短編 | ナノ

(アズマ様リクエスト)


昼間だというのに、館はどんよりとした闇に包まれていた。人の呼気を思わせる生暖かく不快な湿気が肌にまとわりつき、肺に入る空気すら重苦しい。警戒心の強いリスのように辺りを見回したアヤメは、普段は綺麗に掃除されているはずの天井に蜘蛛の巣が張っているのを見つけて眉を寄せた。……あの下は通らないようにしよう。
 空気に溶け込むように静かな少女の笑い声が耳元で聞こえた気がする。アヤメは胸元に押し付けた拳の力を強めると、前を歩くトゥーンリンクに声をかけた。

「ねぇ、トゥーン君」
「なに?」

 振り返った少年は、大きな猫目をくりっと動かしてこちらを見つめる。普段と変わらぬその様子に、アヤメは心の中でこっそりと安堵を覚えつつ問いかける。

「その……怖くないの?」
「ちょっと怖いよ。でも呪いかけてきたりするわけじゃないし、だったら平気かなって」

 平然と答えるトゥーンに、アヤメは弱ったように眉根を下げた。そんなことは分かっている。オバケはこちらを追いかけはしても、傷つけることは決してない。ただ、彼らに触れるとゲームオーバーになるだけだ。……だが突然にゅっと壁から出てきて驚かされるのは心臓に悪いし、攻撃も足止めもできないものに追いかけられるのはやはり恐ろしい。
 どうして、よりにもよってお化け屋敷だったのだろう。アヤメはちらりと壁にかかっている絵を見やる。普段は牧歌的な風景画が額縁の中で人々の心を和ませているのだが、今はおどろおどろしい骸骨が暗い眼窩をこちらに向けていた。
 ――お化け屋敷を行うことにした。マスターハンドが食堂でそうアナウンスした時、アヤメは瞬きをするばかりで何も言うことができなかった。他のファイター達はどうやらマスターハンドの突発的な行動に慣れているらしく、どこか諦めた表情でそれを聞いていたのを覚えている。そして簡単なルール説明を挟んだ数分後には、ファイター達全員がこの廃墟と化したスマブラ館にバラバラに放り出されてしまっていたのだ。
 アヤメの場合はすぐ傍にトゥーンが飛ばされてきていたから問題なかったが、そうでなければ延々とこの暗い館を一人でさ迷うはめになっていただろう。
 今にも動き出さんばかりの絵を、アヤメは警戒の眼差しで睨みつける。そんな彼女の様子をじっと眺めていたトゥーンが、不意に大きな目をにやりと細める。

「あっれー? もしかしてアヤメ、怖いの?」
「だ、だって――」

 トゥーンの方へと目をやった瞬間、ケタケタと大きな笑い声が聞こえてきてアヤメは思わず飛びずさった。見ると、額縁の中の骸骨がこちらを嘲笑うように口をかたかたと鳴らしている。……なんと趣味の悪い仕掛けだ。ため息をつきながら、激しく脈打つ心臓の上でぎゅっと拳を握って息を押し出した。花瓶が急に動いたり、窓に突然ヒビが入ったり、不気味なフランス人形が不意に倒れたり――マスターハンドはこちらの心臓を止める気なのだろうか。

「しょうがないなぁ」

 トゥーンのどこか楽しそうな声に視線を向けると、不意に小さな手が目の前に差し出された。豆だらけの、だがまだ子供らしさの残る幼い手のひらである。――この手は一体どういう意味なのだろう。彼の意図を計りかねてじっとトゥーンを見つめれば、彼はさらにぐいと手を押し出してくる。

「ほら、手」

 そこでようやく、アヤメは彼の思いを察することができた。同時に、じわりとその顔に苦笑が広がる。まさか、こんな年端もいかない少年に気遣われてしまうとは。
 ……だが、今日ばかりは少し甘えさせてもらうのもいいかもしれない。ほんの小さな子供に見えても――実際に子供なのだが――彼も世界を救った立派な勇者なのだから。アヤメは控えめに頷くと、自分よりもずっと小さな手のひらに、遠慮がちに自分のそれを重ねた。




 トゥーンに手を引かれながら、アヤメは周囲に視線を巡らせていた。ほんの小さな物陰やおどろおどろしい小道具のひとつひとつに警戒心を抱いては、傍を通りすぎる度に驚かされるまいと肩に力を入れる。その緊張が繋いだ手から伝わっているらしい。トゥーンは時折振り返っては、悪戯っぽい笑みをアヤメに向けてからかうのだった。

「聖剣、見つからないね」

 誰もいないのに勝手に演奏をしているピアノに背を向けながら、トゥーンはつまらなそうに唇を尖らせる。アヤメは軽快に跳ねる鍵盤から目を離すことなく、ゆっくりと頷いた。
 ――館のどこかに隠された聖剣エクスカリバーを手に入れた勇者だけが、亡霊の巣窟と化したこの館を元の姿に戻すことができる。それが、マスターハンドの示したゲーム終了の条件だった。お化け屋敷に聖剣とはまたなんともミスマッチな組み合わせであるが、ここが洋館であることを考えればそれもありなのかもしれない。
 それはともかく、先程から部屋をいくつも回っているのだが、一向に聖剣らしきものが見つからない。誰かがもう手に入れてしまったのだろうか。……いや、それはないだろう。仮にそうだとしたら、マスターハンドから端末に連絡が来るはずた。
 陽気なピアノの演奏が狂気じみた旋律へとエスカレートしていく。トゥーンはちらりとそちらに目を向けると、手を伸ばしてでたらめな鍵盤をひとつ押した。――糸を切ったように、ふつりとピアノの音色が途絶える。アヤメはそれ以上動きがないことを確認すると、そっとピアノから目を外す。

「次は美術室だね。今度こそ、あるといいんだけど」
「美術室かぁ……」

 ぽつりと繰り返したアヤメの脳裏に、笑う石膏像・呪われた絵といった単語が次々に浮かんでは消えていく。……あまり考えていても仕方がない。アヤメは首を横に振って不安を追い出すと、トゥーンに手を引かれながら音楽室を後にした。
 次の部屋に向かおうとした二人は、廊下の先を見て思わず立ち止まる。

「あれは……」
「ファルコさん? どうしてこんなところに」

 二人の視線の先には、廊下の壁にもたれかかるようにして座り込むファルコの姿があった。一瞬眠っているのだろうかとも思ったが、不安定に揺れる頭と微かに聞こえてくる呻き声からしてそういうわけでもなさそうだ。
 アヤメはトゥーンと繋いでいた手をするりとほどくと、ゆっくりと彼に歩み寄って顔を覗き込むように膝を折る。後ろから、遅れてトゥーンがやって来る。

「あの、どうされました? ひょっとして具合でも――」

 ファルコはアヤメの呼び掛けに反応して、ゆっくりと顔を上げる。いつものことながら、表情は読めない。瞳がわずかに揺れて、その嘴がかすかに開いたような気がした。何か言おうとしているのだろうか。アヤメは首をかしげつつ顔を近づける。
 と、無造作に持ち上げられたファルコの手がアヤメの肩をわし掴む。ぎょっと体を強張らせて目を見開くと、彼は緩慢な動作で口を開き、頭部を傾けてはアヤメの首筋へと顔を寄せ――。

「アヤメ、危ない!」

 不意に舌ったらずに名前を呼ばれて、アヤメは反射的にファルコを突き飛ばして距離を取った。同時に、ファルコに向かってピンク色の球体が飛び込み、丸い体から突き出た脚で彼を蹴り飛ばす。その姿に、トゥーンが目を真ん丸に見開く。

「カービィ、それにネスも!」

 ――今、自分はファルコに何をされようとしていたのだろう。どうしてカービィがファルコを攻撃したのだろう。混乱しながらも振り返ると、ネスが廊下の向こうから駆け寄ってくるのが見えた。彼は慌てたようにアヤメの手を掴むと、矢継ぎ早に問いかける。

「大丈夫、アヤメ? 怪我は? まだ噛まれてないよね?」

 噛まれる。その単語にアヤメはますます困惑した。自分は噛まれるところだったのか。だがどうして彼がそんなことをするのだろう。そもそもファルコの嘴の中に歯はあるのか。意味が分からずに戸惑いながらも頷くと、ネスは大きく安堵の息をついた。

「よかったぁ、アヤメまでゾンビになっちゃうところだったよ」
「ゾ、ゾンビ?」

 予想だにしなかった単語にアヤメとトゥーンは目を白黒させる。ネスは神妙な表情で頷くと、カービィのストーンを食らって廊下を吹き飛ぶファルコに目を向ける。かなり痛そうな攻撃だったが、吹っ飛び方からして今の館では乱闘ルールが適用されていることが分かる。ファルコに怪我はないはずだ。

「残念だけど、今のファルコは意志を持たないただのモンスターなんだ。あの時、マスターハンドに逆らったばっかりに……」
「そんな……!」

 ……これ、お化け屋敷なんだよね? ネスとトゥーンの会話を聞きながら、アヤメは突っ込みたい衝動を懸命に堪えていた。
 ファルコを廊下の向こうに追いやったカービィが踵を返してこちらに戻ってくる。どんよりと暗い廊下を駆けてくるファンシーな彼の姿に、アヤメはどこか心が慰められたような気がしてゆるりと笑みを浮かべる。

「ただいま、みんな! ファルコが復活しないうちに、早くここから逃げないと――」
「待って」

 元気に跳ねたカービィの言葉を遮って、トゥーンが静かに口を開いた。三対の視線が幼い勇者に注がれる。彼は緊張の面持ちで廊下の向こうを顎で指し示す。

「これは……」

 そちらを見やったネスの口から、重たい呻き声がこぼれる。
 廊下の向こうから、脇にある部屋から、天井に空いた穴から、数十体ものゾンビが出現してこちらに歩み寄ってきてきたのである。その大半がアヤメの殻にも使われているMiiをベースとしたモブゾンビだが、その中に見知った顔をいくつか見つけてアヤメは眉を寄せた。
 ――戦うしかなさそうだ。アヤメが拳を握って半歩身を引き、トゥーンがマスターソードを背の鞘から引き抜く。と、緊張感を漂わせる二人の前に、カービィとネスが進み出た。思わず目を見張る二人に、カービィが体を半分だけ向けて口元を微笑ませる。

「トゥーン、アヤメ。ここは僕達に任せて、早く聖剣エクスカリバーを!」
「でも、それじゃカービィ達が――」
「僕達なら大丈夫」

 落ち着き払って言い切ったネスの指に、超能力によって生み出された雷が明滅する。振り返った彼のつぶらな瞳には、決然とした静かな光があった。

「生きて帰って、また一緒に遊ぼう!」

 ネスはそう告げて、カービィと共にゾンビの群れに向かって突っ込んでいった。トゥーンは言葉を詰まらせながら彼らの勇姿を見送ると、アヤメの手を取って全速力で駆け出す。自分よりも足の速い彼に半ば引きずられる形で走りながら、彼女は困惑に視線を揺らしていた。
 ……これ、お化け屋敷なんだよね?




 息せき切って階段を昇った二人は、そこでようやく足を止めた。どちらともなく、というよりも、トゥーンが体力の少ないアヤメに気を遣ったと言った方が正しいかもしれない。汗ばんだ手がするりと離れていくと、彼女は力の抜けたように上半身を折り、大きく肩で呼吸をしながら二度咳き込んだ。

「大丈夫?」

 トゥーンの心配そうな声音に、アヤメは口元を押さえながら頷く。ゾンビとの戦いに乱闘ルールを適用するなら、疲労度の無視も同じように付け加えてほしかった。恐らく、恐怖を薄れさせないための演出なのだろう。マスターハンドも趣味が悪い。
 アヤメがなんとか呼吸を整えて顔を上げると、真っ直ぐにこちらを見据える大きな猫目と目が合った。

「行こう、アヤメ。二人の仇を討つためにも、聖剣を探さないと……!」
「そ、そうだね」

 真剣そのものの顔で決意を示す彼の雰囲気に飲まれそうになりながら、アヤメは曖昧に頷く。ネスもカービィもたぶん死んではいないと思うのだが。……トゥーンのこれがただの『ごっこ遊び』であることを祈ろう。
 差し出された手を取って廊下を歩く。この階はアヤメの部屋もある居住区域だ。まさか一人一人のファイターの個室に顔を突っ込んで聖剣を探さなければならないのだろうか。そこはかとなく胸にかかる罪悪感に、アヤメが視線を泳がせたその時である。

「ピカチュウ!」
「ピカ!?」

 ピカチュウが廊下の角からひょこりと顔を出した。驚くトゥーンの声にピカチュウもまた驚いたようで、目をぱちくりと瞬かせては神経質にぴくりと耳を動かした。一瞬の硬直の後、三人は素早く戦闘体制を取る。――だが、すぐに彼らの警戒は解け、互いの顔に笑みが浮かんだ。

「よかった、ピカチュウも無事だったんだ!」
「ピカピ!」

 トゥーンがアヤメの手を引っ張りながらピカチュウに駆け寄っていく。ピカチュウも嬉しそうに手を振ると、四つ足になってこちらに向かってきた。と、ピカチュウの後ろからのそりと現れた巨大な影に、アヤメはびくりと立ち止まる。

「ふん、まだ生きておったか。存外しぶといものだ」
「あ……ガノンドロフさん、でしたか。ご無事だったんですね」
「見くびるな。我を誰だと思っておる」

 眉を寄せて不機嫌も露にこちらを見下ろしてくるガノンドロフの冷たい眼差しに、アヤメは困ったように笑みを浮かべる。相変わらずの素っ気ない応対である。
 ――とにもかくにも、頼れる大人と合流できて本当に良かった。アヤメはこっそりと胸を撫で下ろす。トゥーンやピカチュウも勿論頼りがいのある強いファイターであることに変わりはないのだが、やはりどっしりと構えた年上がいてくれると安心感が段違いだ。

「ピカピ!」
「ピカチュウ君も。頑張ったね」

 足元で服を引っ張ってアピールしてくるピカチュウの頭に手を伸ばして撫でてやる。彼は上機嫌に甘えた声で鳴くと、今度はトゥーンの元へ歩み寄る。自分にも甘えてきたのか、と思ったらしいトゥーンが手を伸ばしたが、ピカチュウはその手を前足で掴むとぐいと力を込めて引っ張った。

「あっちに何かあるの?」

 まるでそちらに導こうとするようなピカチュウの仕草に、トゥーンが不思議そうに角の向こうを覗く。

「あちらに、狂暴な亡霊どもが不自然なほどに密集している区画があった」

 ガノンドロフが不意に口を開く。彼の不機嫌そうな顔に目をやったトゥーンとアヤメは、その言葉の意味を察して互いに顔を見合わせる。どうやら、考えていることは同じらしい。トゥーンは真剣な表情でガノンドロフを再度見上げる。

「もしかして、そこに聖剣が?」
「かもしれぬ。……あの地帯を通り抜けるには小柄なものでなければ不可能だろう。だが、それでも単独で向かうのは自殺行為に近い」

 淡々と説明しながら、ガノンドロフは険しい眼差しを廊下の向こうへと向けた。……彼の言葉が正しいとすると、恐らくこの場でその危険地帯に向かえるのはトゥーンリンクとピカチュウしかいない。アヤメも小柄な方ではあるのだが、残念ながら機敏さにはイマイチ欠ける。恐らく切り抜ける前にオバケに捕まってしまうだろう。
 そんなアヤメの考えを察したのか、ピカチュウが小さな拳を作って自信ありげに自分の胸を叩く。

「ピカ!」
「囮は任せろ、と言いたいらしい」

 ガノンドロフの通訳が正しいことを示すかのように、ピカチュウは大きく耳を揺らして首を縦に動かした。トゥーンは太い眉をきゅっと寄せて神妙な顔つきになると、ピカチュウをじっと見つめながらゆっくりと頷く。

「アヤメ。俺、行ってくる」

 彼の瞳の静かながらも強い輝きに、アヤメはふっと微笑みを向ける。

「気を付けてね」
「うん! 聖剣エクスカリバーを手に入れて、この悲劇を終わらせてみせるよ!」

 元気のいい笑顔を見せて、彼はピカチュウと共に旅立った。全ては悪を打ち倒して異変を正し、元の穏やかで平和な日常を取り戻すために。――頭の中でそんなモノローグを流して手を振りながら、イマイチ本気になれない自分にアヤメはちょっとした後ろめたさを覚えたのだった。




 トゥーンとピカチュウが戻ってくるまで、ガノンドロフとアヤメは脇の一室で待機することになった。お化け屋敷アレンジでボロボロになってはいるが、内装の武骨ながらも重厚な魔王感と椅子のサイズからして、まず間違いなくクッパの私室だろう。勝手に邪魔をして少々申し訳がない。
 巨大なソファの隅にちょこんと腰掛けながら、アヤメは腕を組んで立っているガノンドロフをこっそりと覗き見る。いくら憧れの人物とはいえ、沈黙の中で彼と二人きりというのはどうにも落ち着かない。せめてこの部屋にピアノでもあればよかったのだが。

「女」

 不意に低い声をかけられて、アヤメはびくりと肩を跳ね上げる。視線に気づかれてしまっただろうか。彼は何を考えているのか読めないしかめっ面を彼女に向ける。

「館を徘徊している生ける屍には遭遇したか?」
「は、はい。ファルコさんと――あと、大勢」

 質問に素直に答えると、彼は「そうか」と相槌を打って黙り込んだ。……何が言いたいのだろう。じっと視線を注いでいると、彼は再び口を開いた。

「違和感を覚えぬか?」

 ――違和感? 首をかしげるアヤメをじろりと睨みながら、彼は静かに言葉を続ける。

「彼奴らの動きは緩慢で、その動きも単調だ。対して、ファイターはすべからく歴戦の猛者。――にも関わらず、何故ファイターが次々とその毒牙にかかっているのであろうな」

 確かに、とアヤメは顎に指を添えた。言われてみれば少々不自然だ。自分は反応の鈍さ故に噛まれそうになってしまったが、戦いの真っ只中で生きてきた他のファイターまでもが同じような手口に引っ掛かるとはとても考えられない。

「……油断したか、もしくは誰かに騙された、とか」
「そう思うか」

 ゆらり、とガノンドロフが動き出し、重々しい足取りでこちらに歩み寄ってくる。彼が一歩近づく度に、呼吸を圧迫されて知らず体が強張っていく。
 ガノンドロフは身を屈めると、ソファに座ったまま硬直したアヤメの肩に手を置いた。鼻先がつきそうなほど近づいた顔がにやりと笑い、不自然に尖った犬歯が歪んだ唇の間から覗く。それを見た瞬間、疑うよりも先にぞわりと背筋が総毛立った。――彼は『敵役』だ。

「油断をしたな、女」

 ガノンドロフは咄嗟に逃げ出そうとしたアヤメの動きを上からのし掛かるようにして抑えると、口を開いてゆっくりとアヤメの首筋に顔を寄せていく。男性ものの整髪料だろうか、つんとする香りがかすかに鼻を掠めた。二人の距離の近さを自覚したアヤメはかっと顔を赤らめると、思わず呼吸を止めて固く瞼を閉ざす。願わくは、痛みが一瞬であることを祈ろう。
 ――と、不意に耳元でチッと舌打ちをする音が聞こえた。自分の体に覆い被さっていたガノンドロフが素早く身を翻すのを感じたアヤメは、次の瞬間何かがぶすりと体に刺さる衝撃を感じた。何かと思って目を見開くと同時に、その体が引っ張られるようにして宙を飛ぶ。
  なんとか着地をしてたたらを踏んだアヤメを支えたのは、小さな子供の腕だった。

「トゥーン君!」
「やっぱり、そういうことだったんだな」

 フックショットでアヤメを引き寄せたトゥーンは、マスターソードを引き抜いてガノンドロフと相対する。目論見が失敗したことを悟ったガノンドロフが、不愉快も露に表情を歪めた。

「ふん。あの電気ネズミめ、しくじりおったか」
「危うく、してやられるところだったけどね」
「ぴ、ピカチュウ君もグルだったの?」

 ぎょっと目を見開いたアヤメがトゥーンを見やると、彼はゆっくりと頷いた。その答えに、てっきり彼はシロだと思っていたアヤメは思わず天を仰ぎそうになった。……だが、もし二人がタッグを組んで悪事を働いていたとしたら、ひとつはっきりする。
 ガノンドロフとピカチュウは、マスターハンドが用意した『敵役』だ。恐らくはお化け屋敷にスパイスを加え、さらに面白くスリルのあるものにしようと二人に役どころを振ったのだろう。でなければ、ピカチュウが魔王に与するはずがない。
 緊迫感に満ちた空気の中、トゥーンがガノンドロフとの距離をじりじりと詰めていく。ガノンドロフはマントを翻すと、小馬鹿にしたような表情で鼻を鳴らす。

「愚かな。聖剣すら持たぬ身で我に敵うとでも?」
「そんなこと関係ない。これ以上被害を広げないためにも、『俺達』はやらなきゃいけないんだ!」

 ……まさか私にも戦えと言うのか。アヤメはガノンドロフの強さを思い出して一瞬げんなりとしたが、背に腹は変えられない。せっかく恐怖に耐えてここまで頑張ったというのに、それが報われることもなくゲームオーバーという結末はあまりにも拍子抜けだ。アヤメは半歩身を引いて戦闘スタイルを射撃タイプに変更すると、小さな勇者と共に強大な魔王へと挑みかかった。
 ――ガノンドロフにこちらの攻撃は一切通用しないと気がついたのは、戦い始めてすぐのことだった。やはり彼が宣言した通り、『敵役』を退治するのにはこのお化け屋敷のどこかにあるという聖剣が必要らしい。トゥーンの持つ退魔の剣の輝きでさえ、闇を斬り払うことは不可能なのだ。
 ガノンドロフの蹴りをまともに食らったトゥーンが吹き飛ばされ、壁に強く背を打ち付けられる。アヤメははっと息を飲み、追い討ちをかけようとする魔王に最大までチャージしたエネルギー弾を放つ。だがそれを察知した彼がマントを翻しただけで、アヤメの渾身の攻撃はいとも呆気なくかき消えてしまう。ぎろりと輝く眼差しを向けられて、彼女は無意識に身を竦めた。

「どうした、この程度か」

 せせら笑う魔王の背後で、トゥーンがなんとか体を起こす。普段の乱闘であればもっと機敏に起き上がれるのだが、やはり疲労が無視されないのは痛い。持久力のなさがファイター随一であるアヤメなど、ガノンドロフの攻撃を避けているだけだというのにもう体力が底をつきかけている。

「このままじゃ……」

 トゥーンが息を軽く弾ませながら顔を歪める。このままでは、二人ともゾンビになっておしまいだ。今はトゥーンを連れて逃げ、一早く生存者に危機を知らせるか聖剣を探した方がいいかもしれない。そう結論を出したアヤメは、三者の位置関係からどうやってこの場を切り抜けるかを計算し始める。
 とにもかくにも、まずはガノンドロフに真意を悟られないようトゥーンに近づかなければ。ゆっくりと足を動かしたアヤメの踵が、不意に踵に何かの棒のようなものを踏んづけた。体勢を崩して咄嗟に足元に視線を走らせた彼女は、そこにあった意外なものに思わず目を瞬かせる。
 ――何故、クッパの私室にバールが。不審に思って眉を寄せたものの、次の瞬間ある可能性に思い至った。

「トゥーン君、これ!」

 彼女はそのバールを掴んで振りかぶり、残された力を込めて思いきりぶん投げた。ガノンドロフの脇を通り抜けたバールは一直線にトゥーンに向かって飛んでいく。突然投げ渡されたそれを見事に右手で受け止めた彼は、訝しげにその工具を眺める。
 ――不意に、バールが淡い光を纏い出した。その光に、はっとトゥーンが何かに気づいて目を見張る。

「ま、まさか……エクスカリバー『ル』?」

 ――聖剣・エクスカリバール。それはホラーゲームが浸透した現代に語り継がれる至高の武器。ゾンビに人間、はたまた宇宙から来たクリーチャーまで、大体これさえあればなんとかなるという伝説の工具である。
 マスターハンドが用意していた聖剣とはこれのことだったのだ。情けなく眉根を下げてこちらを見やるトゥーンに、アヤメは重々しく頷いてみせる。

「ふん、たかが棒切れ一本で何ができる」
「や、やってみなきゃ分かんないだろ!」

 彼はマスターソードを背負った鞘に納めると、その代わりにエクスカリバールを正面に構えた。どことなくやけくそ気味に見えるのは、恐らく気のせいではないだろう。

「いくぞ、ガノンドロフ!」

 地面を蹴って高く飛び上がる勇者を援護しようと、アヤメは気力を振り絞って再び砲身を構えた。



 結論として、ガノンドロフはバールで打ち倒すことができた。倒されて消え行く――ゲームオーバーで待機場所に戻ったのだろう――ガノンドロフも信じられないと言いたげな驚愕の表情を浮かべていたが、それよりも印象的だったのがトゥーンの虚ろな瞳だった。

「……俺、勇者なんだよね」
「う、うん」
「持ってるのバールだけど、勇者なんだよね」

 バールを振り回してオバケやゾンビを軽々と撃退しながら、トゥーンが遠い目をして呟く。自分に言い聞かせるような彼の言葉に、アヤメは思わず苦笑をこぼす。気持ちは分からなくもない。何せバールだ。全ての黒幕であるマスターハンドとの対決に挑むというのに、バールなのである。

「大丈夫、トゥーン君は立派な勇者だよ」

 アヤメは元気づけるように、繋いだ手をぎゅっと強く握った。びっくりギミックにも随分と慣れ、トゥーンがオバケを退治できるようになった今、彼女が抱いている恐怖は薄れかけてきている。トゥーンにもそれは分かっているはずだ。にも関わらず、彼はアヤメが怖くないようにと、こうして手を握っていてくれているのだ。その心遣いが、アヤメには嬉しかった。

「だから、最後まで私のこと、守ってくれると嬉しいな」

 トゥーンリンクはアヤメの微笑みを見上げると、きゅっと唇を引き結んで瞬きをする。次いで照れ臭そうに笑みを見せると、繋いだ手を握り返してくれた。





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