smile! | ナノ


 すんすんと鼻を鳴らしながら、スミレはかすかに眉を寄せる。先程からどうも鼻がくすぐったい感じがする。くしゃみをするほど酷くはないが、だからこそうっとうしい。ひょっとして乱闘ルーム内に埃でも舞っているのだろうか。……スマブラ館の共用スペースは、マスターハンドのプログラムによって常に清潔に保たれているはずなのだが。
 ずっと鼻をすすっているスミレが心配になったのか、ステージ選択をしていたフォックスが気遣わしげに振り返る。

「大丈夫か、スミレ? 体調が悪いなら、今日の特訓はこの辺りで切り上げた方がよさそうだな」
「あ、いえ、そうじゃないんです。ただ、さっきからどうも鼻がですね――」

 言いながら、スミレはもう一度すんと鼻をすすり上げる。すると、何を思ったのかフォックスが気まずそうに明後日の方向に視線をやった。

「……その、すまない」
「なんでフォックスさんが謝るんですか?」
「今、ちょうど毛の生え換わりの時期なんだ。鼻がむずむずするのも、たぶんそのせいだろう」

 ああ、とスミレは納得する。確かに、最近だんだんと気温が高くなってきた。日差しも強くなってきて、日焼け止めなしに日光の真っただ中に出るのがためらわれるくらいだ。
 犬猫で言えば、冬毛から夏毛に生え換わる季節である。フォックスの種族の生態はよく分からないが、一般的な狐と同じように考えればきっと彼もそうなのだろう。
 フォックスは照れ臭そうに耳の下をかこうとして、ふと気づいたように動きを止める。できるだけ毛が飛ばないように気を遣ってくれているらしい。

「すまないな。出る前にちゃんとシャワーを浴びたりはしているんだが……」
「いえ、気にしないでください」

 スミレは笑顔で首を横に振ると、彼に一言断ってから後ろを向いてちり紙で鼻をかんだ。生理現象であるなら仕方ない。

「そんなに毛が抜けるとお掃除とか大変じゃないですか?」
「そうなんだよ。掃除するそばから毛が落ちるから、いくらやってもキリがなくてさ」
「うわぁ、それは辛そうですね」

 その光景を想像して、スミレは乾いた笑いを漏らした。どんなに洗ってもどんなに掃除してもさっぱり綺麗にならない。かといって、風呂や掃除をサボればとんでもない惨事に一直線。潔癖性でなくとも気が狂ってしまいそうだ。

「宇宙にいると、そういう心配をしなくて済むから楽なんだ」
「ああ、なるほど。宇宙には季節とかないですもんね」

 聞くところによると、グレートフォックス内の温度や湿度は完璧にコントロールされており、一年を通して過ごしやすい状態に設定されているらしい。季節感がないのはやや寂しい気もするが、換毛期がなくなることは彼にとってそれを上回るメリットなのだろう。
 それにしても、と彼女はじっとフォックスを――正しくは彼のふさふさとした毛並みを見つめる。冬毛から夏毛になるということは、顔つきも今よりスマートになるのだろうか。スミレが元の世界に帰る時期を考えると、このもふっとした毛皮にはもう二度とお目にかかれないことになる。まだまともに触れてもいないというのに、それはあんまりだ。
 彼女のじとっとした眼差しから本能的に何かを感じ取ったらしく、フォックスがほんの少したじろぐ。

「ど、どうした?」
「いえ。……毛のボリューム、少なくなっちゃうんですよね」
「まあ、夏だからな」
「もふっとしなくなっちゃうんですよね」
「……夏だからな」

 なんとなくスミレの言いたいことを察したらしく、フォックスがふいと目をそらす。その反応に彼女は少しばかり臆した。
 自分の欲望丸出しのお願いを聞いた彼はどう反応するのだろう。嫌われるだろうか、それとも変な女だと思われるだろうか。下手をすると、今まで築き上げてきたこの心地よい関係を壊すことになりかねない。だが、それでも――。
 スミレは覚悟を決め、恐る恐る口にした。

「そ、その……完全に夏毛になる前に、ほんのちょっと、触らせていただけませんか?」
「うっ……」

 フォックスが小さく呻いて顔をそむける。目付きや声色からして、どうやら嫌悪感というより躊躇や恥じらいの方が大きいようだ。本気で嫌がられているのでなければ、頼み込めば触らせてくれる可能性はある。この機を逃す手はない。

「お願いします。ほんのちょっとだけ、一回わさっとするだけでいいですから。――その、どうしてもダメ……ですか?」

 両手を合わせて、伺いを立てるように彼を見つめる。下手に出ながら一切引く気のないスミレの気迫に根負けしたらしい、フォックスは長いため息をついた。

「……分かった。少しだけだぞ」
「ほ、本当ですか? ありがとうございます!」

 フォックスは彼女と向かい合って仁王立ちし、いつでも来いと言わんばかりに腕を組んだ。スミレもそれに応えて彼の首元に触れようと両手を差し出したが、ふとフォックスの視線を感じて指を止める。ちらりと目線だけを動かすと、間近でばっちりと目が合った。――断固とした強い決意を感じる。覚悟を決めた男の瞳だ。
 それはともかく、そんなにまじまじと見られていると、やりにくくて仕方がない。

「あの、照れ臭いので目はつむっていただきたいんですが……」
「あ、ああ」

 スミレの言葉に彼は素直に瞼を下ろした。スミレはこれでよしと心置きなくもふもふしようとして、直前でもう一度静止した。
 ――あれ、ちょっと待て。この体勢、なんだかさっきよりも恥ずかしいことになっているような。
 二人の男女が密室で向かい合い、片方が目を閉じてもう片方が両手で顔を包み込もうとしている。例えばこの光景を第三者が見たとしたら、その人はどんな感想を抱くだろうか――。
 羞恥心の正体に思い至ったスミレは、あまりの事態に顔がかっと火照るのを感じた。ダメだ、余計にダメだ。これではまるで、こちらからキスを迫っているようではないか。

「や、やっぱり対面はやめましょう。後ろです、後ろを向いていただけますか?」
「そ、それもそうだな!」

 どうやらフォックスも同じことを思ったらしい。彼は目をつむったまま軍隊ばりにキレのいい回れ右をしてスミレに背を向ける。危うく重たい尻尾がぶつかりそうになって、彼女は反射的に飛びずさった。こういう時に咄嗟に反応できるようになったのも、このところ乱闘ばかりしているお陰だ。
 それはともかく、今度こそ本懐を遂げる時である。スミレはごくりと息を飲むと、フォックスの後ろからそっと手を伸ばして彼の頬の下に差し入れる。――ふわりと温かい感触が指に触れた。地肌ごと引っかくように大きく指を動かすと、彼の耳がぴくりと反応する。
 これは、たまならい。なんという――。

「ふわもふ……」

 手触りは最高だった。毛並みは雲を掴むようにやわらかかつボリューミーで、よく手入れされていることが伺える。朝にシャワーを浴びたと言っていたので、その影響もあるのかもしれない。繊細な冬毛にほどよく含まれた空気と温もりもこの上なく素晴らしい。狐の毛皮が高級品扱いされる理由がよく分かる。
 欲を言えば思うさまこの天上の毛並みを堪能したいところだったが、スミレは名残惜しげにその手を離す。約束は『一回わさっとするだけ』だ。違えるわけにはいかない。

「もういいのか?」
「はい、ありがとうございました」

 やっぱりもうちょっと、という本音はこっそり胸の中にしまっておく。お願いをすれば優しい彼のことだ、きっと触らせてくれるに違いない。だが、恥ずかしがる成人男性を臆面もなくもふり倒せるほど彼女の精神は図太くなかった。
 それにしても、本当に心地よいた手触りだった。フォックスの毛皮の感触を恍惚と思い出しつつ何気なく手のひらを見下ろしたスミレは、手にびっしりと付いた毛に目を見開く。

「うわ、すごい抜けましたね」

 見ているだけで目や鼻がかゆくなりそうな抜け毛の量である。ちょっと触っただけでここまで抜けるとなると、普段生活するのにも相当苦労するだろう。食事時など、自分の毛が混入しないよう何から何まで細心の注意を払わなければならないはずだ。
 フォックスは乱れた首元の毛並みを慎重に整えながら目尻に苦笑を浮かべる。

「一度、手を洗った方がよさそうだな。次のステージのセッティングはやっておくから、行ってきたらどうだ?」
「あはは……そうします。すいません、触らせてもらった上に気まで遣わせちゃいまして」
「気にするな。スミレは普段遠慮がちなんだから、たまにはワガママを言ってもいいんだぞ。それに――」

 フォックスはいったん言葉を切ると、スミレの顔から視線を外して気恥ずかしそうに口角を上げた。

「換毛期の最中は体中ずっとむずがゆくてさ。実を言うと、今みたいに掻いてくれると結構気持ちよかったりするんだ」
「あら」

 それを聞いたスミレは悪戯っぽく瞳をきらめかせる。

「いいんですか? そんな嬉しいこと言われたら、思いっきりやっちゃいますよ」

 そう言いながら、わしゃわしゃと見せつけるように指を動かす。狐の撫で方についての心得はないが、犬や猫相手ならとろとろに溶かせる自信がある。これまでに積み重ねてきたノウハウはきっと彼にも通用するだろう。スミレは毛皮を思う存分もふもふできる、フォックスも気持ちがいい、まさにウィンウィンだ。

「い、いや! それはさすがに勘弁してくれ!」

 不穏な空気を察したのか、フォックスは慌てふためいて両手を左右に振る。もし彼が人間だったのなら、今その顔は真っ赤に染まっていることだろう。
 ――ちょっとからかいすぎたかしら。そんなことを思いながら、スミレは明るく笑い声を上げた。




 

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