smile! | ナノ


 ざく、ざく、と土を踏みにじる足音を夢うつつに聞いた気がして、スミレはふっと意識を浮上させた。重たい目蓋を開いた彼女は周囲の光景に、何故自分が森の中で眠っているのかと首をかしげる。
 体を動かそうとして、腰の辺りにやわらかくて温かいものが寄りかかっていることに気づく。ゆっくりと首を巡らせて確認すると、そこではプリンがすやすやと寝息を立てていた。可愛らしいその寝顔に、スミレの口元がふっと緩む。
 ――そういえば、読書していたところをプリンに連れ出されて、裏山で彼女のリサイタルを聴いていたのだった。やはりというかなんというか、聴いている内に気持ちよくなってそのまま寝入ってしまったらしい。毎度毎度こうして途中で眠ってしまっているので、一生懸命歌ってくれている彼女にはちょっぴり悪い気がする。
 スミレ達が腰かけている平たい岩にはやわらかな木漏れ日が差していて、暑すぎも涼しすぎもせず心地よい。プリンも穏やかな山の静けさとその温もりに眠気を誘われて、一通り歌い終わった後でスミレの隣に寄りかかったのだろう。
 ――ざく、ざく、と足音が近づいてくる。誰かやって来たのだろうかとスミレは一瞬体を強張らせるが、すぐにふっと緊張を解く。この山には基本的にファイターしか入れないと聞いているから、きっとその内の誰かに違いない。彼らなら、警戒する必要はないだろう。

「あっ、こんなところにいた!」

 突如聞こえたその声に顔を上げれば、ちょうど白い翼を持った少年――ピットが丸い目をこちらに向けていた。こちらに駆けてこようとしてた彼は、プリンが眠っているのに気づいた瞬間ぴたりと立ち止まる。優しい子だ。
 スミレはくすりと笑うと、プリンを起こさぬように抑えた声で呼び掛ける。

「どうかしたの?」

 ピットは困った顔で頭をぽりぽりとかいた。

「いやあ、ピカチュウに頼まれてプリンを捜しに来たんだけど……見事に寝ちゃってるね。起こさない方がいいかな?」
「うーん……大丈夫じゃないかな」

 スミレは苦笑してプリンの寝顔を見下ろす。きっと彼女も、せっかく友達が遊びに誘ってくれたのに何も知らされないままご破談になっていた、なんてのは嫌だろう。それなら、いっそ起こした方がいい。

「プリンちゃん、起きて」
「……プリ?」

 そっとプリンを揺すると、彼女はぼんやりと瞼を開けてその大きな瞳を現した。木漏れ日にきらきらと輝く空色の瞳に向かって、スミレはにこりと笑いかける。

「ピカチュウ君が捜してるって。ピット君が呼びに来てくれたよ」

 ほら、と数歩離れたところに立つピットを視線で示す。プリンはスミレの眼差しをなぞるようにそちらに目を向けると、二度瞬きをして首――というよりも体全体を傾けた。そして納得したように大きくひとつ頷いて、腰かけていた岩からふわりと飛び降りる。

「歌、ありがとうね。最初の方しか聴けなかったけど、すごく綺麗な声だったよ」
「プリ〜」

 スミレの感謝と賛辞に、プリンは丸い胸を得意気にそらす。その仕草の愛らしさに、スミレは胸がきゅんと高鳴るのを感じた。毎度思うが、何故ポケモン達はどんなことをしてもこんなに可愛いのだろう。もしプリンがポケモンでなく言葉の通じない動物であれば、人目も憚らず思いきり抱き締めていたのに。

「プリ!」

 プリンは伝言を伝えに来たピットにも頭を下げると、ぷくっと膨らんでそのまま宙に浮かび上がった。ゆっくりと上昇する彼女を見上げて、ピットが声を張り上げる。

「プリン、ピカチュウは館の中庭にいるって!」

 そんな彼の言葉が聞こえているのかいないのか、「プリプリ〜」と気の抜けるような声が上空から降ってきた。彼女は時折風に煽られて蛇行しながらも、ふわふわと館のある方角へと向かっていく。

「だ、大丈夫かなぁ……」
「そ、そうね。……きっと、たぶん」

 二人して空を見上げ、浮かび去るプリンを見送る。突風が吹いて流されでもしない限り無事にたどり着けるとは思うが、あの不安定な飛び方と本人のマイペースな性格を考えるといささか不安になってくる。
 ……きっと大丈夫だ。そう信じることにして、スミレはピットに微笑みかけた。

「それにしても、よくここが分かったね」
「え? ああ、そんな大したことないよ。プリンがスミレを連れて裏山に行くのを、ちょうどヨッシーが見かけたらしくてさ――あ、パルテナ様? どうかされましたか?」

 話の途中で、ピットが唐突に他所を向いた。恐らく上司のパルテナと通信しているのだろう。彼は相槌を打ちつつ、雑談を中断したことを気にかけているのかちらりとこちらを見やる。スミレが『どうぞ気にしないで』と伝えるように片手を上げると、ピットはぱっと笑顔を見せてパルテナとの会話に集中し始めた。
 時折挟み込まれるピットのコミカルなリアクションのおかげで何を話しているのか大層気になったが、スミレは黙って彼の通信が終わるのを待つ。

「はい、はい……了解しました!」

 一際大きな返答の声を最後に、通信は一段落したらしい。今しがた吹いた風で乱れた髪を整えつつ、スミレは彼に問いかける。

「任務?」
「いや、なんだかこれからパルテナ様がピーチ姫達とお茶会をされるそうで……それで、どうせ目の前にいるならスミレも誘ってくれって」
「あら、それなら私も参加させてもらおうかな」

 ピットの言葉に、スミレはそう言って破顔した。今日の公式乱闘は夕方だし、それまではなんの予定も入っていない。あえて断るべき理由もなかった。

「パルテナさんにもそう伝えてくれる?」
「了解! ……って言っても、もう伝わってるんだけどね」

 速い。どうやらパルテナはピットの声だけではなく、彼の周辺の会話まで聞き取れるらしい。さすが女神様だと感心して頷いていると、ピットが不意にこちらの手を握ってきた。思いもかけぬ突然の接触に、スミレは反射的に息を止める。

「それじゃあ、しっかり掴まっててね」

 ところどころにマメがありながらも、繋いだその手は少年らしくやわらかな肉付きをしている。目を白黒させている彼女に無邪気な笑みを向けたピットは、畳んでいた翼を大きく広げた。真っ白いその翼が、次第に青みがかった炎のような輝きを帯びていく。

「よーし、行くぞ! 飛翔の奇跡で館のサロンまでひとっ飛びだ!」
「あっ、ちょっと待って!」
「がくっ」

 我に返ったスミレの制止に、ピットが効果音声付きでずっこける。少々大袈裟とも思えるその仕草にくすくすと笑いながら、彼女は小さく首をかしげた。

「その前に、私の部屋に寄ってくれないかな。お茶会に持っていきたいお菓子があって」




 空の旅は短かったが、なかなかに快適なものだった。
 繋いでいた手の負担が気にならなかったことから考えると、飛翔の奇跡には体重を軽くする効果もあるのだろう。おまけにパルテナがスミレを気遣って飛ぶスピードを落としてくれたおかげで、上空からの景色をゆっくりと楽しむことができたのだ。
 乱闘空間で飛び跳ねるのとはまた違った風を感じながら、スミレはいつか自分の力で空を飛んでみたいと言ったピットの気持ちがなんとなく分かったような気がした。

「ピット、ただ今到着しました!」
「わっとと……」

 ピットがテラスに着地する前に、まずぶら下がっていたスミレが先に床へと降ろされた。爪先が床についた瞬間、これまでの浮遊感から一転して重力が戻ってきて、彼女は前のめりにバランスを崩してしまう。
 あわや倒れるかと思いきや、歩み寄ったピーチがその肩を優しく支えて抱き止めた。一拍遅れて、ふわりと甘い匂いが鼻を掠める。

「いらっしゃい、スミレ。待ってたわ!」
「あ、ご――ごめんなさい!」

 耳元で聞こえた歓迎の声に慌てて距離を取ると、プリンセスはぷっくりとした唇を不満げに尖らせて腰に手を当てる。

「もう、そんなに照れなくてもいいのに」
「あはは……」

 スミレは苦笑混じりに目をそらして耳の下をかく。頬の火照りを自覚してしまった後では、照れていないなどという嘘はつけなかった。それもこれも、ピーチがあざとすぎるほど可愛い女性なのがいけない。

「来てくれて本当にありがとう、スミレ」
「そんな。こちらこそ、誘ってくださってありがとうございます」

 優雅に微笑んでドレスのスカートを摘まむピーチに、スミレも笑ってお礼の言葉を返した。

「お疲れ様です、ピット。さあ、ここから先は男子禁制の神聖なる会合の場です。ということで、男の子は退場してもらいますよ」
「普通に女子会って言いましょうよ、パルテナ様」

 耳に届いた突っ込みに何気なく視線を移せば、その先ではピットとパルテナがいつも通りの軽い会話を交わしている。毎度毎度、主従関係にあるとは思えないノリだ。だがその軽口も、互いへの信頼があってこそなのだろう。
 そんな二人のやり取りに表情を緩ませていると、ピーチがスミレの手にある紙袋に目を留めた。

「ねぇスミレ、今日は何を持ってきてくれたの?」

 期待に満ちたピーチの眼差しに応えて中身を取り出して見せると、ブルーの瞳がぱっと明るく輝いた。

「まあ、パウンドケーキね! しかもこれ、タウンの『シアン・シエル』の新作スイーツじゃなくて?」
「そうなんです。買ったはいいんですけど、一人じゃ食べきれそうになくって」
「あら、スミレったら独り占めする気だったのね? 悪い子だわ」

 ピーチの指がつんとスミレの額をつつく。スミレはくすぐったさに笑みを浮かべながら、触れられた額にそっと手を当てた。その拍子に、ふとピーチの肩越しに見えたサロンが無人であることに気づく。

「あれ、他の方々は――」
「まだ到着もしてないわ。ピットが速すぎたのね」

 そう言ってピーチが肩をすくめる。ここに来る前に自室にも寄ってきたはずなのだが、やはり遮蔽物のないルートは地上を歩くのとは大違いらしい。
 ――そういえば、まだここまで連れてきてくれたお礼も言っていなかった。そう思い出して視線をめぐらせるスミレの目に、ちょうどピットが退出しようとしているところが映った。

「それじゃあ、ボクはこれで失礼します!」

 元気な挨拶を残して廊下へと続く扉に手をかけた彼に、スミレは持って来た箱を開封しながら慌てて声をかける。

「ちょっと待って、ピット君」
「うん? なに?」

 無邪気な顔で振り返った彼の元へ小走りに駆け寄った彼女は、個包装のパウンドケーキを一切れ差し出した。

「一個あげるね。運んでくれてありがとう」
「えっ、いいの!? やったあ!」

 ぱっと表情を輝かせたピットは、彼女の手からそれを受け取ると飛び跳ねて嬉しそうにはしゃいだ。まさか、菓子ひとつでこれほどまで大喜びされるとは。だがそうやって大袈裟に喜びを表現してくれると、あげたこちらとしても嬉しいものがある。
 と、突然パルテナがすっとんきょうな声を上げた。

「まあ! 私の前でピットを餌付けする気ですか、スミレ?」

 ――ちょっと待て、餌付けだって? 飛び出してきた衝撃の単語に、彼女は唾液を吸い込んでしまって思わず咳き込んだ。

「え、餌付け!? そんな、まさかスミレが!?」
「あらあら、スミレったら積極的ね」

 驚いて目をかっ開くピットとやわらかく微笑むピーチ。思わぬ方向に走り始めた展開に焦ったスミレは誤解を解こうと慌てて両手を振る。

「ち、違いますって! そんなつもりじゃ……」
「ふふ、分かってます。冗談ですよ」

 パルテナの笑みを含んだ言葉をすぐには理解できず、スミレは静止した。

「……へっ?」

 数秒遅れで反応した彼女は首を傾げて瞬きをし、三人の顔を順繰りに見回す。
 パルテナはいつもと同じ綺麗な笑顔でこちらを見つめており、ピットとピーチはにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべている。彼らの表情からようやく真相を悟り、彼女は情けなく眉根を下げた。どうやら二人とも、パルテナの発言が冗談だと分かってノっていたようだ。――なんて人の悪い。安堵と疲労感に、彼女はがくりと肩を落とす。パルテナのフリーダムな言動に振り回されるピットの気持ちが、少しだけ分かった気がする。
 そんな彼女の反応を見たピーチがくすくすと楽しそうに笑う。

「スミレって本当にからかいがいがあるわよね。……それにしても、さっきのピットを見ていてふと思ったのだけど」
「え、なに?」
「ピットって、悪い人に『お菓子あげる』って言われたら簡単に着いていっちゃいそうよね。見ていてちょっと心配になるわ」
「むっ、ボクはそんなに子供じゃないぞ」

 ピーチが口元に指を宛がって気遣わしげにピットを見やると、彼はむっと頬を膨らませる。その仕草や表情は、言葉の内容に反していかにも子供らしい。

「大丈夫ですよ。いくらピットが素直すぎるほど素直だからといって――」

 パルテナはそこで口をつぐんだ。そして沈黙したまましばらく自分の部下を見つめると、不意ににこりと微笑みかける。女神らしい、気品と慈愛に満ちあふれた輝かんばかりの笑みだ。……つまるところ、フォローしきれなかったらしい。

「パルテナ様まで……。ボク拗ねちゃいますよ」

 むすっと不貞腐れたような顔をするピットが可愛らしくて、スミレはくすくすと笑う。

「心配しなくても大丈夫だと思いますよ。世の中、悪い人なんてそうそういないんですし」

 さて、そろそろ他の参加者達も集まってくるはずだ。紅茶の淹れ方には明るくない自分だが、もてなされてばかりは居心地が悪い。せめて持ってきた菓子を並べるくらいの簡単な手伝いはしなければ。窓の近くにある華奢で優美なテーブルへと向かった彼女は、ふとサロンがしんと静まり返っていることに気づいた。振り返ると、三人が真顔でじっとこちらを見つめている。――どうしたのだろう。

「スミレ。ひとつ聞きますが、これまで生きてきて悪人と呼べる人物に会ったことはありますか?」
「うーん……ガノンドロフさん、くらいじゃないですかね」

 パルテナの唐突な問いに、スミレは記憶をたどりつつ答える。とはいえ、彼も理由なしに悪事や暴力を働く人間ではない。絡んでくる子供達を邪険にしつつも決して手を上げたりしないのがその証拠だ。
 他に悪役と呼ばれるファイターもいるにはいるが、彼らも真性の悪というよりはせいぜい傍迷惑な人どまりだ。そう考えてみると、ますますこの世に悪人は少ないんじゃないかと思えてくる。
 にこにこと笑いながらと頷く彼女を見つめながら、三人が重々しく口を開いた。

「パルテナ様。ボクよりも、まずスミレを心配すべきでしたね」
「ええ、本当に。スミレ、絶対に悪い人に着いていってはなりませんよ。……いえ。まずは相手が悪人だとちゃんと判断できなければお話になりませんか」
「いざとなったら全力で蹴り倒して逃げるのよ、いいわね?」
「あ、あはは……私だって、そんなに子供じゃないんですけど」

 真剣な眼差しで注意されたスミレは思わず口の端を引きつらせた。何もそこまで心配することはないだろう。いくらスミレでも、自分が周囲の人々に恵まれていることは分かっている。いざ悪人と出会ったなら、きっとそうと判別できるはずだ。……きっと、たぶん。
 と、その時控えめなノックがサロンに響いたかと思うと、扉の向こうからお茶会の参加者であろう女性ルフレが姿を現した。

「すみません、失礼します――え、どうしたんですかこの空気」
「あらルフレじゃない、よく来てくれたわね! それよりちょっと聞いてくれる? スミレったらね――」

 突然始まったピーチのマシンガントークに、ルフレは目を白黒させながらも黙って耳を傾ける。そうこうしている間に次々と参加者が集まってきて、いかにスミレの危機感が足りないかという話がどんどんと女性陣の間に広まっていく。
 ――もう、どうにでもなれ。徐々に表情が思わしげに変わっていく彼女達を、スミレは遠い目をしながら眺めていた。
 その日の女子会は『いかにスミレが変質者から身を守るか』をテーマに大いに盛り上がり、話題の主役は終始苦笑いを浮かべる羽目になったのであった。




 

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