smile! | ナノ

 はらりと本のページをめくった視界の隅に、不意に鮮やかな黄色が入り込んだ気がした。スミレが視線を上げると、ちょうどピカチュウがちょこちょこと四つ足で駆けながら談話室の入り口を潜ったところが目に映る。おや、と違和感を覚えたスミレは本に戻しかけた視線を押し留め、談話室の入り口を見やった。……ピカチュウの後に続いてこちらに入ってくる者は誰もいない。
 これは珍しいこともあったものだ。いつも他のポケモンや子供達と遊んだり、大人達に構ってもらったりしているピカチュウがたった一匹でいるだなんて。そんなことを考えながら彼を見つめていると、ふと顔を上げた相手のつぶらな瞳と目が合った。彼は後ろ足で立って「ピーカー!」と手を振って挨拶すると、四つ足に戻って嬉しそうにこちらに駆けてきた。走る度に揺れる長い耳が可愛らしくて、スミレはゆるりと笑みを浮かべる。
 ピカチュウは後ろ足で床を蹴って、スミレの座る三人掛けのソファに軽々と飛び乗った。こちらを見上げて何かを期待するように尻尾をぴょこんと揺らす彼に、彼女は穏やかな微笑みを向ける。

「こんにちは、ピカチュウ君。どうしたの?」
「ピーカ」

 ピカチュウはこちらの瞳を覗き込みながら、両手を上げて軽く背伸びをする。その仕草に合わせてソファがやわらかく浮き沈みするのが、深く腰かけているスミレの体にも伝わってきた。

「うーん、『お菓子欲しい』? ――じゃないよね、やっぱり」

 首を横に振るピカチュウに、彼女は困ったように首を傾ける。こちらの世界に来て大分経つが、言葉を話せないファイター達との意思疏通は相変わらずスミレの苦手分野のひとつだった。ピーチなどは「フィーリングで分かるようになるわよ」と言うのだが、そこがどうにも上手くいかない。辛うじて喜怒哀楽は読み取れるものの、細やかな意図がどうしても読み取ることができないのだ。
 だがピカチュウも、スミレの察しの悪さは承知の上らしい。彼は機嫌を悪くした様子もなく短い腕で彼女の手を掴むと、それを自分の頭の上に持っていった。反射的に引っ込めようとした手に、短くてやわらかい彼の毛並みがふわりと触れる。

「ピカ!」
「……いいの?」

 そこまでされれば、いくら鈍いスミレでも彼の求めるものに気づく。試しに恐る恐る手を毛の流れに沿って滑らせると、ピカチュウは大層心地よさげに目を細めて気の抜けた鳴き声を漏らす。そしてスミレが撫でる動きに合わせてぐいと頭をそらし、自分の額を手の平に押しつけてきた。――なんて、かわいい。スミレは自分の顔がふにゃりととろけるのが分かった。こんな顔、他の誰にも見せられない。
 調子に乗って両手で彼の頬全体を包むように可愛がっていると、ふとピカチュウが身じろいだ。くすぐったかったかと手を引けば、彼はかしかしと後ろ足で首の辺りを引っかきだす。ネズミというより猫のするような仕草だなと不思議な心地で見守っていると、毛繕いを終えた彼がのそりとスミレの太ももの上に前足を置いた。

「あっ、ピ、ピカチュウ君! そこは――」

 スミレが慌てて制止の声をかけるも、ピカチュウが意に介した様子は全くない。そのまま彼女の脚の上に乗り上げると、居心地を確かめるためにかぐるぐると足踏みをしながら回りだす。太ももをむにむにと踏まれる感覚がくすぐったい。
 しばらくすると、彼は満足げに「ピカ」と鳴いてスミレのももの上に丸まった。脚と下腹部にもたりとのしかかるやわらかな重みに、スミレの胸がぎゅっと締め付けられる。――そんな幸福感に浸っていると、やがてスピスピと気持ち良さそうな寝息が聞こえてきた。

「……寝ちゃった」

 起こさぬようにそっとその脇腹辺りに手を埋めてみると、短い毛がふわふわと指の間をくすぐる。この上なく心地のいい感覚に、スミレは表情をとかして笑う。

「プリ?」

 と、不意に聞こえた誰かの声に彼女は驚いて肩を跳ね上げた。――見られたか。反射的に出入り口を見やれば、そこにはプリンが真ん丸な目を不思議そうに瞬かせながら立っていた。

「あら。こんにちは、プリンちゃん」

 プリンにだったら見られても大した害はない。スミレはほっと肩の力を抜いて小声で挨拶をする。すると彼女は床を蹴る反動を使って、ふわりふわりと生きた風船のようにこちらに歩み寄ってきた。そうしてソファに飛び乗ると、彼女はスミレのももの上で眠るピカチュウを興味津々に見つめだす。

「プリ〜」
「うん? ……ああ。ピカチュウ君、今さっき寝ちゃったばっかりなの。遊びたい? 起こそっか」
「プリリ!」

 プリンは顔を大きく横に振ると、何を思ったのかスミレの右脇腹に体を押し付けた。

「え、プリンちゃん?」

 戸惑うスミレをよそに、プリンはその丸い体を彼女の腕と脇腹の間にぎゅむぎゅむと押し込んでいく。やがてスミレの小脇に収まったプリンは、体が固定されて安心したのか長い息をついた。ふすーとプリンの空気が抜けていく感覚に、スミレは彼女がしぼみきって脱け殻のようになってしまわないかと一瞬本気で心配した。
 ゆっくりと膨らんだりしぼんだりするプリンを小脇に抱えていると、スミレの胸になんとも言えず愛おしさが込み上げてくる。やがてチャームポイントでもある空色の大きな瞳がゆっくりと目蓋に覆われていき、プリンもまた眠りに落ちてしまった。

「あらあら」

 スミレはくすくすと小さく笑う。どうやら、ピカチュウの寝顔に眠気を誘われてしまっていたらしい。スミレの腕の下に潜り込んだのは、眠っている間に飛ばされないようにという種族としての本能なのだろう。
 ――それにしても幸せだ。膝の上のピカチュウの適度な重み、小脇にプリンのやわらかなふくらみ。ポケモンのみならず、愛玩動物好きには堪らない感覚である。

「あ、スミレさん」

 にへら、と笑いかけたスミレは慌てて表情を戻す。いつもの穏やかな笑みをなんとか取り繕った彼女が声の聞こえた方に目をやると、眠たげに目を瞬かせたヨッシーが談話室に入ってくるのが見て取れた。……これはまずいことになってきた。スミレはソファを占有してしまっている自分に気づいて冷や汗を感じる。

「お昼寝ですか? ごめんなさいヨッシーさん、今ちょっとどけなくて」

 ヨッシーはよく昼寝をする。場所はその日の気分によって変わるらしく、中庭の木陰であったり静かな図書室であったり、はたまた花壇の傍のベンチであっりと様々だ。スミレがいつも読書に使っているこのソファも彼の昼寝スポットらしく、彼は時折ここにも眠りにやってくる。
 普段ならば端に寄ってスペースを確保してやれるのだが、あいにく今日は先客が二匹もいる。眠い中ここまで歩いてきたヨッシーには悪いが、他の場所を探してもらうしかない。

「ん〜、別にいいですよ。ボクそこで寝ちゃいますから」

 大きなあくびをしたヨッシーの言葉に、スミレはほっと表情をゆるめる。談話室内にあるソファはこれだけではない。きっと、少し離れたところにある一人掛けのものでも使ってくれるのだろう。……そんなスミレの予想は、いともたやすく裏切られた。

「ちょっと狭いけど、まあいっか……」

 彼はスミレの座るソファの前で靴を脱ぐと、プリンのいる方とは反対側のスペースに体を押し込めるようにして背を丸める。そして肘掛けに頭を乗せると、尻尾をスミレのももの側面に押し当てるようにして昼寝の体勢についた。

「あの……ヨッシーさん、その体勢つらくないですか?」

 ……返事はない。すでに眠ってしまっているようだ。スミレは小さくため息をつくと、ヨッシーのつるりとした尻尾にそっと視線を落とす。よくよく目を凝らして観察すれば、薄手のカーテン越しに入ってくる光を反射する、きめ細やかな鱗が見えた。
 ――寝てるから。いいよね。スミレはごくりと唾を飲み込むと、そっと彼の尻尾に人差し指を押しつけた。むにりと筋肉特有の弾力が指を押し返す。今度は起こさないように手の平で触れてみる。鱗があると思えないくらいなめらかな肌触りだ。
 あまり触っていると、癖になってしまいそうだ。そんな危惧をしながらもそこから手を離せないでいると、爪のある足で床を蹴る独特の足音がこちらに近づいてきているのが耳に届いた。顔を上げると、背中に相棒の鴨を乗せたダックハントが談話室に入ってくるのが目に映る。

「……まさか、ダックハントさんまで」

 ダックハントはこちらに駆け寄ってくると、ふんふんと鼻を鳴らしながらスミレの足元を嗅ぎ回った。しばらくそうしていた彼は、やがて納得したように鼻を鳴らすと、スミレの足とソファの間に体を潜り込ませた。むりょりと柔らかい腹の肉が隙間に押し込まれるのをブーツ越しに感じて、スミレは表情を崩したくなるのをなんとか堪えた。犬の背中にいられる隙間がなくなって床に飛び降りた鴨は、ばさばさと羽ばたいてからスミレのブーツの甲にちょこんと座る。――そうして二匹は動かなくなった。もはや言葉も出てこない。

「……どうしよう、これ」

 訪れた沈黙に、スミレは乾いた笑いをこぼす。膝の上にピカチュウ、小脇にプリン、その反対側にはヨッシーが寝転び、足元にはダックハント。……動けない。身じろぎすらできない。しかも心地よい陽気のせいか、だんだんと暑くなってきた。かと言って、気持ち良さそうに眠っている彼らを起こすのも躊躇われる。

「何やってんだお前」

 不意に呆れたような少年の声が耳に突き刺さって、スミレはぎくりと肩を強張らせる。痙攣にも似たその動きを感じてか、プリンがむずかるような声をこぼした。
 談話室の入り口を恐る恐る見やれば、そこには赤みがかった瞳を半眼にしてこちらを眺めるブラックピットの姿があった。

「い、いえ、そのですね、なんと言えばいいのやら――」

 スミレはぎこちない笑みを浮かべると、緊張気味に声を上ずらせる。他者との不要な接触を拒もうとするブラックピットとは、これまでほとんど交流したことがない。会話らしい会話も、先日の公式乱闘でタッグを組んで戦うことになった時に儀礼的な挨拶を交わしたくらいだ。……交わしたとは言っても、こちらの挨拶は鼻で軽くあしらわれてしまったのであったが。
 そんな彼の刺々しく攻撃的な言動も相まって、スミレは正直なところ彼を敬遠していた。苦手であると言っても過言ではない。
 だからこそ、彼に話しかけられてスミレは内心怯んでいた。どう答えたものか、また馬鹿にしたように鼻を鳴らされはしないだろうか。焦っていた彼女の脳裏にふと、ひとつの単語がひらめく。

「あ――あったかもふもふ地獄なんです!」
「なんだそりゃ」
「あ、いや、そのですね」

 ……焦るあまりに妙なことを口走ってしまった。引きつった笑顔で自分の発言を誤魔化したスミレは、こうなってしまった経緯について訥々と語りだした。
 偉そうに顎を上げてこちらを見下ろしながら、ブラックピットはしかめっ面でじっとスミレの話を聞いている。……なんだかんだ言いつつ、こうして途中で退席することもせずこちらの話を聞いてくれているのは意外だ。案外悪い子ではないなのかもしれない。
やがて全てを聞き終えたブラックピットは、ハッと短く吐き捨てるように息を吐いた。

「嫌なら嫌ってはっきり言えばいいだろうが。自業自得だ、誰彼構わずいい顔をするお前が悪い」
「あ、あはは……別に嫌ってわけじゃないんですけど」

 歯に衣着せぬ容赦のない物言いに、スミレは困ったように眉根を下げて笑いをこぼす。だが、その笑い方が逆に癇に障ってしまったらしい。彼は苛立たしげに顔を歪めて舌打ちをする。そして冷たく敵意に満ちた眼差しでじっとこちらを見下ろしたかと思うと、ぐいとこちらに顔を寄せた。互いの距離が急激に近づいて、スミレは思わず体を強張らせる。

「ひとつ忠告しといてやるよ」

 冷たい声音で囁くブラックピットの赤みがかった瞳が、ふと真剣な光を覗かせる。

「人の顔色ばっか伺ってると、いつか痛い目見るぜ」
「あら」

 ――何を言うかと思えば。スミレはくすくすと笑うと、上目遣いで悪戯っぽく彼を見上げてみせた。

「そんなに優しい人間に見えてましたか、私」

 ブラックピットはひとつ勘違いをしている。スミレは自分の身も省みず、無償で他人に尽くす聖人では決してない。誰かが困っている場面に遭遇しても、自分の力で解決できなさそうなことには手を出さないし、親切にしている裏でこっそりと見返りを期待していることもある。
 例えばポケモン達に囲まれて身動きの取れないこの状況だって、もふもふしたあたたかい生き物を誰に遠慮することなく思う存分堪能できるというメリットがあるのだ。スミレは静かに笑いながら、そっとピカチュウの丸まった背を撫でる。――幸せだ。少々暑苦しいのを差し置いても、この感覚は何物にも代えがたい貴重なものなのだ。

「――へえ、なるほどな」

 ブラックピットは軽く目を見張って瞬きをしたかと思うと、何か面白いものでも見つけたかのように唇に歪な笑みを描く。そしてスミレから顔を離し、意地の悪い表情でにやにやとこちらを見下ろした。

「単なるお人好しかと思ってたが、とんだ『偽善者』だったってわけか」
「そんな大袈裟な」

 ブラックピットの言い様に、スミレはつい苦笑をこぼす。自分は確かに純粋な善人ではないが、かと言って偽善者だなどと大層な肩書きを持つ人間でもない。ただ少し臆病で打算的な八方美人というだけだ。そんなスミレのやわらかな主張を、ブラックピットは鼻で笑い飛ばす。

「言ってろ。今にそのお優しい『善人面』を剥いで下の顔を拝んでやるよ。だがまあ、ひとまずは――」

 彼はにやりと笑うと、ゆっくりとソファの裏側に回っていく。ブラックピットの姿が視界から抜けた瞬間、スミレはそこはかとない不安に襲われた。――何をされるというのだろう。上体を捻って背後を確認することもできず、そわそわと落ち着きなく視線を動かす。「ブニィ」と苦しげな声が傍らのプリンから漏れたのを聞き、スミレは慌てて無意識に入ってしまっていた腕の力を抜いた。守るべきものが多いというのも大変である。
 ――と、不意に視界が闇に覆われた。

「お前にさらなる地獄を与えてやるとするか」

 視界を真っ黒に染めたそれの正体がブラックピットの背中に生えている翼であると気づくのに、そう時間はかからなかった。恐らく後ろに少しばかり背の高い椅子を置き、スミレの座るソファの背もたれに翼の付け根をもたせかけているのだろう。
 顔を正面に戻すと、やわらかく軽い羽毛が耳や首筋をくすぐってスミレは思わず身震いをする。唯一自由な片腕を動かして本を読もうとしても、さわさわと触れる羽毛が気になって集中できそうにない。

「も、もふ……あの、本が読みにくいんですが」
「てめえの都合なんざ知るか。これが羽を広げたまんま休む一番ちょうどいい体勢なんだよ」

 ふわぁ、と背後からあくびが聞こえる。……まさか彼もこのまま寝るつもりか。そんなスミレの読みはどうやら当たってしまったようで、幾ばくもしない内に静かな寝息が聞こえてきた。しばらくの沈黙の後、スミレは軽くため息をつく。

「今日はみんな甘えたい日なのかしらね」

 足元のダックハントがその呟きに答えるように、ぶすぅといびき混じりの吐息をつく。くすりと笑ったスミレは、本を閉じるとそのままゆっくりと自分の目蓋も下ろしていった。




 

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