短編 | ナノ

(涼様リクエスト)


 買い物を明日にまわす、という選択肢も考えなくはなかった。だが以前から気になっていたドーナツ屋がこの日限りの大セールを開催するとなれば、タウンに降りないわけにはいかなかったのだ。例え、雨が降りそうなどんよりとした曇り空であったとしても。
 ――アヤメが店を出る頃には、タウンはすっかり様変わりしていた。日の光は分厚い黒雲に遮られ、町全体が暗く曖昧な陰の中に包まれている。ざあざあと大粒の雨が石畳を叩く音が耳にうるさい。下手に気温が高いせいで、じとりと肌に張りつくような湿気が不快でならない。ため息をつくと、重たい水の匂いで肺の奥まで満たされた。
 顔にかかる水しぶきに目を細めながら周囲を見渡すと、ちらほらと傘を忘れたらしい人が店の軒下で雨宿りをしているのが目に映る。

「結構大降りになっちゃったなぁ」

 ぽつりと呟いたアヤメは、もう一度ため息をついて傘を広げる。出掛け際にたまたまゲッコウガと顔を合わせていて本当によかった。彼に傘を持っていくよう促されていなければ、今頃ここで立ち往生していただろう。みずタイプ様々である。
 ぴしゃん、と濡れた地面に意を決して一歩を踏み出す。せっかく買い求めたドーナツのためを思うと、雨の中に長居はできない。店の人が親切にも箱にビニールをかけてくれてはいるものの、この天気だとあっという間に湿気てしまいそうだ。
 ドーナツを守るように体に引き寄せて早足で歩いていると、ふととある店の軒下に見覚えのある緑があるのが目に映った。

「あら、ルイージさん?」

 雨のカーテンの向こうにいたのは、買い物袋を手に提げたルイージだった。どうやら彼は傘を持ってき損ねてしまったらしい。壁に背を預け、帽子越しにぼんやりとした眼差しで今にも落ちてきそうな空を見上げている。
 そっと歩み寄っていけば、その足音が向こうに聞こえたらしい。彼はこちらに気づいて驚いたように目を瞬かせると、いつもの少し困ったような気弱そうな笑みを向けて手を上げてみせた。

「アヤメ? やあ、奇遇だね」

 アヤメは薄く微笑みを浮かべ、軽く会釈をしてそれに応える。

「こんにちは、ルイージさん。傘、持って来られなかったんですね」
「あはは、まさか降るとは思ってなくて……」

 ルイージは照れ臭そうに笑いながら鼻の頭をかいた。失敗したなぁ、と小さな呟きが彼の口からこぼれるのを聞いたアヤメは小首をかしげて苦笑をこぼす。無理もない、天気予報でさえ今日一日は降らないと断言していたのだ。アヤメのように誰かに未来予知でもしてもらうか、あるいはよほど用心深い性格でもない限り、大雨で難儀しないというのは不可能だったに違いない。
 彼はひとつ物憂げなため息をつくと、アヤメの持っている傘に目を向ける。

「それに引き換え、アヤメは準備がいいね」
「いえ、私はたまたまゲッコウガさんに教えてもらってたので」
「なーんだ、そういうことか」

 合点がいったように晴れやかな笑顔をしたルイージと顔を見合わせて、くすくすと笑う。ひとしきり笑ったアヤメは、ざっと不意に強まった雨に思わず肩を竦めた。大丈夫かい、と気遣わしげにこちらを覗き込むルイージに苦笑を返しつつ、アヤメは気を落ち着けようとひとつ息をつく。
 傘に落ちる雨音は鼓膜に痛いほどに大きくなっている。地面に跳ね返る水で、脚もすっかりずぶ濡れだ。傘の下からそっと空を伺っても周囲は一面の黒雲で、雨がやむどころか雨足が弱まる気配すらない。
 このままでは、ルイージが館に戻ることができない。彼を見捨てて自分だけ帰るのも不可能ではないが、こうして知り合いが困っているのを前にして何もせずにはいさようなら、というのも気が引ける。

「じゃあ、一緒に帰りますか」

 差した傘をちょんと持ち上げて微笑みかけると、ルイージは仰天したらしく目を大きく見張って飛び上がった。

「えっ!? い、いいよ! ボクは雨がやんでから帰るからさ」
「いつになるか分かりませんよ」

 目の動きで空を指し示してみせる。彼もそれについては薄々そう感じているようで、黒い空を見上げて困ったように眉根を下げた。アヤメと彼女の持つ傘、そして当分はやみそうにない雨。それぞれを順繰りに見た彼の口から、雨音にかき消されそうなほど小さな呻き声が漏れる。その頬がわずかに赤らんでいるのが見て取れた。

「で、でもその、やっぱり悪いよ」

 表情から察するに、彼の場合は『悪い』というより『恥ずかしい』感情の方が勝っているようだ。気持ちは分からなくもない。アヤメとて、いい年をした男女二人が同じ傘を差して歩くというシチュエーションに気恥ずかしさを覚えないというわけではないのだ。
 だが背に腹は代えられない。アヤメはあえて本心を隠し、朗らかに笑ってみせる。

「私は気にしませんよ。こんな雨ですし、しょうがないじゃないですか」

 ルイージはぐっと息を詰まらせたかと思うと、上目遣いにこちらの顔を見つめてきた。

「そ……そうだよね。しょうがないんだよね」

 声音がワントーン下がっている。……その眼差しが心なしか残念そうに感じるのは気のせいではないだろう。親切にしてくれるのはありがたいが、少しは男として見てもらいたい――ひょっとしたら、そんなプライドめいたものが彼にもあったのかもしれない。男心は複雑である。
 ――本当は誘ってるこちらだって照れ臭いのだと、そう伝えたら彼はどんな顔をするのだろうか。心優しい彼のことだ、アヤメが嫌であるならばと快くこちらの申し出を遠慮するに違いない。
 だからアヤメは知らぬ顔を続けることにした。このまま彼を置き去りにして自分だけ帰るなどという人倫にもとる行い、自分にできようはずもない。親切の押し売りだというのは百も承知の上であるが、今日この時ばかりは自分の良心と羞恥心には目をつぶっていてもらおう。

「大丈夫ですよ。からかわれたって堂々としてればいいんです」

 ルイージを勇気づけると同時に、自分を鼓舞しつつアヤメは微笑む。そうとも、これは人助けなのだ。大雨に降られて立ち往生しているルイージを見過ごせなかっただけであって、決してやましい気持ちなどない。他人に見られたからといって、なんの恥じらうことがあろうか。

「帰りましょっか」

 にこりと穏やかに笑って傘を彼の方に差し出すと、ルイージは顔を真っ赤にして俯きながらいそいそと傘の下に入ってきた。




 ボクが持つよ、と言われたアヤメは目を瞬かせて隣のルイージの顔を見上げた。アヤメが持っているのはドーナツの箱だけだ。それだって、人に持ってもらうほど重くはない。不思議には思ったが、親切にしてくれるというのならばお言葉に甘えようか。
 ドーナツの箱を手渡そうと腕を持ち上げかけたアヤメの予想を裏切って、遠慮がちにのばされたルイージの手は、指が重ならないようそっと彼女から傘の柄を取り上げた。

「ほら。ボクの方が背、高いから」

 ぽかんと口を開けて自分を見つめるアヤメに、ルイージはそう言って笑いかける。照れが混じりつつもふわりとやわらかなその笑みに、アヤメはわずかに顔を赤らめて微笑みを返す。――ほんの一瞬、彼がいつもよりずっと頼もしげな存在に感じたのだ。

「……ありがとうございます」

 アヤメが持ってきた傘は女性用の華奢なもので、二人で使うにしては少し小さい。現に、傘からはみ出しかけたアヤメの肩はすでに雨しぶきに濡れている。身を寄せ合って歩けば濡れないのかもしれないが、アヤメはこれ以上距離を詰めるつもりはなかった。
 触れそうで触れない肩からじりじりと相手の緊張が伝わってくる。なんだか自分まで体に力が入ってしまいそうだ。目だけを動かしてそっとそちらを見上げると、表情を強張らせたルイージの横顔が目に入った。それをじっと見つめたアヤメは、ふっと小さく笑みをこぼす。これ以上近づきでもしたら、彼が卒倒してしまいかねない。
 不意に、前を見据えたまま彼が口を開いた。

「その……なんだか緊張しちゃうね」
「そうですね」

 アヤメはあくまで穏やかに笑いながら同意する。すると彼はちらりとこちらを見やり、気難しげに眉を寄せてみせた。

「アヤメ、ホントに緊張してるの? 全然そうは見えないけど」
「してますよ」

 胡乱げにこちらを見つめるルイージに、アヤメはくすくすと静かに笑う。こちらが意識的にリラックスしようとしていることもあるのだろうが、恐らく彼は自分があまりにも緊張しすぎているために、相手がそうでもないように見えているのだろう。
 ――そんなことはない。アヤメは困ったように苦笑する。こちらだって、男性と触れ合いそうなほど近くにいて何も感じないほど朴念仁ではない。例え平然と笑っているように見せていても、きちんと照れているし、しっかり気恥ずかしいし、当然緊張だってしているのだ。……あまり説得力はないかもしれないが。

「だって男の人と相合傘なんて、そうそうないですし」
「そ、そっか。そりゃそうだよね」

 傘が不安定に揺れてアヤメの方へ傾いた。相合傘、と直接言葉にしてしまったのが悪かったのだろう。見上げたルイージの泳ぐ眼差しには、彼の動揺が如実に表れている。……そこまで意識されるのを目の当たりにすると、誘ったのが少しばかり申し訳なくなってきた。
 だが、ここで謝るのもこちらが意識しているようでなんとなく気恥ずかしい。それ以外にどんな言葉を彼にかけたらいいかも分からず、結局アヤメは開きかけた口を閉ざして小さな苦笑をその目元に浮かべた。

「相合傘、かぁ」

 視線を前に戻そうとしたアヤメは、雨音に混じって隣から聞こえてきた小さな呟きにもう一度彼を見上げる。彼は帽子のつばを下げて目元を隠していたが、その頬がわずかに赤みを帯びているのが分かる。そうなんだよなぁ、と唇が声を出さずに動いた。
 ――そう、相合傘なのだ。いくら傘のないルイージを気の毒に思っての人助けのつもりだったとはいえ、今のこの状態がそう呼ばれるものであるという事実は変わらない。事情を知らぬ者の視界には、自分達はどう映るのだろうか。

「なんだかカップルみたいですよね」
「うっ」

 低く呻いたルイージは帽子のつばを上げると、情けなく眉毛をハの字にした顔をこちらに向けた。

「せっかく意識しないようにしてたのに、酷いじゃないか」

 頬を耳まで真っ赤に染めたルイージの悔しさと羞恥心のないまぜになった表情がなんとも可愛らしく感じて、アヤメは明るく笑った。こうした彼の反応を見ていると、なんとなくではあるが彼をからかいたくなる周囲の人々の気持ちが分かったような気がする。
 だが、あまりからかわれるのも気分のいいものではないだろう。彼女は眉根を下げて微笑むと、軽い口調で謝った。

「ごめんなさい。お詫びに、後で買ってきたドーナツお裾分けしますね」

 湿気てるかもしれませんけど、とアヤメは肩を竦めてみせる。いくらビニール袋を被せてあるとはいえ、傘を差していても足が膝まで濡れてしまうほどの雨だ。中のドーナツが無事であると保証することはできない。
 アヤメの言葉に、ルイージはその眼差しをこちらの荷物に向ける。さすがに、いい年をして菓子で機嫌を取られるのは不満だったらしい。その表情は、心なしかむくれているようにも見える。

「……ねえアヤメ。ボク、子供扱いされてる気がするんだけど」
「そんなことありませんよ」
「本当に?」
「本当ですって」

 アヤメは疑わしげに眉を寄せるルイージにくすくすと笑うと、穏やかな眼差しですくい上げるように彼を見上げる。

「そうじゃなかったら、こんなにドキドキしてませんよ」

 悪戯っぽく声をかければ、ルイージは息を詰まらせて黙り込む。その様子に、アヤメはにこりと楽しげな笑みを向けた。





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