短編 | ナノ

(2017バレンタインデー)

 その話をあの侍女の耳に入れてしまったのは、アヤメの人生の中でも最大級の過ちだったかもしれない。廊下の曲がり角に隠れて男女の会話の一部始終を見守りながら、彼女はひっそりとため息をついた。
 ――故郷には、女性が男性に菓子を贈って愛を告白する風習がある。何かの話のタネになるかと思って、ゼルダに何気なく話を切り出したまではよかった。だがそのとき、アヤメはすっかり失念していたのだ。二人の傍らで紅茶を注いでいた件の侍女が、とんでもないお喋り好きだったことを。
 女性というものはただでさえ、恋や愛だのという話題に弱い生き物である。その真理は世界の境を越えても変わらない。どちらの世界でも、娘達の間では惚れた腫れたの噂話が飛び交い、真偽のほどの分からない占いやまじないがまことしやかに語り継がれている。その伝播力と影響力は計り知れない。かく言うアヤメも、そういった占いの類に手を出したことのあるひとりだった。
 ……つまりどうなったかと言うと、その話がハイラル城中に広まってしまうのに一日もかからなかった。

「これを、あなたにと思いまして……。甘いものが苦手と聞いたから、葡萄酒を用意しましたの」
「ありがとう。今夜、これを共に開けようじゃないか。もちろん、私の部屋で」
「まあ」

 甘ったるい。非常に甘ったるい。何故行く先々でこのような男女が愛を囁き合う光景に出くわさなければならないのか。アヤメはガノンドロフに届ける予定の書類を握り潰したくなるのを懸命に堪えながら、そっと壁の影に体を引っ込める。近道だからといって、この人通りの少ない廊下をなんの躊躇いもなく選んだ自分の浅はかさが恨めしい。
 あのとき、おしゃべりな侍女に聞きとがめられていなければ。あの日、廊下で声をかけてきた使用人に詳しい行事内容を説明しなければ。イベントに興味を持った貴婦人達の質問責めをうまくはぐらかせていれば。そもそも、単なる話題作りとしてゼルダに話すことなく、己の胸に留めておけばよかったのだ。

「愛しているよ、私の小鳥」
「ああっ、嬉しい……」

 もう我慢ができない。終わるまで待っていようとあえて留まっていたが、このままだとこっ恥ずかしくて息ができなくなってしまう。アヤメは漂ってくる空気の甘さに堪えかねてぐっと呼吸をつまらせると、踵を返してその場を足早に立ち去った。無論最低限の気遣いとして、二人の邪魔にならぬよう足音を忍ばせながら。




 十分に距離を取ったことを確認してから、彼女は盛大に息をつく。今日この日、この城の中で何組の男女がこの行事に参加しているのだろうか。仕事の邪魔になるのなら、いっそのこと全員破局してしまえばいいのだ。心の中で毒づいたアヤメは、だがそこでふっと表情をゆるめて苦笑する。

「……なーんて、私もちゃっかり用意しちゃってるんだけどね」

 ひとりの恋する女として、アヤメも何も準備していなかったわけではない。執務室にある棚の奥には、今日中にガノンドロフに渡す予定である菓子がこっそりと隠されていた。
 さすがに舌の肥えたガノンドロフを相手に手作りする勇気は持てなかったので、城下の有名店まで足を伸ばして買い求めたものである。やたらと売れ行きが好調なのをひたすら不思議がっていた店の主人を思い出して、アヤメは不覚にも小さく吹き出してしまった。
 だが用意したはいいものの、こうまで大々的になってしまってはどうにも二の足を踏んでしまう。耳の早い彼のことだ、すでにこのイベントの詳細についても聞き及んでいることだろう。……本当はイベントのことは伏せて、彼にそうと悟られないよう渡すのをひそやかな楽しみにしていたのだが。

「あの――あなた様に、こちらを」

 またか。行く先から聞こえてきた儚げな女性の声に、アヤメはげんなりしながら再び別の道を行こうとその場を後にしかけた。が、直後に聞こえた声が浮きかけたその足を絡め取る。

「私に? ……ご婦人、あまり人をおからかいめさるな」

 低く張りのある、落ち着いた声。普段は皮肉と嘲笑に歪んでいるはずのその声音は、だが今は人前であるからだろう、幾分か誠実そうな響きを纏わせている。あまりにも聞き慣れたそれに、アヤメはひやりとしたものを背筋に感じて立ち止まった。
 ――まさか。そんな、馬鹿な。血液が逆流して、心臓が不規則な鼓動を刻む。この場から逃げたくなる衝動に逆らってゆっくりと振り返ったアヤメは、柱の影にその身を潜めて慎重に現場を覗き込んだ。
 遠目ではあるが、そこにあったのはまぎれもなくガノンドロフの背中だった。相対しているのは、朝霧を織り込んだような薄青のドレスに身を包んだ撫で肩の女性だ。ゆるく結われた金の巻き毛が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いている。その細面はいかにも儚げで美しく、磁器人形のようになめらかな頬に刷かれたほのかな色は、まさしく恋する女のそれだった。洒落た小箱に添えられた白くか細い指先はいかにも華奢で、一切の穢れを知らないようにすら見える。
 女性は高い位置にあるガノンドロフの顔をまっすぐに見上げると、手に持った小さな箱をそっと差し出す。そのやわらかな手つきは、付け焼き刃のマナーでしかないアヤメのそれとは違い、生来の優雅さから滲み出てきたものだった。

「ガノンドロフ様。わたくしは真実、あなた様をお慕い申し上げているのです。あなた様に命をお救いいただいたあの日から、ずっと――」

 さっと顔を青ざめさせたアヤメは、甘く濡れた女性の青い双眸を愕然と見つめる。まさか、自分と同じようにガノンドロフに恋心を抱く女性が現れようとは思わなかった。しかもこんな、夢の花園から抜け出してきたような美しい女性が。
 アヤメは固唾を飲んで二人の様子を見守る。彼女の差し出したものが、例の行事に必要な菓子の類であることは明白だ。これほどまでに美しい女性に想いを寄せられて、平静でいられる男は少ないだろう。
 ――あの女性は、ガノンドロフに命を救われたのだと言う。この二人の間に何があったのかは分からない。だが、彼が人の命を助けるとなると、それ相応の理由があったはずだ。もしかして、もしかすると、彼女の儚げな美にさしもの彼も心を揺り動かさずにはいられなかったのではないか。もし、そうなのだとしたら――。
 アヤメは胸に書類を押し抱き、おもむろに目を細めた。かすかに震えるその指が、徐々に色と温度を失っていく。
 遠くに見えるガノンドロフは、だがアヤメの懸念とは裏腹にふと彼女から目を離すと頭部を傾けた。どうやらため息をついたようだと、見慣れた仕草を目にしたアヤメは瞬時に判別した。

「あの出来事は忘れた方がよい。以前もそう申し上げたはずだ」
「いいえ、忘れるなどできようはずもありません。闇に輝く琥珀の眼差しに見据えられたあの夜、あの瞬間に、私の心はいまだ囚われたままなのです」

 女性は首を横に振り、切々と想いを口にする。わずかにひそめられた柳眉がその苦悩を物語り、わななく唇が夜毎の悲しみを訴える。その目尻に光る涙さえ見えた気がして、アヤメは胸に迫るものを覚えて呼吸を詰まらせた。
 遠目から見てこれなのだから、間近でそれを目にしているガノンドロフの心情はどれほど強く揺さぶられていることだろうか。自分だったら情動に流されてその身を胸にかき抱いている。
 だが、ガノンドロフはそこでゆるりと首を振った。相手が目上であることを承知で組まれた腕から、彼女の差し出した品も想いも一切受け取る気がないという頑なな意志が如実に伝わってくる。

「諦めたがよろしい。あなたに捧げられるような優しい心など、私は持ち合わせておらぬ」
「ですが――!」

 女性はなおも食い下がろうと一歩前に出る。ガノンドロフの瞳を見上げた彼女だったが、その表情がにわかに悲しみに曇った。どれほど訴えようと、彼の心は欠片も自分に向くことがないのだと察したらしい。彼女の憂わしげに伏せられた睫毛が小さく震える。

「――分かりました。ですがせめて、これを受け取るだけでも」
「遠慮させていただこう」
「何故?」

 ――何故。アヤメも女性と同じ気持ちでガノンドロフの赤い髪を見つめる。これほど一心に自分を慕っている女性を無碍に扱うとは、いくらなんでも酷いことをする。アヤメは先程まで剣呑な目つきで成り行きを見守っていたことも忘れて、今にも泣き出しそうな美女に同情心すら抱きそうになった。これでは彼女があまりにも不憫ではないか。
 彼女の問いを受けて黙り込んでいたガノンドロフが、不意に重心を片足に移す。体の角度が変わって、これまでほとんど後頭部しか見えていなかったガノンドロフの横顔がわずかに覗く。

「私は存外、狭量な人間のようだ。この両手は、ひとりの愚かな女に押しつけられた想いを抱えるだけの余裕しかない」

 その口の端に浮かべられた薄い笑みに、ほんの一瞬、アヤメの時が止まった。彼の紡いだ言葉の意味するところを図ろうとした彼女は、みるみる内に顔が熱くなっていくのを感じて頬に手を宛がう。その『ひとりの女』というのは、まさか――。

「それに、だ」

 彼は言葉に皮肉めいた色を含ませると、おもむろに彼女の儚げな美貌へと己の顔を近づけた。唐突な彼の行動に、女性はぎょっとして距離を取る。その反応を目にしたガノンドロフは何を思ったか、口の端をつり上げて瞳を歪ませた。

「お忘れか。ご婦人にはすでに、その御手を取るにふさわしい別の殿方がいらっしゃる」

 嘲笑をにじませた揶揄に女性が言葉を失えば、ガノンドロフは興味を失ったようにあっさりと身を翻してこちらに足を向けた。――まずい。アヤメは慌てて柱の影に引っ込んだものの、すぐに思い直して肩の力を抜く。恐らく、もう手遅れだろう。彼は気配に敏い。その上、彼女は先程うっかり自分が殺気を放ってしまったことも自覚していた。それに気づかないガノンドロフではない。
 ゆったりとした重たげな靴音が徐々にこちらに近づいてきて、アヤメの真横でぴたりと止まる。軽くため息をついて見上げれば、こちらをじろりと睨む金の瞳と目が合った。

「ガノンドロフ様」

 眉をやわらかく寄せて苦笑しながら、アヤメは一礼する。あの女性の自然な優雅さと見比べると遥かに見劣りのする、いっそ野暮ったさすら感じるお辞儀である。それにいくらか居心地の悪さを覚えながら、彼女は顔を上げた。

「遅い。どこで油を売っていた、アヤメ」
「申し訳ございません。至るところで足止めを食らいまして」

 ガノンドロフはふんと鼻を鳴らすと、再び前に足を踏み出した。アヤメは当然のようにそれに追従する。背後にいるはずの女性の存在が気がかりではあったが、彼女がどのような顔をしているかを振り返って確かめる勇気はアヤメにはなかった。
 彼女は小走りでガノンドロフの後を追いながら、揺れる赤い髪を見上げる。あの女性と過去に何があったのか。彼女に真摯な想いを寄せられてなんとも思わなかったのか。そして彼がその両手に抱える『想い』は、果たして誰から受け取った――もしくは受け取る予定である――ものなのだろうか。
 訊ねたいことはそれこそ山ほどあった。だが、ガノンドロフが聞き耳を立てていたアヤメを咎めないのを見るに、この話題には決して触れるなと暗黙の内に拒絶されていることは明白だ。もしくは、聞かれても問題がないくらいには重要な話題でもなかったのか。どちらにせよ、あえてこちらから踏み込むこともない。
 ただひとつだけ、確かめるとしたら。

「戻ったら、お茶をお淹れします」

 アヤメはそっと、前を歩く彼の背に呼び掛けた。ガノンドロフの答えがないのをいいことに、彼女はそのまま言葉を続ける。

「それで、今日はお茶菓子も持ってきまして。……その、よろしければ――」

 その先を言えずに口ごもった彼女は、ふと視線を落とす。
 ――もし受け取ってもらえなかったとしたら。彼の両手に抱えられた愛が、別の人物のものだったとしたら。ぐるぐると巡る思考にに阻まれて、視界が狭くなっていたらしい。前を歩くガノンドロフが立ち止まっていたのにも気づかずに、アヤメは「わぶっ」と情けない声と共に彼の背中に頭突きをしてしまった。たたらを踏みながら、彼女は慌てて距離を取る。

「し、失礼致しました」

 あまりの失態に顔を真っ赤に染め上げた彼女は、口元を覆い隠して彼から目をそらした。自分のそれほど自慢にもならない胸がその尻に直撃を食らわせてしまったことは、彼にも分かっただろう。……穴があったら入りたい。
 頭上から、じっと見下ろしている気配を感じる。一体なんなのだ。何か言いたいことがあるならば思う存分言えばいいではないか。アヤメは羞恥心のあまり半ば投げやりな気持ちになって唇を尖らせた。

「ちょうど小腹が空いていたところだ」

 ぱっとアヤメは顔を上げる。ガノンドロフはすでにこちらに背を向け、呆気に取られているアヤメを置いてずんずんと廊下を先へと進んでいた。次第に小さくなっていく背中をじっと見つめていたアヤメだったが、その表情がにわかに綻ぶ。

「――はい」

 彼に届かないことを承知で、彼女は小さな声に甘い色を載せてそっと囁く。遠ざかっていく想い人を追おうと踏み出したその足取りは、ふわりと軽やかだった。





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