短編 | ナノ
夜の平原の心地よい涼風を肌に感じながら、アヤメは上機嫌で魔物がひしめく野営地を散歩していた。人の身だとこの風は少々堪えたかもしれないが、魔に染まったこの体なら寒さも関係ない。魔物達が談笑したり糧食を奪い合ったりしているのを楽しげに眺めながら、彼女は軽い足取りで歩んでいく。
不意に、その目に真っ赤な布がひらりと映り込んだ。夜目にも鮮やかなその色に惹かれて顔をそちらに向けると、何やらギラヒムがボコブリン達を怒鳴り付けている。恐らく、ギラヒムがちょっとしたことで難癖をつけているのだろう。彼の虫の居所が悪い時にはよくあることだ。
アヤメは落ち込んだ様子で正座をするボコブリン達を見てくすりと笑うと、軽く地面を蹴った。ふわりと宙を舞い上がった彼女の体は、そのままギラヒムのすぐ後ろに着地する。
「こんばんは、ギラヒムさん。ご機嫌いかが?」
ギラヒムは肩越しに振り返って彼女の顔を確認すると、あからさまに顔を歪めて舌打ちする。
「君の声を聞いて、たった今最悪になったところだよ」
「あら、つれない」
アヤメはくすくすと笑い、その眼差しをボコブリン達に向けた。それにつられて視線を戻したギラヒムが、次の瞬間その額に青筋を立てる。
「お前ら、話の途中で逃げんじゃねえ!」
これ幸いと忍び足で立ち去ろうとしていた彼らは、ギャッと短く叫ぶと一目散に逃げていってしまった。いくら瞬間移動のできるギラヒムでも、体が複数ない限り別々の方向に逃げる彼らを追うことはできない。彼は盛大に舌打ちをし、悪戯っぽい笑みを浮かべるアヤメを恐ろしい目付きで睨み付けた。その威圧感をものともせず、彼女はいつも通り楽しげに笑っている。
「ごめんなさい。怒られてるあの子達があんまりにもかわいそうで」
「心にもねぇことを……」
忌々しげな呟きに、アヤメは静かに笑みを深めた。そしてくるりとギラヒムの正面に回ると、不機嫌全開の彼の顔を下から覗き込む。
「ねぇギラヒムさん。同じ軍になったことですし、せっかくですから交流を深めましょうよ」
「ハッ、何を言い出すかと思えば」
そっと囁きかければ、ギラヒムは嫌悪を交えた表情で見下ろしてきた。
「ワタシは君と仲良しごっこをするつもりはないよ。他を当たったらどうだい?」
――ギラヒムは、アヤメを徹底的に嫌っていた。
理由はすでに分かっている。それは彼女が元人間であるにも関わらず、『ガノンドロフ』に付き従う最古参の部下だからだ。ガノンドロフがまだ一介の盗賊団の首魁だった頃から彼を見守り、運命を共にしてきた唯一の女。……ガノンドロフをマスターと慕い絶対的な忠誠を誓っているギラヒムは、その立場が羨ましくて仕方がないのだ。
アヤメは顎を引いて挑発的に唇を持ち上げる。
「へぇ。仲良くなれば、その分戦場での連携も高まってガノン様のお役に立てると思うんですけどね」
敬愛するマスターを引き合いに出せば反論できまい。そう見越しての揶揄だったのだが、ギラヒムはそんな彼女の浅知恵を笑い飛ばすかのように鼻を鳴らした。
「君は相当なお間抜けだね。魔王様のお役に立つなら個々の力を磨く方が効率的だろう。連携も、立てた策を忠実に実行できれば済むことだ。その程度のことも分からないとは……。さすが、元は低脳な人間だっただけのことはある」
「ぐっ」
予想外の反撃に、アヤメは顔を歪めて一歩後じさる。
「ま、まさか、あなたに正論で返されるなんて……」
普段の言動がやたらと面白おかしいせいで、すっかり油断していた。さすがは腐っても魔王の愛剣である。武器としての強さは当然として、個人の戦闘能力も高く、その上機知にまで富んでいるとは。これだけ優秀なら、ガノンドロフやその前世が彼の能力を認めて重用しているのも頷ける。
――ぎり、とアヤメの口の隙間から歯軋りが漏れる。……なんて、羨ましい。
「フン。このワタシが正論を言わなかったことがあるか? 理解したらとっとと――」
「ガノン様の素の一人称は『オレ』」
「っはぁん!」
ギラヒムが両手で顔を覆って頭をのけ反らせた。アヤメはドン引きしながらも、続けざまに言葉を紡いで追い打ちをかける。
「ガノン様の趣味兼特技はオルガンの演奏」
「がふぅ!」
今度は吐血でもするんじゃないかという勢いで体をくの字に折り曲げる。実に気持ちの悪い動きである。彼はなんとか倒れずに踏みとどまると、ぜいぜいと息を荒げてアヤメを睨み付けた。
「ふ――フン。そんな攻撃に、このギラヒム様が屈するとでも思ったかい?」
あくまでも意地を張るつもりらしい。いい加減素直になってしまえば楽になれるのに、なんとも強情な精霊である。アヤメは目を細め、彼にとどめを差すことにした。
「……ガノン様のご幼少のみぎりの似姿が実はここに」
「あっふん!」
抵抗むなしく、ギラヒムは勢いよく倒れ伏した。その表情は心なしか恍惚としている。完全に屈服した相手の様子に、アヤメはにんまりと笑って腕を組んだ。
ガノンドロフのことでアヤメが知らないことはない。彼女は魔王がただの人間だった頃からその背に憧れ、ずっと追いかけてきたのだ。時に木箱の裏側に身を潜め、時にゲルド族の砦に潜伏し――ずっとずっと長い間、見てきたのだから。
ギラヒムは息も絶え絶えといった様子で体を起こす。
「き、貴様……まさかそんな奥の手を持っていやがったとは……」
「ふふふ、いいでしょう」
アヤメは得意気に鼻を鳴らす。こちとらガノンドロフ軍の最古参だ。そんな自分が、ほんのちょっと前に彼に仕え始めたばかりのギラヒムなどに負けるはずがない。――だが、と彼女は眉を曇らせる。
アヤメの方とて、見知っているのは『ガノンドロフ』としての彼だけだ。彼が生まれる前にどこで何をしていたかなど、知っていようはずがない。
アヤメはギラヒムが羨ましかった。自分の知らない彼を知っていることが、妬ましくて仕方なかったのだ。
――だから、少し利用してやろうと思った。
「どうです、ギラヒムさん。私達、仲良くなれると思いません?」
アヤメは手を差しのべて微笑む。そんな彼女の意図に気づいたのだろう。ギラヒムはふっと小さく笑みをこぼすと、アヤメの手をそっと払い除けて自力で立ち上がる。
――手を借りるのではない。あくまで一時的に手を組むだけだ。闇で塗り固めたような黒瞳からそんなギラヒムの強い思いを汲み取ったアヤメは、唇にゆるやかな弧を描いて行き場を失った手を引っ込めた。
「……仕方がない。君とは手を結んでおいた方が得策のようだね」
「ふふ、存分に語り合いましょうね」
ギラヒムは小馬鹿にするような薄笑いでアヤメを見下ろす。
「望むところだ。あの方を一番敬愛しているのはワタシだということを、その身にじっくりと教え込んであげよう」
「あら、それなら私だって負けませんよ。ウン百年ものの忠誠心を、そのお美しい眼に見せつけて差し上げます」
二人は顔を見合わせて「ふふふ」と怪しげに含み笑いをする。その笑い声は徐々に大きくなっていき、ついには高笑いとなって野営地に響き渡った。二人を取り巻くどす黒い闇のオーラに、周囲の魔物達は怯えたように震えてこそこそと距離を取る。こういう時の上司達がいかに恐ろしいか、彼らは骨身に染みてよく知っていた。
――数時間後。とある天幕で、一組の男女が息を荒げながら火照った顔を突き合わせていた。
「うっそ……魔王様のカリスマどうなってるの。これはもう崇拝するしかないわ」
「だろう? しかもその後に起きた暴動への対処のされ方がだね……」
「そんな、一喝すらせずに! ああもう素敵、痺れちゃう!」
ギラヒムの話を聞き終えたアヤメは、苦しげに自分の胸元を掴みながら顔を上げる。その眼差しは夢見るようにとろけ、表情からはギラヒムに対して抱いていたはずの対抗心がすっかり消え失せている。
「はぁ、はぁ……ありがとうギラヒムさん。ああ、まさかこんなに沢山の逸話をご存じだなんて!」
「君の念写とかいう能力も実に素晴らしいものだったよ。フフフ……よもや魔王様のあんなお姿やこんなお姿を、そっくりそのまま拝めるとはね……!」
二人は顔を見合わせて忍びやかに笑い合う。
あれから、二人はいかに自分がガノンドロフについてよく知っているかを主張し合っていたはずだった。だがいつの間にやら――というより必然的に――互いに知識や物品を披露しては込み上げる忠誠心に悶える会へと発展してしまったのだ。双方ともこれ以上踏み込んでは戻れなくなると薄々分かってはいたものの、崇拝する主の未知の領域には抗えない。結果、二人はへとへとに消耗しきるまで己の持つネタを出し尽くすことになったのだった。
呼吸を整えたアヤメは、未だ興奮に脈打つ胸に手を当てつつギラヒムに微笑みを向ける。
「私、ギラヒムさんのこと誤解していました。あなたはこの軍にいる誰よりも、ガノン様を尊敬しているんですね」
「当然だ。このギラヒム様に、かのお方への忠誠と美しさで敵う者はいないのだからね」
ギラヒムは立ち上がって、体のラインを見せつけるように『美しい』ポーズを取った。いつもだったら苦笑を浮かべつつこっそり距離を取っていたはずなのだが、この日この時ばかりは何故か妙に輝いて見える。
ギラヒムのガノンドロフへの忠義は見上げたものだ。これまで誰にもこの想いを譲ったことのないアヤメが認めざるを得ないほどに。――だが、悔しさや危機感は欠片も感じなかった。
心臓が耳元でどきどきと鼓動している。顔の火照りが一向に収まらない。彼の自己陶酔に満ちた笑みがこの上なく魅力的に映る。……自分を支配するこの高揚感は、一体なんなのだろう。
「だが、君の忠誠もなかなかだ。ただ一人を追いかけるためだけに魔物へとその身を変ずるなど、並大抵の思いでできることではない」
「ほ、本当ですか!?」
「ああ、そうだとも。このワタシが認めてあげるんだよ。光栄に思うんだね」
偉そうに銀糸の髪をさらりとかき上げるギラヒムに、ほうと彼女は息を吐く。人に認められるのが、まさかこれほどまでに嬉しいものだとは思わなかった。と、そこで彼女はふと気づく。
――ああ、そうだ。ようやく自分は見つけたのだ。
「ねぇ、ギラヒムさん」
「ギラヒム様と呼んでくれて構わないよ」
「ギラヒムさん、仲良くなりましょう」
アヤメは立ち上がり、彼に向かって手を差し出す。今度は上からではなく、対等な立場で。
「私、あなたとならなんでも出来る気がするんです。もっともっと知識を深め、語り合い――そうすることで、互いを高め合うことができそうなんです」
かつてガノンドロフに心を奪われたアヤメは仕える故国を裏切り、彼に付き従えるほどの寿命を得るために親からもらった体を捨てた。全てをなげうってまで忠誠を誓う彼女の情熱を、本当の意味で理解してくれる者は誰もいなかった。……目の前にいる、この男を除いては。
――そう、私はようやく自分と同等の魔王愛を持つ人物を見つけたのだ!
ギラヒムは差し出されたアヤメの手を見下ろし、次いで希望にきらきらと輝く彼女の瞳を覗く。――ふっと、その薄い口元にどこかやわらかな笑みがよぎった。
「いいだろう。……これからは同志として共に歩んでいこうではないか、アヤメ君」
二人はがっちりと固く手を結んだ。ギラヒムの手の金属的な冷たい温度が火照った肌に心地よくて、アヤメはくすくすと笑う。彼が共にいてくれるのなら、きっとこれからの魔王ライフはより充実したものになるだろう。ギラヒムもそう予感しているらしく、その黒瞳の奥に悦楽の予感が躍っているのが見て取れた。
――と。唐突にばさっと天幕入り口の垂れ布が払い除けられた。そこに浮かび上がる円錐状のシルエットに、振り返ったアヤメは思わず息を飲む。
「面白い。その話、私も交ぜていただこうではないか!」
「あなたは――ザントさん!」
……相乗効果で数倍強力になったストーカー達にガノンドロフが頭を悩ませるのは、そう遠くない未来のことである。
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