smile! | ナノ


 隣にいるリザードンをちらりと見上げたスミレは、牙を剥いた恐ろしげな形相に慌ててその目をそらした。そこへ不機嫌全開の唸り声が追い討ちをかけるように鼓膜を震わせて、彼女はますます身を固く小さく縮こませる。
 スミレは呼吸をひそめて、彼の意識に留まらないように気配を殺す。気分はまさしく肉食獣を前にしたか弱い草食動物そのものである。ただ、この乱闘ルームという密室に二人きりでないことだけが心の救いだった。
 ――だが、どうにも居心地が悪い。スミレはこっそりと、先程まで共に乱闘空間で戦っていた他のファイター達を伺う。
 ルカリオは腕を組み、瞑目しながら静かに壁に寄りかかっている。寡黙で真面目な彼のことだから、恐らく瞑想でもしているのだろう。会話の話題も特に見つからない中、この重苦しい雰囲気から逃げるためだけに話しかけるのは忍びない。
 もう一方のゲッコウガはと言えば、澄ました顔をしながら背筋をぴんと伸ばして直立している。こちらは接点もほとんどなく、どのような性格をしているのかもいまいち把握しきれていない。そもそも、声をかける以前に言葉が通じないのも難点だ。
 せめて、マルスがここに残っていてくれればこのピリピリとした緊張感も少しは和らいだだろう。もしくは、自分がマスターハンドに報告しに向かえばよかった。そう思うも、すでに後の祭であるのだが。
 リザードンが苛立ちも露に尻尾を力強く床に叩きつけた。尻尾の先で燃え盛る炎から火の粉が飛んで、スミレはぎょっと彼から一歩距離を取る。これはさすがに注意すべきだろう。スミレは軽く息を吸うと、思いきって顔を上げた。

「リザードンさ――」

 びしゃり。唐突に水が勢いよく何かに打ちつけられる音がして、水飛沫がスミレの頬にわずかに跳ねかかる。……これはまずい、かもしれない。顎の先からぼとぼとと雫を滴らせるリザードンの怒りに燃える表情を見上げながら、彼女は口の端をわずかに引きつらせた。
 彼はその眼差しに物騒な光を宿し、『なんのつもりだ』と言わんばかりにじっとゲッコウガを睨みつけている。対するゲッコウガは素知らぬ顔だ。喧嘩を売った張本人だというのに、なんとも涼しげに腕を組んでよそを向いている。
 そんなゲッコウガに怒りを募らせていったらしいリザードンが、鋭い牙を剥いて低く喉を鳴らす。そして一声短く吠えると、その脚を一歩ゲッコウガに向かって踏み出した。どすん、と気のせいではなく乱闘ルームが揺れる。――こんな狭いところで暴れられては、部屋が壊れてしまう。スミレがさっと顔を青ざめさせると同時に、彼らの様子を波導の力で見ていたらしいルカリオが一喝した。

「二人ともいい加減にしろ! リザードン、苛立つのは分かるが少しは頭を冷やせ」

 ルカリオに言葉を叩きつけたリザードンは声を詰まらせ、ちらりとスミレにその眼差しをやった。彼の激しい気性を知っていた彼女は、怒りの矛先を向けられた気がして反射的に肩を緊張させる。リザードンは固い表情で自分を見上げる彼女に何を思ったのか、ふんと鼻で息を吐いてスミレに背を向けた。気を遣ってくれたのだろうか。

「ゲッコウガもだぞ。ふざけて煽るのはよせ」

 煽っていたのか。クールなニンジャだとしか思っていなかったが、どうやら彼は苛立つリザードンをからかうお茶目な一面を持っているらしい。いよいよ何を考えているか分からないポケモンになってきた。ゲッコウガは軽く肩を竦めたきりで、ルカリオの言葉を全く意に介していないようだった。
 ルカリオはため息をつきつつスミレに向き直ると、申し訳なさそうに赤い瞳を軽く伏せた。

「すまないな、スミレ」
「あ、あはは……そんな、気にしてませんから」

 スミレは両手を軽く振って苦笑を浮かべる。この件に関してルカリオに非は全くない。むしろ彼の仲裁のお陰で喧嘩に発展しなかったのだから、感謝をしたいくらいだ。……欲を言うならばもう少し早く口を出して欲しかったのだが、それは我が儘というものだろう。
 ――それにしても、とスミレは視線だけでちらりとリザードンの背中を伺う。彼は部屋の隅をじっと見つめたまま動かない。反省しているのか不貞腐れているのか、判断に迷うところではある。だが、今回に限っては不機嫌になる彼の気持ちも分からなくはない。

「……さすがに、あんなことになったら怒りますよね」

 そもそも、何故リザードンがここまで不機嫌になっているのか。その原因は先程の乱闘にあった。
 この日の公式乱闘は、五人のファイターが五分間、ステージ内で入り乱れて争うといったものだった。スミレがリザードンのフレアドライブで初めに場外に吹き飛ばされたところまではいつも通りだったのだが、二分を過ぎた頃に異変が起こった。
 突然、リザードンが炎を吐けなくなったのである。それどころか、彼がどのような攻撃を繰り出しても他のファイターにダメージが通らない。おまけに彼自身も攻撃を受け付けなくなり、乱闘に参加しているのかいないのか分からない状態になってしまったのだ。
 そのリザードンの異変に最初に気づいたルカリオがストップをかけ、今マルスがマスターハンドに不具合を報告しに行っている、というわけである。

「結構不具合が多いんですね、乱闘って」

 ステージのギミックが故障する、アイテムの効果がいつまで経っても切れない、乱闘可能空間が全くスクロールしない――そういった話は度々聞く。スミレ自身も、そういう事態にはちょくちょく遭遇していた。
 だが、ルカリオは首を横に振る。

「いいや、本来はそうでもない。不具合が多発するようになったのはここ一、二ヶ月のことだ」

 その言葉に同意するかのようにゲッコウガが短く鳴く。二ヶ月前というと、ちょうどスミレがこの世界に訪れた頃だ。その時期に何かあったのだろうか――。そこまで考えて、はっと彼女は思い出した。
 ――二ヶ月。それは、元の世界に帰りたがるスミレにマスターハンドが提示した期間であった。二ヶ月待てば、スミレを自分の世界に帰還させるプログラムが完成する。だからその時が来るまで、彼女はマスターハンドたっての望みでファイターとしてこの館に身を置いているのだ。
 プログラムが完成するまでの日数も、気がつけばもう残り少ない。初めは長いものだと思っていたが、もうそんなにもこの世界で月日を過ごしてきていたのか。感傷に浸りかけた彼女だったが、ふとルカリオがため息をついたのに気がついて意識を引き戻す。――この世界での暮らしを思い返して、人前で涙ぐむわけにはいかない。
 それにしても、自分がこの世界に来たのと同時期に不具合が多発するとは。奇妙な符号の一致もあったものだ。

「マスターさん、疲れてるんでしょうか」
「どうだかな。せいぜい別の作業に没頭して調整を疎かにしているのだろう。奴にはよくあることだ」

 ぎくりとスミレは体を強張らせた。もしかしたら、プログラムの構築が思いの外難航していて、その結果乱闘に影響が出てしまっているのかもしれない。時期的にもぴたりと一致する。……いやいや、まさか、考えすぎだろう。スミレはちらりとリザードンに目を向ける。もしそうであったとしたら、申し訳なさすぎて彼に顔向けができない。

「で、でもファイターもステージも多くなりましたし、維持するのも大変なのかもしれませんよ」

 できれば、そうであってほしい。推測というよりも、そんな願いを込めてスミレはこの場にいないマスターハンドをフォローする。そうだ、きっとそうに違いない。五十名を超えるファイターに三十以上のステージ、そしてファイター達を飽きさせない様々なチャレンジシステム。おまけに、館のメンテナンスまでマスターハンドの管轄なのだ。これだけ仕事があれば、全てに手が回らないのも頷ける。
 ルカリオはその眼差しをじっとこちらに注いでいたが、しばらくしてふっと笑みの混じった息を短く吐いた。

「そうかもしれんな」

 ……ひょっとして、波導の力でこちらの焦りを読みでもしたのだろうか。心なしか、彼の視線が生温かいような気もする。波導では他者の細かい思考までは把握できないそうだが、やはり感情を読まれるだけでもそこはかとなく恥ずかしい。情けなく眉根を下げて苦笑すれば、ルカリオはその笑みの奥に潜む照れすらも察したようだ。わずかに細められた彼の眼差しに、微笑ましいものでも見ているようなやわらかな光が宿る。
 この状況でマスターハンドを庇ったわけではないと言い逃れをしても、焼け石に水だろう。スミレが小さく息をついたその時、ふと頭上に影が差した。振り返ろうとした彼女の動きを押し留めるように、頭に大きな手がぽんと置かれる。思わず肩を跳ね上げたスミレだったが、そのごつごつと骨張った固い手から伝わってくる温もりに安堵して体の力を抜く。

「リザードンさん?」

 振り返って手の持ち主を見上げると、リザードンは鼻を鳴らしてスミレの瞳から視線をそらした。その眉間には深い溝が刻まれていて、どこかぶっきらぼうな男性を思い起こさせる。……何がしたいのだろう。じっと見上げていると、見かねたルカリオが彼の声なき言葉を伝えてくれた。

「だいぶ落ち着いてきたようだ。『当たり散らしてすまない』と言っている」
「あら」

 ――リザードンの気性は荒い。乱闘に参加しているこの個体も例外ではなく、館の中でも特に好戦的な性格をしていることで知られている。これまでも彼がらみのトラブルは数多く、聞くところによると一度この館が全焼しかけたこともあるそうだ。その逸話を聞かされた時は、その衝撃の大きさに思わず表情を引きつらせたものだ。
 それ以降、スミレはリザードンと接する時は彼の『げきりん』に触れぬよう、細心の注意を払っていたのだ。――だが。
 スミレはリザードンをこちらに向かせようと、自分の頭に乗せられた手にそっと自分の指を添える。爬虫類なのに人間の体温よりも遥かに熱く感じるのは、猛る炎を身の内に秘めているためだろう。

「私の方こそ、怖がっちゃってごめんなさいね」

 思い起こせば、乱闘空間以外でリザードンが女子供にその爪や牙を向けたところは一度も見たことがない。彼は自分の強さにある種の矜持を持っていて、それを弱いものに振りかざすことは決してしない。――だから、スミレが怖がる必要などなかったのだ。
 リザードンはその瞳だけをちらりと動かしてスミレを見下ろす。そして言葉に詰まってでもいるかのように小さく唸ると、長い首を鋭い爪でぼりぼりと引っかいた。照れているのだろうか。
 リザードンの表情を見上げて薄く口元に笑みを浮かべていると、不意に乱闘ルームの扉が外側から開かれる。顔を向ければ、マルスが王子らしいゆったりと静かな足運びでルームへと入ってくるのと目が合った。その涼やかな目元に浮かぶ笑みは、彼が口を開かずともこの場の誰もが望んでいる結果を運んできたことを雄弁に物語っていた。

「お待たせ、みんな。もう乱闘しても問題ないらしいよ」
「承知した」

 マルスの言葉に、ふっと小さく笑みをこぼしたルカリオが組んでいた腕をほどく。ゲッコウガは飄々と待っているように見えてだいぶお待ちかねだったらしく、真っ先に乱闘空間へ飛び込んでいった。それを見てふつふつと戦意が滾ってきたのか、リザードンが一声大きく吠えた。驚いて振り返れば、彼の開いた口の中に溢れんばかりの炎が燃え盛っていて、スミレはぎょっと目を見張る。

「リザードン、こんなところで炎を吐かないでくれ!」

 制止の声を上げたマルスが、大慌てでスミレの肩を掴んでリザードンから引き剥がした。その声に我に返ったらしく、リザードンは即座に口を閉じて炎を飲み込む。抑えきれなかった炎がわずかに鼻から吹き出したのが目に映って、スミレは思わずくすくすと笑った。また炎を吐けるようになったのがよほど嬉しかったのだろう。

「よかったですね、リザードンさん」

 眉間にシワを寄せながら自分の鼻面を擦っていたリザードンは、微笑みかけるスミレを見下ろすと短く鳴いて炎の灯った尾を揺らめかせる。

「『手加減はしないからな』だそうだ」

 乱闘空間に足を踏み入れようとしていたルカリオが、振り返って彼の闘志を伝えてくれた。

「望むところです」

 彼女の言葉に、リザードンは口の端をぐいと持ち上げて鋭い牙を見せた。狭い室内で許される限りに翼を広げた彼は、ルカリオを追って意気揚々と戦いの場へと飛び込んでいく。それを見送りながら、マルスがふっと笑みを浮かべた。

「言うようになったね、スミレ」
「いつまでも弱さに甘えてばかりはいられませんから」

 マルスの瞳を見上げて、スミレは同じように笑みを返す。この世界に来てもう二ヶ月だ。ファイターとして戦うようになったばかりの頃と比べて、今の自分は確実に強くなっている。もうそろそろ、『新入り』の称号を返上してもいい時期だろう。リザードンのこちらを焚き付ける炎のような眼差しを思い出したスミレは、笑みを深めながら強く拳を握りしめた。




 

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