短編 | ナノ

(涼様リクエスト)


 それはのどかな朝のこと。ルイージが野菜スープを火にかけていると、こんこんと控えめなノックが聞こえてきた。――こんな朝早くに、一体誰だろう。鍋の下を覗いて火を止めたのを確かめた彼は、首をかしげつつ小走りで玄関に向かう。
 あくびを噛み殺しながらドアを開けたルイージの表情が、来客の顔を確認してぱっと明るくなった。

「アヤメじゃないか! おはよう、今朝はどうしたの?」
「おはようございます。すみません、こんな早くに」

 ドアの前に立っていたのは、にこやかな笑みを浮かべたアヤメという女性だった。彼女はキノコ王国には珍しい人間の女性で、数年前から城下町の雑貨屋で売り子として働いている。人好きのする朗らかな笑顔と素直な人柄で、客からの評判も上々らしい。……実のところ、ルイージはそんな彼女の分け隔てない笑顔にひっそりと憧れを抱いていた。
 アヤメはルイージに挨拶すると、ひょいと家の中を覗き込んで首をかしげる。

「あれ。今いらっしゃるの、ルイージさんだけですか?」

 ――なんだ、兄さん目当てだったのか。アヤメの言葉に彼は心の中でがくりと肩を落とす。

「兄さんに用だったの?」
「いえ、さっきクッパクラウンがピーチ城に突っ込んだのが見えまして」
「な、なんだ、そうだったんだ」

 ネガティブモードに入りかけたルイージの気持ちが危ういところで浮上する。どうやら彼女は日課である朝の散歩をしていた時にその光景に出くわして、取るものもとりあえず知らせに来てくれたらしい。そんな彼女の気遣いを、マリオの追っかけと勘違いするなんて。ルイージは恥ずかしくなってぽりぽりと頬をかく。

「じゃあ、ちょっとタイミングが悪かったみたいだね」

 マリオの行動は素早かった。寝ぼけ眼で起床した彼は、遠くの地響きを感じるや否や、いち早く目を見開いて窓の外を確認した。そしてピーチ城から上がる煙を見るなり「またか!」と呆れ混じりに叫び、慌てて着替えを済ませて飛び出していったのだ。事の次第を聞いたアヤメはくすくすと笑う。

「相変わらず慣れてますね、マリオさんは」
「そりゃあ、いつものことだから」

 クッパがピーチを攫い、マリオがそれを助けに行く――もう何十回と繰り返されてきたパターンである。ルイージからすると、毎度毎度よく飽きもせずに同じことができるものだと思うくらい定番の流れだ。特にクッパのピーチに対する熱心さには、呆れを通り越していっそ感心する。
 ――でも、彼の積極的なところは少し見習うべきかもしれないな。そんなことを考えていたルイージは、ふと朝食の準備中だったことを思い出した。……もしかしたら、これはチャンスかもしれない。

「そうだ、アヤメ。朝御飯は食べてきた?」
「いえ、まだですけど」

 即座に返ってきたアヤメの答えに、ルイージは心の中でガッツポーズを作る。

「そ、そっか。じゃあさ、その……」

 彼は口ごもって視線を泳がせた。切り出したはいいものの、どうにもその先が口に出せない。『言え、言うんだ』と発破をかける自分と『断られたらどうしよう』と尻込をみする自分の争いが迷いに拍車をかける。
 だが、勇気を出して一歩を踏み出さなければ何も始まらない。彼はごくりと唾を飲み込み、ぐっと拳を握る。

「よ、よかったらでいいんだけど――ボクと一緒に食べない?」

 ――言ってやった! ルイージはぎゅっと目をつむりながら彼女の返答を待った。顔が火を吹きそうなくらい熱い。きっと、さぞかし真っ赤になっていることだろう。
 アヤメはルイージの誘いにぱちくりと目を瞬かせ、驚いたように胸に手を当てる。

「いいんですか? でもそんな、急に悪いですよ」
「大丈夫だよ、遠慮しないで! 兄さんが慌てて飛び出してったもんだから、スープとパンが余っちゃってるんだ」

 一度ラインを踏み越えたら、もう後には引けない。そんなプレッシャーが手伝ったのか、自分でも驚くくらいにするすると口からもっともらしい理由が出てくる。本当は一人でも食べられない量ではないのだが、その辺りは黙っていれば分からないだろう。

「そういうことでしたら、喜んで。……ふふ、ご馳走になります」

 嬉しそうに笑うアヤメに、ルイージは自分の顔がますます赤くなるのを感じた。とりあえず彼女を家に上げてダイニングテーブルに案内し、彼は朝食の準備に戻ることにした。
 ――この家のキッチンはほぼルイージ専用である。マリオは冒険や旅行などで家にいないことが多い。そのため、必然的に炊事洗濯は留守番をしているルイージの役目になるのだ。おかげで最近では料理や掃除の便利グッズも徐々に増え始め、兄に「君はどこに嫁入りする気だい?」とからかわれるくらい主夫じみてきた。
 パンを焼く傍らスープを温め直していると、背後のダイニングからアヤメの声が聞こえてきた。

「ルイージさんは今回、行かれないんですか?」
「まあね。被害があったのはお城だけみたいだし、他になんの異変も起きてないから。こういう時のクッパは大体無計画に部下を置いてるだけだから、兄さん一人で十分だよ」

 へえ、とアヤメが感心したように頷く。

「さすがに、長い付き合いなだけありますね」
「はは、腐れ縁だからね。あ、蜂蜜あるけど使う?」
「あ、はい。いただきます」

 そうこうしているうちに準備は終わり、テーブルには本日の朝食が並んだ。いつもマリオと二人の時はパンとスープだけで済ませているのだが、今回はアヤメがいる。さすがに二品だけでは彼女に申し訳ないので、ちょっとしたカットフルーツの盛り合わせも添えた。……マリオには内緒にしておこう。

「ごめんね、誘っておいて簡単なのしか出せなくて」
「そんなことないですよ。この野菜スープだって、すごく美味しいですし」
「本当!? よかった。口に合うかどうか、ちょっと心配だったんだ」

 アヤメの言葉を聞いたルイージは、ぱっと表情を輝かせた。まさか、彼女に褒めてもらえるだなんて。ひそかに会心作なだけあって、なおさら嬉しい。込み上げてくる喜びに満面の笑みを浮かべると、彼女もつられたように笑顔になる。

「そういえばマリオさんに聞きましたけど、ルイージさんってお料理得意なんですよね。いいなあ、マリオさんがちょっと羨ましくなっちゃいます」
「そ、そうかな」

 さすがに照れ臭くなって、ルイージはパンをかじりながら少し顔を赤らめた。――アヤメがお嫁さんに来てくれたのなら、毎日でも食べさせてあげられるんだけどな。そんなことを思ったものの、さすがにそれを言う勇気はない。
 ルイージはアヤメと特別仲が良いわけではなかった。彼女が誰にでも分け隔てなく親しげに振る舞えることは、接客中の姿を通してよく知っている。今自分に見せてくれているこの明るい笑顔だって、他の大勢に振り撒かれているものと同じものだ。こうして食事を共にしてくれるくらいに気を許してくれていることは素直に嬉しいが、だからと言って勘違いしてはいけない。
 下手に距離を詰めて嫌われるくらいなら、この歯がゆくも心地よい時間をもう少し楽しんでいたかった。
 と、アヤメが何かに気がついたように首を小さくかしげた。

「ルイージさん。ジャム、ついてますよ」
「え、どこ?」

 慌てて口元をぬぐったルイージだが、手を見ても何もついていない。あれ、と不思議に思っていると、アヤメがくすりと笑う声が聞こえてきた。

「こっちですよ」

 彼女は不意に身を乗り出し、先程ルイージが擦ったのと反対側をその親指でぬぐった。驚いて思わず身を引くと、イスががたんと大きな音を立てる。
 触れられた場所がいやに熱く感じる。指の感触が残る口元に手をかざすと、顔全体が熱を帯びているのが分かった。ルイージは軽くパニックになりながらも、なんとか頭の動かせる部分を総動員して自分に言い聞かせる。――これはただの親切だ。やましい気持ちなんて一切ない、彼女なりの気遣いなんだ。だからあまり変に意識しないで、何もなかったかのようにさり気無くお礼を言うべきなんだ。

「……あ、ありがとう」

 なんとか声を絞り出してルイージは礼を述べたが、彼女は口を閉ざしたまま答えない。何を思ったか、興味深げな眼差しでじっとこちらを見つめている。穴が空きそうなほどまっすぐなその視線に、彼は少しの居心地の悪さを覚えながら彼女に問いかける。

「アヤメ、どうし――」

 するとアヤメはこちらを見つめたまま、ジャムのついた自分の指をぱくりと口にくわえた。その光景を目にした瞬間、ルイージの思考が完全に停止する。そんな彼の心の内など知る由もなく、アヤメはなんでもなさそうに微笑んでみせた。そのあどけない表情に反して、ちらりと見えた赤い舌がどことなく色っぽくて――。

「ご、ごめんなさいルイージさん! 大丈夫ですか!?」

 アヤメの慌てる声が遠くから聞こえる。視界がふうっと暗くなっていくのを感じる中、ルイージは彼女に心配をかけてしまったことを少し申し訳なく感じた。




 気を失っていたのはほんの十数秒だったらしい。アヤメに揺さぶられてすぐに目を覚ましたルイージは、猛烈な勢いで彼女に謝り倒した。そんな彼に対して、アヤメは申し訳なさそうに目を伏せる。

「ルイージさんが謝る必要はありませんよ。むしろ、悪いのはこっちです。……調子に乗っちゃって、本当にごめんなさい」
「そんな、大丈夫だよ。ボクは気にしてないから」

 ルイージはひらひらと手を横に振る。

「でも、もうこんなことしちゃダメだからね。あんな悪戯されちゃ……ボクだって勘違いしちゃうよ」

 呟いた最後の言葉に、本音が混じる。誰に対してもあんな風に無警戒に笑って、食事の誘いに乗って、そして――無意識であんなことをするのだと思うと、気が気でなくなってしまう。それとも、自分が男として見られていないからこんなにも無防備なだけなのだろうか。……それはそれで落ち込まざるをえない。
 どんどんネガティブな思考に陥っていくルイージの視界の端で、アヤメが不意に顔を上げた。その瞳に映った真剣な色に、ルイージの目が釘付けになる。

「本当に、勘違いだと思いますか?」
「――えっ?」

 珍しく笑っていないアヤメの言葉に、彼はきょとんと瞬きをする。すると彼女はむっと眉を寄せた。

「さすがに鈍すぎですよ。私だって、その……好きな人以外に、こんなことするバカじゃないんですから」

 頬を染めて拗ねたように呟く彼女の言葉を理解するのに、数秒かかった。彼女の口から出てきた一音一音を頭の中で繰り返し、ゆっくりと飲み込む。そうしてようやく何を言われたのかに気がついたルイージは、今までにないくらいに顔を真っ赤に染めた。つまり、彼女は――。

「アヤメ! その、ボクも――」
「ただいまルイージ、ちょっと帽子を忘れ――おっとすまない、お取り込み中だったみたいだね」

 唐突に顔を出したマリオが、一瞬目を見張った後ににやりと笑みを浮かべた。ルイージはゆっくりと息を吐きながら顔を俯かせる。
 ……なんて、なんて間の悪い兄なんだ。
 ルイージは体をわなわなと震わせると、やにわに立ち上がった。そして壁にかかった帽子を乱暴に掴むと、空気を読まない兄に向かって思いきり投げつける。ばふんと間抜けな音を立てて赤い帽子がマリオの顔面にぶつかった。

「兄さんのバカ!」
「ははは、悪かったって。それじゃあ、うまくやるんだよ!」

 マリオはにこりと笑って、弟が怒り出す前にすたこらさっさと退散していった。感情のやり場を失ったルイージは、盛大にため息をついて肩を落とす。振り返ると、アヤメがくすくすとおかしそうに笑ってルイージを見上げていた。

「えーっと、その。ごめんねアヤメ、兄さんが」
「いいですよ。それより――さっきの続き、聞かせてください」

 目を細めて微笑んだ彼女の期待の眼差しに、彼はごくりと唾を飲み込む。

「ボ……ボクも、好きだよ」

 それを聞いたアヤメが、顔を真っ赤にしながら満面の笑みを浮かべた。花が綻んだようなその笑顔が心の底から幸せそうで、ルイージは照れ臭さに鼻の頭をかいた。……その時である。

「ひゅーひゅー」

 窓の外から聞こえてきた下手な口笛もどきに、ルイージは慌てて顔をそちらに向ける。

「もう、兄さん! さっさとピーチ姫助けに行きなよ!」
「いやあ、いい土産話になると思ってね。ルイージに恋人ができたなんて知ったら、ピーチもきっと喜ぶだろうなぁ」

 ほくほくといい笑顔をするマリオに、ルイージは反論する気もなくして口を閉ざす。からかい混じりではあるものの、彼も弟の幸せを喜んでくれていることに違いはないのだ。
 マリオはそのにこやかな表情をアヤメに向ける。

「アヤメ、頼りない弟だけどよろしくね」
「兄さんったら!」

 アヤメはくすくすと笑い、悪戯っぽい目つきでマリオを見返した。

「心配いらないと思いますよ、マリオさん」

 え、とルイージがアヤメを見やると、自信に満ちた楽しげな彼女の笑みとばっちりと目があった。

「だって、私が惚れた人なんだから」

 ――これから毎日、自分の心臓はちゃんと耐えられるのだろうか。ぎゅうっと胸を鷲掴みにされたような感覚に、彼はそんな心配をしたのだった。





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