smile! | ナノ


 それはスミレが図書室で本を何冊か借り、談話室に向かおうと廊下を移動していたときだった。
 音楽室の前を通りがかった彼女は、ふとピアノの音を耳にして足を止めた。彼女は不思議そうに瞬きをしながら、じっと戸を見つめる。
 音楽室に誰かがいるのは珍しい。プリンやカービィなど音楽を趣味としているファイターもいるにはいるが、どちらかというと楽器を奏でるよりも聴く、もしくは歌う方を好む者が多い。そのせいかこの部屋を利用する者はほとんどおらず、音楽室とは名ばかりのただの楽器倉庫と化している。
 そんな音楽室から音が漏れ聞こえているのだ。スミレでなくとも気になって立ち止まるだろう。
 ――それにしても陰鬱なメロディーである。中音と重低音で織り成されるゆったりとした旋律は、重厚かつ荘厳だ。
 そんな聴いているだけで息苦しくなりそうになる音色を奏でる人物に、スミレは一人だけ心当たりがあった。重々しい旋律に吸い寄せられるように、彼女は音楽室の引き戸を静かに横へ滑らせる。
 ピアノの前に座っていたのは、やはりガノンドロフだった。彼は戸の開いた音に目をやりもせず、ただ淡々と鍵盤に指を滑らせ続けている。その様は乱闘での力任せな戦い方からは想像できないほど優雅で、王たる威厳に満ち満ちていた。
 演奏の邪魔をする気はさらさらない。だが、これほど魅力的な音楽に背を向けてこの場を立ち去るつもりもない。スミレは足音を立てないよう壁伝いに部屋を横切ると、窓際に据えてあった椅子に腰かけて持っていた本を開いた。




 スミレが本を二十ページほど読み進めた頃、不意にピアノの重たげな旋律が途切れた。顔を上げると、ピアノ椅子から立ち上がったガノンドロフと目が合う。その厳めしい顔には常と同じ不機嫌そうな表情を張り付いており、彼の内心を推し量ることはできない。

「すみません。お邪魔でしたか」

 照れ笑いを浮かべつつ、スミレは読みかけの本にしおりを挟んで立ち上がる。窓辺に積んでいたあとの三冊を取ろうと手を伸ばしたとき、低くしゃがれた声が耳朶を打った。

「なんのつもりだ」
「何がですか?」

 唐突なガノンドロフの言葉に、スミレは考える前に首を小さく傾げる。すっとぼけた返答が気に召さなかったのか、彼の眉間のシワがわずかに深まった。

「とぼけるな、女。この館に来た当初から、こそこそと盗み見ておっただろう。何が狙いだ」
「……バレてたんですか」

 彼の視界に入らぬようにひっそりと眺めていたはずだったのだが、どうやらあまり意味がなかったらしい。殺気も何もない視線に勘づくとは、さすが魔王である。スミレは決まり悪げに笑みをこぼしながら軽く頭を下げる。

「すみません、そんなに深い意味はなかったんです。ただその――格好いいなぁ、と」

 彼に下手なごまかしは通用しない。そう思って、スミレは正直に発言した。
 ガノンドロフは彼女にとって憧れの存在である。他をねじ伏せる力、威風堂々とした体格、王者然とした立ち居振舞い。圧倒的なカリスマに満ちたその姿に、彼女は人知れず心酔しているのだ。もし彼が上司だったら、何を差し置いても一生ついていく自信がある。――つまるところ、単なる追っかけである。
 嘘をついていないことはとりあえず伝わったらしく、ガノンドロフはますます渋い顔になって低く唸るようなため息をついた。

「……酔狂な奴だ」

 苦々しそうな彼の表情にスミレは苦笑する。この分では、朝食のテーブルに着く際にわざわざ側を通ったり、乱闘でわざと攻撃を食らいに行っているのもお見通しだろう。ひょっとしたらリプレイ観賞で彼の戦うさまをガン見しているのも気づいているかもしれない。さらにはこっそりツーショットのスナップを撮ってアルバムに収め、自室で眺めては悦に入っていることまで――。

「その、色々と申し訳ありません。次から控えます」

 自分の所業を省みて、スミレはさすがに後ろめたくなった。逆の立場から見てみると非常に気持ち悪い。行為が悪化してストーカー化する前に気づくことができて本当によかった。自室がいい年を通り越したおじさんの隠し撮りブロマイドで埋め尽くされるなんてのは、いくらファンでもドン引きものである。
 悪夢を未然に回避できてひっそりと安堵していたスミレをよそに、ガノンドロフが怪訝そうな表情をして呟く。

「……色々だと?」

 しまった、どうやらバレていると思ったのは自分の早とちりだったようだ。追求されてボロを出してしまう前に、彼女は話題を変えることにした。

「いえその、なんでも。ところでさっきの曲なんですけど、題名はなんていうんですか?」
「ない」

 スミレはきょとんと首をかしげる。さすがに言葉が少なすぎたと思ったのか、ガノンドロフは腕を組んで言葉を付け足した。

「題などない。ただの即興だ」
「即興ですか! それはまた、すごいですね」

 驚きと共に、感嘆の吐息が思わず口からこぼれ出た。恵まれた体格に卓越した戦闘センス、タフすぎる精神力に作曲の才能まで。いったい、天は人に何物与えるつもりなのだろう。
 素直に称賛の気持ちを伝えると、彼の眼差しに今度は呆れの色が混じった。

「……まあいい。それで、貴様は結局何が目的でこの部屋に立ち入ったのだ。まさか、このような馬鹿げた問答をするためではあるまい」
「ええ、まあ。素敵なピアノだったので、つい」

 まごうことなき本音である。憧れの男性と同じ空間にいたいという邪念があったことは否定しない。だが、きっかけは彼の奏でる音色だ。重苦しく垂れ込める暗雲を思わせるその旋律が、スミレの心を強く引き寄せたのだ。存在を無視されると予想していたので、こうやって言葉を交わすことになるとは思ってもみなかったが。
 穏やかに笑みを浮かべる彼女に対して、ガノンドロフは警戒するのも馬鹿馬鹿しくなったようだ。げんなりした表情から察するに、さしずめ『あ、こいつ何も考えてないな』とでも思っているのだろう。

「つくづく無用心な女よ。このような人目につかない場所で何かされるだろうとは思わなんだか」
「思わなかったですね」

 スミレは首をかしげ、おどけたように笑った。
 ガノンドロフはまごうことなき悪人である。裏切り、脅迫、洗脳、略奪――ハイラルを手に入れるために、様々な悪事に手を染めてきた人物なのだ。だが、そうと知っていてもスミレは彼がこの場で凶行に及ぶ可能性など全く考えていなかった。それは決して、彼女が楽天的だからではない。

「たかが路傍の石をどうこうしたって、たいしたメリットもないでしょうし」

 スミレは特別な能力を持っているわけでも、特殊な人脈を築いているわけでもない。害したり操ったところで得るものは少ないだろう。それどころか、マスターハンドを敵に回すという意味で不利益の方が大きくなってしまう。
 つまり、理由がない。マスターハンドに対する反逆の意思を明確にする腹づもりでもない限り、ガノンドロフが彼女に手を出す道理がないのだ。
 ガノンドロフは小馬鹿にしたように短く笑った。

「ただの考えなしかと思っておったが、その程度の損得勘定はできるのだな」
「あら、ありがとうございます」

 明らかな皮肉である。だがそれをあえて誉められたのだと解釈して、スミレはくすくすと笑う。ガノンドロフは何かを諦めたかのように腕を組んで瞑目した。

「ところで……もう少し、ピアノ聴いてても構いませんか? あ、もちろんまだ弾かれるおつもりなら、ですけど」

 その言葉にガノンドロフは瞼を持ち上げてスミレをじっと見つめる。そして彼女の穏やかな表情が崩れないのを確認すると、彼は低く長いため息をついた。

「好きにしろ」
「やった、それじゃあ好きにさせていただきますね」

 スミレはおっとりと笑いながら椅子に再び腰掛け、手に持っていた本をぱらりと開く。ガノンドロフはしかめっ面のままマントを翻してピアノ椅子に腰を下ろすと、もったいつけるような動作で鍵盤に指を置いた。
 ――ほどなく流れ出した旋律は、ほのかな苦みを纏いながらも、どこか穏やかな落ち着きを感じさせるものだった。




 

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