smile! | ナノ


 図書室の静かな空気を震わす優美な音に、スミレは本に落としていた目をつと上げて窓辺を見る。そこにはいつの間に現れたのやら、窓縁に腰かけたシークが小型のハープを爪弾いていた。彼はスミレの視線を意に介した様子もなく、瞳を閉ざして幻想的な音色を奏でている。
 ――本当に綺麗な人だ。スミレはほうとため息をついてシークに見惚れる。口元を隠していても分かる凛々しい横顔、ボディスーツに包まれたしなやかな筋肉、ハープの弦を震わせる長くしなやかな指。日の光を浴びてうっすらと輝いてすら見える彼は、もはや美術品と言っても差し支えないほどの完成された美しさをたたえている。
 ぼうっと彼を見つめながら、スミレはシークを男女どちらのカテゴリに入れるべきなのか密かに悩んだ。凛々しい顔つきや立ち居振舞いは男性とも取れるが、腰回りのラインや繊細な指先は女性に見えなくもない。男女どちらの魅力も兼ね備えた、中性的というより両性的な外見だ。……彼を見ていると、ありとあらゆる『境目』がぼやけてしまうような、そんな不思議な心地になってくる。
 魅入られたようにぼんやりとシークを眺めていると、不意にゆるやかな旋律が途切れた。彼はその瞼をそっと持ち上げ、流れるような動作でこちらを見やる。

「どうした、スミレ? そんなに僕をじっと見つめて……」

 こちらを見つめ返す赤い瞳にどぎまぎしながら、スミレは胸元に手を当てる。

「あ、いえ……シークさんって、男の人なんですよね」

 言葉と共にちらりと相手の股ぐらに目を向けてしまって、スミレは羞恥と罪悪感に頬を赤らめる。思わずとはいえ、今のはあまりにも不躾すぎた。シークはそんな彼女の視線の動きを目ざとく捉え、瞳をすっと妖しく細める。

「確かめてみたいのか?」
「い、いいです、遠慮します!」

 真っ赤になって頭を振ったスミレに、シークは静かに笑う。

「ふっ、冗談だ。そんな些細なことを気にしていたのだな、スミレは」
「すみません。シークさんがあんまりにも綺麗だったもので」
「それは、嬉しいことを言ってくれる」

 彼は再び目を閉じて、優雅にハープをかき鳴らす。キザで男性的なその仕草は、とても元がゼルダ姫だとは思えない。
 仕草だけではない。ゼルダとシークは、何も知らなければ同一人物だと気づかないほど外見が異なっているのだ。
 瞳の色に肌の色、顔の造形から腕の筋肉の付き方まで。共通点といえばその身長と、すっと通った鼻筋くらいなものだ。ここまでかけ離れていると、実は姉弟であると言われても信じてしまいそうだ。高度な魔法で根本の性別から変えているそうだから、それも当然なのかもしれないが。
 ――さて。では身体は男性だとして、心の方はどうなのだろう。
 『シーク』の演技をしているだけで、彼の感情や価値観はゼルダのままなのだろうか。男女で人格が分かれているということも考えられる。あるいは体の性別に引きずられ、ゼルダの心の奥に秘められている男性的な一面が表に出てきているのかも――。

「そうまじまじと見られていると、少し居心地が悪いな」
「ご、ごめんなさい」

 知らぬ間に相手の顔を見つめてしまっていたらしい。スミレは慌てて視線をそらす。

「……本当にごめんなさい。その、すごく気になっちゃいまして。シークさんがどんな人なのかって」

 スミレは恥じ入ってうつむく。自分でも直そう直そうと常々思っているのだが、目の前に興味を引かれるものがあるとつい無意識に視線を向けてしまうのだ。
 と、不意にシークが腰かけていた窓枠から降りる。レースのカーテンがふわりと持ち上がって彼の腕を撫でた。

「好奇心が旺盛なことだ。そんなに僕のことが知りたいのかい、スミレ?」
「はい。その、気が気じゃないんです。色々知っとかないと、何か失礼なことを言ってしまいそうで――」

 彼はシークというシーカー族の青年であり、同時にハイラルの王女ゼルダでもある。スミレが不安がる理由はその事実にあった。
 ゼルダとはピーチのお茶会を通してそれなりに良い仲を築けている。だがその反面、シークとは会話すらほとんどしたことがない。同一人物とはいえ一応は別人扱いなのだから、シーク時に親しげに接しては迷惑かもしれない。かと言って、あまりによそよそしくしてもゼルダがなんと思うか。
 少なくとも二人が意識や感情を共有しているかどうかを知らなければ、どう接していいのか分からないのだ。
 そんなスミレの葛藤を察したのか、シークはハープの弦に指を宛がったままゆるりと首を左右に振る。

「気を遣わなくても、女性の失言で怒るほど僕の心は狭くないさ。だけど、気をつけた方がいい……」

 彼は声を低くすると、足音もなくこちらに歩み寄ってきた。そして座っているスミレの目の前で立ち止まると、ゆっくりと体を前に倒して整った顔を近づける。彼が手をついた椅子の背もたれが背後でぎしりと悲鳴を上げて、スミレは知らず呼吸を止める。

「『好奇心は猫をも殺す』という言葉がある」

 至近距離で囁く中性的な声に、首筋がぞわぞわとくすぐられる。逃げ出してしまいたくなるのを必死に堪えて、スミレはなんとか一言だけ言葉を紡ぎだした。

「……物騒なこと、言わないでください」
「ふふ、すまない」

 シークが体を離してくれたので、スミレはほっと肩の力を抜く。綺麗な顔が間近にあるのは心臓に悪い。

「だが、男は君が思っているより頭の悪い生き物だ。君にとっては単なる興味関心にすぎなくとも、じっと見つめられ、気になるなどと言われては勘違いをしてしまう」

 そういうものだろうか、とスミレは首を捻る。
 この館に住む他の女性ファイターは、みな超特級の美人である。そんな美女達と共に生活していて惚れた腫れたの騒動を一切起こさない男性陣が、自分相手にそんな勘違いなどするだろうか。特に青年達には軒並み鈍感属性がついていそうだから、多少思わせ振りな態度を取ったところで気にも留めないと思われる。……安全な生活を送れて喜ぶべきか、それとも女扱いされていないと悲しむべきか、迷いどころである。
 とはいえ、元の世界の男性も彼らと同じくそうであるという確証はない。今後いらぬトラブルに巻き込まれないためにも、シークの忠告はありがたく受け取っておいた方がよさそうだ。

「そう、かもしれないですね。……以後、気をつけます」

 しおらしく頷くと、シークは刃のように鋭い目付きを不意に甘くとろけさせた。

「――いい子だ」

 とろりとしたその赤い瞳と低く抑えられた声音に、スミレの心臓がどきりと跳ね上がった。顔中に血が集まってくるのを感じて、彼女は固い装丁本を持った手にぎゅっと力を込める。
 もう男か女かどころじゃない。そんな些細な区別などものともしない色気が目の前のシークから迸っていた。艶然と微笑む彼を正視できなくて、スミレは軽く視線をうつむける。

「シークさんも、そういうのは意中の子にしかしない方がいいですよ。うっかり惚れそうになっちゃいます」
「ふふ……心得ておこう」

 薄青のすね当てに包まれた足しか視界に映せない彼女の頭上で、笑みを含んだ楽しそうな声が耳朶を打った。シークはそのまま彼女の視界からすっと外れると、一度だけ強くハープをかき鳴らす。
 ――開け放しになっている窓の外から、小鳥の可愛らしいさえずりが聞こえる。そっと顔を上げると、今の今まで確かにそこにいたはずのシーカー族の青年は跡形もなく消え去っていた。




「――それがね、その最新スイーツを手に入れるためにこっそり城を抜け出す直前でクッパに攫われちゃったのよ」
「あらら。それは、悔しかったでしょうね」
「もう悔しいなんてものじゃないわ! あんまりにも腹が立ったものだから、その後クッパに『お願い』して買ってこさせちゃったわよ」
「……結果的に食べられたみたいでよかったです」

 スミレはピーチの話に相槌を打ちながら、金縁の皿に盛られた可愛らしいクッキーに手を伸ばす。そうしている間にも、ピーチはころころと表情を変えて話を続けている。
 この日のお茶会の参加者はピーチ、ゼルダ、ルキナ、そしてスミレの四人だ。スミレ以外は、いずれもやんごとなき身分の女性ばかりである。初めは恐縮するばかりでその場にいるのもやっとだったスミレだが、今ではこうして会話の最中でも菓子をつまめるほど馴染んでいる。
 ピーチはひとしきり喋り終えると、同じ皿からクッキーをつまんでさくりとかじった。汚れないように手袋を外しているので、白魚のような指と磨かれた美しい爪が露になっている。その女性らしいしなやかな手の形に、スミレはつい見とれてしまった。

「それにしてもこれ、とっても美味しいわね。ルキナが買ってきてくれたものよね?」
「はい。先日、ルフレさんとシティに赴いた時に偶然目についたので」

 そこでピーチがにやりと人の悪い笑みを浮かべる。

「あら、デートかしら?」
「そ、そそんな、デートだなんて……!」
「ふふふ、隠さなくていいのよ」

 にこりと笑ったピーチと対照的に、ルキナは真っ赤になってわたわたと慌て出した。視線があちらこちらに飛んでいるのがとても可愛らしい。普段はきりりとしている美少女の表情がこうして生き生きと動いていると、ついつい見入ってしまう。
 ピーチがルキナをからかう光景に口元を綻ばせていると、不意にかちゃりとティーカップの鳴る音がする。視線を移した先では、ゼルダが優雅な手つきでカップを傾けていた。遠い世界の王女のいっそ幻想的とも言える仕草にぼうっと見惚れていると、にわかに開いた濃い青の瞳と目が合った。
 長く繊細な睫毛に、凛々しくもどこか愁わしげな眼差し。やわらかそうな唇は少し色味の暗い紅が淑やかに彩っている。カップを持ち上げる腕も細く、ひとつひとつの動作が洗練されていて実に姫君らしい。……こうして見ていても、やはり女性的な美しさを持つ彼女はシークとは似ても似つかない。

「――前々から思っていましたが」

 吸い込まれそうな深い色の瞳をじっと見つめていると、ゼルダがうっすらと微笑を浮かべる。

「やはりスミレは、人をじっと見る癖があるようですね」

 その笑みが不意にいつかの青年と重なって見えて、スミレは思わず顔を赤らめた。




 

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