短編 | ナノ

(2017ホワイトデー)

 ――手にした花束の根本を握り締めると、それを華やかに包む紙がかさりと音を立てた。
 少しは気分が落ち着くかもしれませんよ、とアヤメから菓子を受け取ったのが一月前のこと。その日に女から男へ渡す菓子に意味があることを知ったのが半月前だ。貧民街生まれのやたら馴れ馴れしい男にそれを聞いて以来、ザントはあの酒場に顔を出していない。日々降り積もっていく不平不満が、それら全てを受け止めてくれる彼女の元へ足を運ばせようとするのだが、訪問の知らせを送る寸前でいつも思い止まってしまう。『愛の告白』をしてくれた相手に顔を会わせるのが、妙に気恥ずかしいのだ。
 その菓子を手渡された時に目にした、普段とさして変わらない大人びたアヤメの微笑が脳裏に浮かぶ。その度に、ザントは指先が熱を持つのを感じた。彼女は果たして、その日に異性に菓子を渡す意味を知っていたのだろうか。小さく甘い欠片に密やかな想いを託して、自分にひっそりと告げたつもりでいるのだろうか。そうして思いを巡らしている内に、ずるずると月日は過ぎていく。
 ――そして、その日に貰った菓子に返礼をする日が存在すると知ったのが、つい三日前の出来事だった。
 ザントは人気のない酒場の裏口に立ち、彼女への贈り物を無造作に持った手を見下ろす。長い袖口に上手い具合にすっぽりと隠れているお陰で、移動中人の目を引かずに済んだのは僥倖だった。後はこのまま、彼女にこれを渡すだけでいい。だが、彼の表情は浮かなかった。
 ……やはり、花束など安直にすぎただろうか。ザントはその口から重たい吐息を押し出す。
 幸か不幸かそうした機会についぞ恵まれなかった彼は、女性への気の利いた贈り物などさっぱり見当もつかなかった。身につけられる装飾品がよいのか、それとも消えものには消えもので返すのがよいのか。そもそも、相手が本気かどうかすら判別がつかぬのだ。下手に高価すぎるものを送って、空回りすることだけは避けたい。恥を忍んでミドナや宮殿内の者に訊ねるという手もあったが、いらぬ詮索を招いてしまうのは目に見えている。
 そうして三日間悩みに悩み、考え抜いた結果がこの花束だったというわけだ。
 だが、こうして改めて己の選択を振り返ってみると、あまりにもベタな気がしてくる。だが、これ以外の選択肢はすでに様々な理由をつけて切り捨ててしまった後だ。花を却下するとなると、もう贈る物自体がなくなってしまう。
 ……もうそれで構わないのではないか。ザントは顔をしかめてその目をちらりと脇のごみ捨て場に向けた。

「いっそ、捨ててしまおうか」

 何気なくこぼした言葉がまだ躊躇いに揺れているのを自分自身で感じ取って、彼は舌打ちしたい気分になった。
 と、目の前の扉が突然大きな音を立てた。不意をつかれてびくりと肩を揺らした彼は、無意識の内に一歩引きつつもなんとか表情だけは平静を保とうと努める。
 こちら側に開かれた扉の向こうには、目を真ん丸に見開きながらこちらを見つめるアヤメの姿があった。手には店で出たごみをまとめたのであろう大きな袋を提げている。今から捨てにいくところだったらしい。
 彼女は驚いたように目を瞬かせたが、次いでふわりと花がほころぶようにその頬に笑みを広げた。

「あら、ザント様。いらしていたのですね」

 首を傾けると、さらりと髪が肩をすべる。その中に交ざった一房の金色が、路地裏の薄暗さの中に目映く輝いた。「ちょっと待っていてくださいな」とアヤメがザントの脇をするりと通り抜ける。近づいた長い髪から香ってきたほのかな甘い匂いに気を取られている間に、彼女は手に持った袋をごみの山に放る。なかなか重たげな音が狭い路地裏に反響した。そこでザントはようやく、手伝った方がよかったかと己の気の利かなさを呪った。
 だがそんなザントの思いとは裏腹にアヤメは微塵もそれを気にする様子もなく、いつもの笑顔のままこちらを振り返る。

「さあさ、中へどうぞ。そんなところに突っ立っていたら、お風邪を召してしまいますよ」

 彼女は扉を大きく開いてザントを店の中へと迎え入れた。いつもならば手を取るなり腕を組むなりして中へといざなうのだが、ごみ袋を触った手でこちらに触れるのは気が引けたらしい。……助かった。もしもいつも通りに腕を組まれていたら、手に持っているものに気づかれてしまっていただろう。安堵に口元をゆるめつつ店の裏手に足を踏み入れれば、背後でアヤメが扉を閉めた。その瞬間、逃れられない現実が再び眼前に突きつけられる。
 ――いや、助かってなどいない。むしろ逆だ。ザントの手には、未だ花束が握られている。これをこのまま袖の内に隠しておくのにも限界があるだろう。ごみ捨て場への道が遮断されてしまった今、彼女に気づかれることなくこれを捨ててしまうのは不可能。とすると、もう渡すしかない。抜き差しならない事態に陥ってしまっている。

「しばらく、お見えになりませんでしたね。どうなさったのかと心配したんですよ」
「ここしばらく、雑務に忙殺されていたのでな」

 足元に気を配るふりをして打開策を総当たりで探しながら、ザントはアヤメに返事をする。忙しかったというのは決して真っ赤な嘘ではない。王の側近という地位には、それ相応の義務が付きまとうものだ。彼の高い実力をもってすればさほど労をかけずに処理できるものの、それでも日々形を変えて訪れてくる問題を煩雑に感じることには変わりない。その上平穏な生活にだらけきった者達の仕事まで自身に回ってくるとなると、無用な苛立ちは募っていくばかりだ。こうして時間をなんとかやりくりしてでも誰かに愚痴をこぼさなければやっていられない。
 アヤメは「そうでしたか」と声の調子を落とした。気遣わしげなやわらかい声色が優しく耳を撫で、ザントは彼女に見えないのをいいことにうっすらと笑みを浮かべた。久しく聞いていなかったためか、なおさら鼓膜に心地よい。
 ――とうとう、何も思いつかぬ内に店の表にたどり着いてしまった。素朴ではあるが接客用に小綺麗に整えられた店内に足を踏み入れれば、必要最小限に絞られたやわらかな照明が目に映る。ザントは勝手知ったる店の中を足早に進むと、花束を持つ手を彼女から隠すようにいつものカウンター席に腰を下ろした。アヤメはその側をふわりと横切り、流しで手を洗い始める。

「今日は何になさいます? お疲れでしたら、あんまり強いものはお薦めしませんけど」
「ああ。そう、だな――」

 じとりとした嫌な汗が手のひらににじむ。この手に握ったものを目の前に差し出せば、アヤメはどのような反応をするだろうか。このあまりに凡庸な選択を、彼女に好意を寄せられているという思い上がりを、嘲笑いはしないだろうか。
 緊張のためか、口の中が乾く。そのせいで舌が粘っこく貼り付いて、なかなか言葉が出てこない。黙り込んでしまったザントを不審に思ってか、手を洗い終えたアヤメが厚手の布で水気を拭き取りながら眉をひそめる。

「ザント様? もしかして、本当にお加減が悪かったりします?」

 彼女はゆるりと首を傾けてカウンター越しにザントの顔を覗き込む。この影の世界に住む誰よりも光に近い面差しをした彼女は、ザントの瞳を持たぬ目には必要以上に眩しく映った。動揺しつつ、乾いた口を潤す水を求めてカウンターに視線を走らせたが、そこにはまだ何もない。
 ――もう、破れかぶれだ。ザントは意を決して席を降り立った。自分はいずれ影の王となる者なのだ。たかが一人の女への贈り物で決断を躊躇っていては、人の上に立つことなど夢のまた夢である。
 ザントの突飛な行動に反応し損ねているアヤメの前に、長い袖をまくったザントは無造作に花束を差し出した。それを目にした彼女の表情が、ぱっと驚きに彩られる。

「まあ、これは――」

 この日のあだ名にあやかって白を基調とした花をまとめたそれは、店の控えめな灯りを吸ってやわらかく輝いている。照れが邪魔をしてあまり大きなものを用意することはできなかったが、かえってそれが花の上品さを際立たせていた。

「この間の礼だ。取っておけ」

 相手の反応や表情を見るのが照れ臭くて、ザントはふいと目を背けた。少し間を置いて、強張るその手からするりと花束が抜き取られる。ここまで来たら、もう何と思われようが知ったことか。ザントは捨て鉢になりつつ彼女の言葉を待った。……が、いつまで経っても何も反応が返ってこない。恐る恐る視線をそちらに戻せば、アヤメはただまじまじと白い花を見下ろしていた。
 ――まさか、よほど気に食わなかったのだろうか。焦燥に駆られて問い質そうと口を開いた直後、アヤメがしなやかな手で口元を覆ってくすくすと笑いだした。さもおかしいものでも見たかのようなその笑い声に、ザントはむっと口角を下げる。

「何がおかしい」
「違います、嬉しいんです!」

 アヤメが首を横に振って否定すれば、束ねられた長い髪が大きく揺れる。直後に普段のゆったりとした静かな表情からは想像もつかないような満面の笑みを向けられ、ザントは面食らって目を瞬かせた。

「だってまさか、ザント様にこんな素敵なお花をいただけるなんて! しかも、今日この日に!」

 明るい笑い声を上げながら、彼女は白い花を顔に寄せてをうっとりと眺める。――そのような顔もするのか。大人びた外見には似つかわしくない無邪気な少女のような眼差しに意外な一面を見た気がして、ザントは口を閉ざしてじっと彼女を見つめる。そんな彼の視線を意識する様子もなく、アヤメは両腕に大切そうに抱いた夢中になってカウンター内をぐるぐると歩いている。

「どこに飾ろうかしら。お店に置いたらお酒臭くなりそうで可哀想よね。……ふふ、いい匂い! そうだわ、寝室の置物を片付ければちょうど空きが――」

 一際大きな一輪の花をその長い指で揺らしたところで、ふと彼女は口をつぐんだ。同時に落ち着きなく動いていた足もぴたりと止まる。強張ったその顔がみるみる血の気を帯び、耳の先まで染まっていく。……ようやくこの場にザントがいることを思い出したらしい。
 ゆっくりとアヤメはザントを振り返った。失態を隠すように口元を手で覆ったその上で、瞳が恥じらうように揺れる。余裕に満ちた振る舞いでザントを翻弄している普段の姿など見る影もない取り乱しようだ。アヤメはなんとかいつもの穏やかな笑みを浮かべようとしている。が、眉根が下がったままではなんとも言えず情けない。

「あ、あら。ごめんなさい、私ったらついはしゃいじゃって。今、お酒の用意をしますね」
「いや」

 ザントは首を横に振って、短く彼女の行動を遮る。そこでふと、自分の口元に笑みが浮かんでいることに気づいた。

「構わぬ。その花がそれほど嬉しかったか、アヤメ」
「……ええ」

 答えを躊躇って視線をさ迷わせたアヤメだったが、先程喜びを露にしてしまったことを思い返して誤魔化しようがないと判断したのだろう。控えめに頷いて、やわらかな眼差しをその花束に落とした。

「こんな歳になると、誰もお花なんてくれないものですから」

 どこか愛しげにさえ見えるその瞳に、だがザントはむっと唇を引き結んで分からないほどわずかに目を細める。――彼女は自分以外にも、男から何かしらを贈られたことがあるらしい。誰にとっても太陽のように暖かく振る舞う彼女のことだ。きっと、心からの笑顔と共にそれを受け取ったのだろう。……今と同じように。
 だが、アヤメにも立場というものがある。こういった心地のよい居場所を提供する者として、客を無碍に扱うことなど彼女にはできないはずだ。誰にでも愛想を振り撒くからといって、彼らと同じく単なる客の一人に過ぎぬザントが、それを責め立てることなどできない。……理解してはいるが、どうにも気分が悪い。彼はアヤメの顔を見ていられなくなって顔を背けた。不貞腐れたような表情をしていることは自覚している。
 と、不意に静かな笑い声がほの暗い店の中に静かに響いた。

「なんて顔をしてらっしゃるんですか、ザント様」

 アヤメはその女性らしい優雅な手をザントの平らな頬に宛がうと、ほとんど力を込めないやわらかな手つきで彼を自分の方へと向かせる。そうして、ぐいと身を乗り出してザントの顔を覗き込んだ。視線を半強制的に交わらされて、ザントはくらりと軽い目眩を覚えた。

「子供の頃から、ずっと憧れてたんです。いつか素敵な人に、こんな風に小さな花束をもらうこと」

 秘め事を打ち明けるような、無垢で甘やかな囁きが耳にこびりつく。彼女が目を笑みの形に細めると、その瞳孔がゆっくりと開いていくのがはっきりと見えた。

「だから、今までの贈り物の中で一番嬉しいんです」

 ザントは彼女の謎めいた光を宿した瞳から目をそらすこともままならず、かと言ってその言葉を素直に受け取る気にもなれず、ただ揺らぐ感情に流されまいと己を戒めるように口角を下げた。

「……その言葉、嘘偽りではあるまいな」
「もう、なんですか。こんなことで嘘なんかつきませんよ」
「誓ってか」
「ええ、誓って」

 笑みを深めた彼女の瞳が静かに遠ざかる。最後にするりと頬を滑って離れた指を追いかけそうになって、彼はぐっとその衝動を堪えた。アヤメはそんなザントの気を知ってか知らずか、くすくすと楽しげに笑っている。

「ありがとうございます、ザント様。大切に致しますね」

 両腕に抱えた小さな白い花束を顔に寄せて、彼女は幼子のような笑顔をこちらに向ける。その一点の翳りもない無邪気な笑みを目にすると、普段のしとやかな微笑みはこの子供じみた本質を隠すためのベールだったのだろうかとすら思えてくる。――それを見せてくれているということは、少なからず自分に心を許してくれていると考えてもいいのだろうか。
 ひょっとしたらそれが彼女のやり口なのかもしれない。そうと疑いつつも、ザントは表情をほころばさずにはいられなかった。





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