短編 | ナノ

 彼女はぼんやりと木の根元に腰かけて、森のざわめく音にただじっと耳を傾けていた。周囲は背の高い木が立ち並び、おまけに霧も出ているため非常に見通しが悪い。森の中だというのに鳥の歌も虫の声も聞こえなかったが、その静寂に不思議と安らぎを感じる。まるで夢の中にいるかのようだ。
 ――いつからここにいるのか、どうしてこんなところに来たのか。それは彼女自身にも分からなかった。いや、考える必要もなかった。まるでぬるま湯にひたっているかのように心地いい。こうしていると、やがて自分という存在が森に溶けてなくなってしまいそうな――。

「おやおや、こんなところに人がいるとは」

 含みのある笑い声に、アヤメはびくりと肩を震わせる。はっとそちらを見やれば、ほんの数歩しか離れていない場所に大きな荷物を背負った一人の男が立っていた。木の葉の擦れる音以外何も聞こえなかったはずなのに、いつの間にそこにいたのだろう。
 痩せた体に纏った、怪しげな雰囲気を醸し出す紫色の服。綺麗に撫でつけて七三分けにされた茶髪。顔に貼り付けたような愛想笑いは、どこか現実離れした不気味さを感じさせる。……見るからに怪しい男だ。

「……あなたは?」

 訝しげに眉を寄せて問いかけると、男は妙に演技がかった仕草でお辞儀をした。

「ワタクシは『しあわせのお面屋』。古今東西、しあわせを求めて旅をする行商人です」

 ――お面屋。男の背負った荷物に目を向けると、確かにいくつものお面が飾ってあるのが見て取れた。興味深げにお面を眺めていた彼女は、その内のひとつと視線が合ったような気がしてそっと目をそらす。

「お面屋さん、なんだ……。えっと、お名前は?」
「ですから、『しあわせのお面屋』です」

 どこか噛み合わないその言葉に彼女は首をかしげるも、とりあえず納得したように頷いておく。もしかしたら名前を知られたくない事情があるのかもしれないし、そもそも名前がない人なのかもしれない。その辺りの事情は、初対面で深く立ち入るべきではないだろう。

「私はアヤメです。……それで、その。ここはどこでしょうか」

 すると、お面屋は胡散臭い笑顔のまま首をゆるりと傾けた。

「さあ?」
「さあ、って……」
「どこぞの森の中というのは確かでしょうが、はて」

 彼は考え込むように顎を撫でてみせるが、そのにやついた表情のせいで全く困っている様子には見えない。演技なのかそうでないのか分からないが、なんだかんだ問い詰めても結局は煙に巻かれてしまうだろう。そう思わせる奇妙な不気味さがこの男にはあった。
 お面屋は含み笑いをしながら肩を竦める。

「まあ、歩いていればその内どこかに出るでしょう」
「それじゃあ、えっと」

 アヤメは口ごもって視線を泳がせた。
 この奇妙な森から出たいのは山々なのだが、自分一人で森を歩くのは心もとない。しかし頼りになりそうなのは、どうにも胡散臭さが拭えないこの男一人。信用していいものなのかどうか、迷うところではある。
 ――けれど。アヤメはその男の笑顔を見つめながら、ぎゅっと胸の前で拳を握る。
 先程自分が危険な状態だったということに、彼女はとうに気がついていた。もしも彼がこちらの意識を引き戻してくれなければ、あのまま自分は森に魂を飲まれてしまっていただろう。……随分と現実味のない考えだが、そもそも自分がここにこうしていることさえ非現実的なのだ。全くあり得ない、などということは恐らくない。
 彼は――お面屋は、確かに一度自分を助けてくれたのだ。その確信があったからこそ、アヤメは彼を信用することに決めた。

「その……人里に出るまで、ご一緒しても?」

 思いきってそう願い出ると、相手のにんまりとした口元がほんの僅かに笑みを深めた気がした。

「ええ、どうぞ。旅は道連れ、世は情けとも申しますし」

 フフフ、と笑うお面屋はいかにも何かを企んでいそうで、アヤメは眉を曇らせる。――本当に、これでよかったのだろうか。森の魔力から逃れることに意識を取られて、実はもっと悪質な罠に絡め取られているのではなかろうか。そんなことを考えているとお面屋の細く長い指が獲物を求める蜘蛛の脚のようにも見えてきて、彼女はそこはかとない不安に駆られたのだった。




 森の道は決して平坦ではない。あちらこちらに木の根が張っていれば草も生い茂り、不規則な傾斜がある。霧のせいで視界も悪いため、慣れないアヤメにとっては非常に歩きづらい道である。彼女は木の根につまずいたり窪みに足を取られたりしながら、迷うことなく歩くお面屋の後を必死で追いかけた。
 時折お面屋は振り返って、もたもたしているアヤメをじっと待ってくれていたりもする。それは素直にありがたいことだった。ただ、彼の方に眼差しを向ける度にその大きな荷物に張り付いているお面と目が合ってしまうのが、なんとも不気味で居心地が悪かった。

「――さて、今日はここで休みましょうか」
「わ、私、まだ歩けます」

 飄々とした笑顔で振り返ったお面屋に、息を弾ませながらアヤメは首を横に振る。正直なところふくらはぎの筋肉が限界を訴えているのだが、着いていくと言ったのは自分だ。弱音を吐いて彼の足を引っ張ってしまうのは申し訳が立たない。
 そんな彼女の心を見透かしたかのように、お面屋はくすくすと笑う。

「暗くなってから歩くのは危険ですよ。火を起こしますので、どうぞそこらに腰かけてお待ちください」

 言われて初めて、アヤメは周囲が薄暗くなっていることに気がついた。時間の感覚が薄れていて分からなかったが、もう日が暮れかけているらしい。
 お面屋は慎重に荷物を下ろすと、その痩せた体を折り曲げて地面に落ちている適当な大きさの木の枝を拾い始めた。ただ見ているだけではいけない、とアヤメも慌てて周囲を見回して薪になりそうな木を探す。
 ――お面屋とはぐれぬよう注意しながら作業している内に、やがて一抱えほどの木の枝が集まった。

「あの、お面屋さん。これ……」
「おお! これはこれは、ありがとうございます。そちらに置いておいていただけますか?」

 集めたそれらを差し出すと、お面屋は大袈裟に揉み手をしながら感謝を述べた。動作のひとつひとつが演技じみていて胡散臭いが、ひょっとするとこれがこの男の素なのかもしれない。そう思うとなんだかおかしく感じて、アヤメはくすりと笑う。
 アヤメが指示通りに枝を下ろす隣で、彼は大きな荷物の中に手を突っ込んで拳大の石を取り出した。火打ち石だろう。

「あの……何か、お手伝いできることは」
「大丈夫ですよ、火を起こすだけですから。ほぅら、もう点きました」

 彼が火打ち石をカツンと一回打ち合わせると、あっと言う間に下の薪が勢いよく燃え上がった。――火打ち石とは、こんなに簡単に火が点くものだっただろうか。少し不自然な燃え方に首をかしげはしたものの、深く考えるのはやめておくことにした。不思議なことが多すぎて、考えているとキリがない。

「おや残念、口に入れられそうなものはロンロン牛乳しかありませんね。アヤメさん、牛乳はお好きで?」

 再び荷を探っていたお面屋が牛乳の入ったビンを持ち上げて首をかしげる。アヤメは少し考えて控えめに頷いた。

「では、ホットミルクにでもしましょうか」

 彼はそう言うと、いつの間に持っていたのやら、シンプルなマグカップを二つこちらに向けて揺らしてみせた。




 お面屋に貰ったホットミルクは、どこか懐かしい味がした。喉を通る優しい甘さにほっと小さな息をつくと、感想を述べたわけでもないのにお面屋はくすくすと嬉しそうに笑いだした。不思議に思って視線を送れば、彼は誤魔化すように口元を手で覆う。

「ホホホ……いえ、なんと申しますか。随分と可愛らしい顔をなさるものだと思いましてね」
「かっ――」

 さらりと言われたその言葉に、アヤメは顔がみるみる熱くなっていくのを感じた。なんと返せばいいか分からずに目をそらすと、その先でお面のひとつとうっかり目が合ってしまった。じっと興味深げに自分を覗き込んでくるその眼差しに、アヤメは思わず息を飲む。

「おや、お面に興味がおありで?」
「いえ、その……お面、たくさんお持ちなんですね」
「商売道具ですからね。フフフ、どれもみな素晴らしい出来でしょう?」
「……そうですね」

 彼の言う通り、それらのお面は非常によく出来ていた。
 笑っているお面、泣いているお面。動物や土地神を表しているらしきお面に、そもそも顔を模してすらいないお面。材質も様々で、石で出来たものもあれば、表面を滑らかに整えてあるもの、ただ木を削っただけの荒いものもある。――そのどれもが、まるで今にも動きだしそうな生々しい気配を漂わせていた。
 あまり歯切れのよい返事ではなかったのが気にかかったらしく、お面屋は顎に指を添えた。

「ふむ。あまり、お好きではないようですね」
「い、いえ! そんなことは――」
「フフフ、隠さなくても構いませんよ。……怖いのでしょう?」

 細められた瞳の奥に垣間見えた底知れぬ色に、アヤメはぞっと背筋に悪寒が走ったのを感じた。――見られている。思わず目を背けると、お面屋の低い忍び笑いが聞こえてくる。

「あなたがそう感じるのも道理です。お面には、人の想いや魂が宿っているのですからね」

 想いや魂。だからこんなに、彼のお面が生きているように感じるのだろうか。そう考えると、なおさらお面に開いた二つの空洞の奥を意識してしまう。無数の視線にさらされているように感じて、アヤメは落ち着かない気分でまだ温かいマグカップをぎゅっと握る。
 するとそんな彼女を見かねたらしく、お面屋はくすくす笑いながら立ち上がった。

「それほどお面に見られるのが嫌でしたら、こちらには覆いを掛けておきましょうか」

 そう言って、彼は自分の言葉通りに荷物を大きな布で覆った。お面が見えなくなった瞬間に自分を苛む視線から解放された気がして、アヤメはほっと息をつく。ふと顔を上げると、張り付けたような笑みのお面屋と目が合って慌てて頭を下げる。

「あ、ありがとうございます」
「いえいえ、お互い様ですよ」

 こちらがもらってばかりなのに、何がお互い様なのだろうか。一瞬疑問に思ったが、すぐに先程の薪拾いを思い出して納得した。胡散臭い見かけによらず、お面屋は意外と義理堅い性格なのかもしれない。

「ところで、どうです? そろそろ眠くなってきたのではありませんか?」

 彼はいつの間に取り出していたのやら、暖かそうな毛布を広げてみせた。薄暗くてよく見えないが、縁に幾何学的な模様が入っているのがなんとなく分かる。気を遣ってくれるのは嬉しかったが、アヤメはその毛布が一枚しかないのを見て取って首を横に振った。

「いえ。私は大丈夫ですので、お面屋さんが使ってください」
「遠慮なさらずに。それとも、二人で使いましょうか? ……ホホホ、冗談ですよ」

 顔を真っ赤にした彼女に、お面屋は声を高くして笑う。

「まあ、それはともかく、お気になさらなくても結構です。ワタクシには必要ございませんので」

 彼はそう言うと、アヤメから空になったマグカップを取り上げて有無を言わせず毛布を押し付けてきた。なかなかに押しの強い人である。こんな調子でお面の押し売りなどを行ったりもしているのだろうか。
 ともかく、ああまで言っているのだから、きっと彼はこちらがどれだけ言っても自分でこの毛布を使おうとはしないだろう。アヤメは仕方なくその毛布で体をくるんだ。……だが、どうにも気分が落ち着かなくて眠れそうにない。

「おや、不安ですか?」
「……少しだけ」

 思い出すのは、先程の森に取り込まれていく感覚だ。自我が溶けて、苦悩も葛藤もなく、自分が自分でなくなっていくような心地よさ。……今思い返してもぞっとする。
 ここで無防備に眠ってしまえば、今度こそ本当に森に魂を奪われてしまうかもしれない。そう思うと、怖くて瞼を閉じられそうもなかった。
 ふと気づくと、お面屋がそんな彼女の顔を間近で覗き込んでいた。不気味な笑顔が不意打ち的に目の前にあって、アヤメは思わず悲鳴を上げてしまいそうなほど驚く。

「大丈夫。ワタクシがここにいます。安心してお休みなさい」

 ゆったりと誘うように、彼は低い声で囁く。それを耳にした直後、アヤメの目蓋が急激に重くなった。安心したのか、それとも暗示の類をかけられたのか。どちらにせよ、彼がこちらを寝かしつけてくれてくれていることは確かだ。アヤメはお面屋に礼を言おうと口を開いたが、その口が言葉を紡ぐ前に彼女の意識は心地よい眠りへと落ちていった。
 ――それにしても、と完全に意識が闇に飲まれる前にアヤメは思う。口に出した覚えもないのに、どうして彼はこちらが『お面に見られるのが嫌』だと分かったのだろうか――。




 翌朝、アヤメ達は再び森の外を目指して歩き始めた。
 よく眠ったお陰なのか気分もよく、不思議なことに足取りも軽い。加えて朝になって周囲が心持ち明るくなったおかげか、昨日はあれだけ不気味だったお面の視線もほとんど気にならなくなっている。そんな調子だったので、アヤメは鼻歌でも歌いだしそうなほど浮わついた気分で歩いていた。
 ――しばらく進むと、不意に霧が揺らいだのを感じた。同時に、前を歩くお面屋が立ち止まる。どうしたのだろうと近くに寄ったアヤメは、はっと息を飲んで一歩後ずさった。
 道はお面屋の靴の先で唐突に終わっていた。森はそこで切り取られたように途切れ、断崖となっていたのだ。崖下には濃い霧が立ち込めていて、ここがどれほどの高さなのか見当もつかない。

「……あ」

 真下から遠くに目を移した彼女は、見覚えのある建物を霧の中に見出して小さな声を漏らした。それを耳にしたお面屋がくすくすと楽しげに笑う。

「ありましたね、人里。あなたのお住まいの町でしょう?」
「はい!」

 アヤメは頷いてほっと表情をゆるめる。これでようやく、この薄気味悪い森から離れることができる。そう思って安堵した彼女だったが、ふとあることに気づいて眉を寄せる。

「でもあんなところ、どうやって……」

 目的地が見つかったのはいいのだが、ここは切り立った崖の上。どうにか迂回する道があればいいのだが。お面屋も周囲を見渡してはみたものの、それらしきものは見つからなかったらしい。彼は手のひらを上に向けて肩を竦める。

「残念ながら、まともな道はなさそうですね。……そうですねぇ。あれくらいの距離でしたら、ワタクシが送って差し上げましょうか」
「よ、よろしいんですか? ……その、本当にありがとうございます。何から何まで」
「ホホホ、お気になさらず。持ちつ持たれつ、ですよ」

 そうは言うものの、彼には最初から最後まで世話になりっぱなしだ。せめて、町に着いたら温かい食事でも振る舞ってあげよう。そうでもしなければ、釣り合いが取れそうもない。
 お面屋は霧に沈む町を、何を考えているのか分からない笑顔でじっと眺める。しばらくしてアヤメに向き直った彼は、にんまりと口元の笑みを強める。

「では名残惜しいですが、あなたとはここでお別れですね」
「えっ?」

 唐突なお面屋の言葉に、アヤメは面食らって目を瞬かせる。

「一緒に来てはくださらないんですか?」
「ええ。この辺りにはワタクシの求めるものはないようですので」

 彼はそう言って森の奥に笑顔を向ける。どうやらアヤメを送った後、彼はこのまま森の中に戻っていくつもりらしい。

「でも私、まだお礼だって――」
「お礼なら、すでにいただきましたよ」

 困惑するアヤメに含み笑いをこぼすと、お面屋は懐から一枚のお面を取り出した。それを目にした彼女は思わず息を飲む。

「それ……」

 それは木材の表面を滑らかに磨き上げ、薄い青色で均一に塗装されていた。左の頬から額にかけて、黒い蛇のような模様が彫り込まれている。その目元は何かに怯えるように伏せられ、薄く開いた唇は今にも震える吐息が聞こえてきそうなほど精巧に作られている。かなりデフォルメされてはいるが、それが何を模したものなのかは一目で分かった。
 ――あれは、私だ。
 お面屋は不気味に笑いながらお面を見つめ、その青い硬質な頬を細い指先でするりと撫でる。

「フフフ……実に美しいお面だ。人の視線に対する恐怖や苦悩がよく伝わってくる」

 愛でるような薄暗い眼差しに、ぞわりとアヤメの背中が総毛立った。あれは自分の一部だ。自分が長年、誰にも見せることなく心の奥底にしまっていた秘密だ。それが今、どうして彼の手に――。

「や、やめて! 返して!」
「――ですが」

 彼に掴みかかろうとしたアヤメは、顔を上げたお面屋の言葉に思わず動きを止める。こちらを見据える彼の眼差しが、いつになく真剣なものに見えたのだ。

「ですがその奥に、温かな優しさと思いやりが溢れているのが感じられます」

 そう言って彼は穏やかな笑みをアヤメに向ける。その表情になんだか毒気を抜かれて、彼女はすがるように伸ばしていた手をゆっくりと下ろした。――不思議な気分だ。こんなにも怪しげな男の言った言葉なのに、どうして自分は泣きそうなほど安堵しているのだろう。

「これは頂いていきますよ、アヤメさん。あなたには不要のものでしょう」

 それを拒絶するような気も起きず、アヤメは小さく頷く。するとお面屋は心底嬉しそうににんまりと笑った。それにつられて、彼女もくすりと小さく笑みをこぼす。
 ……彼が喜んでくれているなら、それでいいか。アヤメは自分の一部だったものをちらりと見やる。彼にだったら、あれを預けても構わないだろう。きっと大切に扱ってくれるはずだ。

「本当に、ありがとうございます」
「いえいえ、お礼を言うのはワタクシの方です、アヤメさん。こんなに素晴らしいお面をくださって、ありがとうございます」

 にんまりと笑って揉み手をするお面屋に、アヤメは顔を赤らめた。仮にも自分であったものを手放しで誉められるのは、なんだかむずかゆいものがある。
 彼はお面を再びしまい込むと、もう一度こちらに顔を向ける。アヤメはそれを受けて、まっすぐに彼の笑顔を見返した。昨夜までは目が合うのもあれほど恐ろしかったのに、今ではそんな恐怖は微塵も感じない。拍子抜けするほど気が楽だった。
 お面屋はそんな彼女を見て満足げに笑みを深める。

「いい顔になりましたね。この分なら、もうこの森に迷い込むことはないでしょう。きっと、アヤメさんにはこれから『しあわせ』が訪れますよ」
「『しあわせ』が?」
「ええ、間違いありません」

 新興宗教の謳い文句のような台詞に、アヤメは思わず明るく笑った。本当に、最初から最後まで胡散臭い男である。
 彼はゆっくりとこちらに手を伸ばして頬に触れ、薄く大きな手のひらで彼女の目元を覆った。視界が完全に閉ざされる直前、お面屋の眼差しの奥にふと寂しげな感情を垣間見た気がした。
 手のひらの温もりに誘われるように目蓋を閉じると、暗闇の中でお面屋の声が静かに染み渡る。

「あなたなら大丈夫です。信じなさい、信じなさい……」

 目元を包む温もりがゆっくりと離れていく。一息おいてそっと目を開けると、そこは見慣れた町の中だった。朝靄に包まれて白く霞んだ町並みに、彼女は呆然と瞬きをする。
 ふと思い立って頭上に目を向けてみたが、霧が深すぎるせいであの奇妙な森のあった絶壁は全く見えない。
 ……いや。霧が晴れてから同じことをしたとしても、きっと結果は同じだろう。何故なら、そんなものは初めから存在していないのだから。

「――また、会えるかな」

 アヤメは息が詰まるような寂寥感を覚えて、自分の胸元をぎゅっと握る。……この胸の中には、確かに小さな恐怖が存在していた。だが人の視線を恐れて縮こまっていた自分の欠片は、こちらが気づかぬ間にお面屋が掠め取っていってしまった。物悲しくも美しい、一枚のお面に変えて。
 ふと、彼女は自分の口元が弧を描いているのに気がついた。――会えなくても、自分の一部が彼と共にあるのだ。そう思うだけで、心の切り取られた部分が満たされていくような気がする。
 なんだかくすぐったい気分だ。彼女はくすくすと笑ってもう一度霧の向こうに目をやると、踵を返して自分の日常へと戻っていった。





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