の端に映る。ザントがちらりと顔を上げると、彼女は穏やかな瞳でまっすぐに微笑んだ。その細くしなやかな指先が、促すように彼の手をそっと取る。体がふらりとそちらに傾いたのは、恐らく酔いからくる目眩のためだろう。女はくすくすと笑いながら、やわらかく手を引いて彼を一枚の扉の奥へと誘った。
 ――暗い階段を女に支えられながら下ると、そこは狭苦しい酒場だった。明かりは最低限で、客は誰もいない。どうやらすでに閉店した後であるらしい。彼女はカウンター席にザントを座らせると、水の入ったグラスを目の前に差し出した。

「お代はいりませんよ」

 からんと中の氷とぶつかって音を立てたグラスから、しなやかな指が離れていく。それを見送った彼は、彼女の指の跡をなぞるようにグラスについた水滴に触れる。

「この店では水に金を出さねばならぬのか」
「時と場合と相手に依りけり、です」

 不満げに顔をしかめたザントの言葉に返ってきたのは、含みのある言葉に反した無邪気な笑い声だった。振り返ると、女は悪戯っぽい光を瞳に躍らせてザントを上目遣いに見つめていた。どういう基準で選んでいるのかは分からないが、どうやら自分は水に金を払わなければならない人種として見られているらしい。それを勘弁してあげているのだ、と彼女は笑みを含んだ視線で告げた。

「その代わり、お片付けで騒がしいのは我慢してくださいね」

 ――成る程、とザントは苦笑を浮かべてグラスを持ち上げた。水の代金うんぬんは、文句をつけられぬための予防線だったようだ。もとより介抱されている身であるから不満を言う気などさらさらないのだが、酔っ払いには理屈の通じない者が多い。こうやってやんわりと条件を提示することで、彼女は角を立てることなく身を守っているのだろう。……そのような無作法者と同じ目で見られているというのは不愉快だったが、実際に酔っている男が言っても栓なきことだ。
 言葉を飲み込むようにぐいと水をあおると、胃酸で焼けた喉が心地よい冷たさに癒される。空っぽのまま不快感を訴えていた胃も、幾分か落ち着いてくれたようだ。一息ついて女を見やった彼は、テーブルを濡らした布で拭く彼女をじっと目で追いかける。
 彼女が体を動かす度、黄昏色に交じった金の髪が揺れる。薄暗い室内でそこだけが淡く輝いているようにも見えて、彼は目を細めた。
 ――不思議な女だ。ほの青く光る肌も、伏せられた瞳の色も、黄昏の影に染まったものに違いない。だがその穏やかな面差しや体つきの優美さは、どことなく文献に残っている温かな陽の光を思い起こさせる。

「光の民の血が混じっているのか」

 あり得ないことだと分かっていながらも、ザントの口はそう動いていた。すると、彼女は顔を上げてゆるやかに首を横に振る。

「いいえ。あなたと同じ、純粋な影の民ですよ」

 淀みのない答えである。その口振りからして、恐らく言われ慣れているのだろう。
 女は布巾を雑に畳むと、ゆったりとした足取りでカウンターの向こう側に回る。

「私達はみな、かつて光の世界に住んでいたと聞きます。そう考えると、そこまで不思議なことでもないと思いませんか?」

 流しで布巾をゆすぎながら、彼女は明るい微笑みと共に視線をこちらに向ける。――光の世界の者は、そうやって笑うのだろうか。夕闇の冷たさに触れたことすらないような笑みの目映さに、ザントはかすかな胸の痛みを覚える。

「美しいものだな」

 素直にそうこぼしたザントに、女はくすぐったげに笑い声をこぼして自分の髪に触れた。金色の房がほつれて、黄昏色がその隙間から覗く。

「ふふ、自慢の髪です。お陰で、巷じゃ『太陽』なんて呼ばれてるんですよ」
「『太陽』か」

 口の中で繰り返して、じっくりと女の全身を眺める。――なんとも彼女にしっくりと馴染むあだ名だ。小さな笑みを口元に上らせたザントは、グラスを傾けると中の水を飲み干した。濡れた氷が薄い唇にぶつかって、その冷たさと痛みが夢見心地だった彼の意識をわずかに引き戻す。
 グラスをカウンターに置くと、彼は大きく息をついて目蓋を下ろした。まだ後頭部がぼんやりと痛み、脳がゆるく回っているのが感じられる。……だが、歩けないほどではなさそうだ。
 カウンターに手をついて椅子から降りると、女は気遣わしげに眉を寄せてこちらに駆け寄ってきた。足音がほとんどしないのは、爪先でふわりと跳ぶように足を運んでいるからだろう。

「もうよろしいのですか?」

 女は高い位置にあるザントの顔を下から掬い上げるように覗き込む。長い袖にそっと添えられた細い指は、直接腕に触れていないにも関わらず、ぞくりとするほど甘やかな感覚をもたらした。ザントは意識して呼吸を制御し、表情を平静に保ちつつ頷く。

「ああ。世話になった」

 後程礼を、と続けようとした彼は、ふと口を閉ざして女の顔をまじまじと見つめた。そういえば、まだ彼女の名すら聞いていなかった。するとザントに向けられた視線からその意図を察したらしく、女はとろけるような笑みを広げて上目遣いに彼を見返した。

「アヤメと申します。気が向いたら、今度はお客様としていらしてくださいね、ザント様」

 しなを作って囁かれた自分の名に、ザントは面食らって思わず瞬いた。その表情がよほど滑稽だったのか、アヤメと名乗った女は口元を両手で覆って楽しげに笑う。どこかあどけなさすら感じる無邪気な笑い声に彼女を怒る気にもなれず、彼は苦笑しながらほんのりと顔を赤らめた。





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