短編 | ナノ
「…で?お前はどこから来た?なぜここにいる」
そんなの、こっちが聞きたい。
思わず溢れそうになった一言を唇の手前でぐっと押し留め、何故か未だ掌にあるやけに黒くて長いそれを握りしめた。
◇
◇
◇
唯一はっきりしている事と言えば、未だこの場においてこの状況を把握できていないのは誰よりも自分、ということだけ。つい先ほどまで連日の激務をなんとか乗り切り、帰宅したばかりだったのだから。疲労のあまり頭がいつもよりまともに働いていなかっただろうということは記憶している。そして玄関の扉に鍵をかけた途端に気が抜け、そのまま流れる自室のベッドに倒れ込んだ。きっとそのまま眠ったのだろう、そこまではなんとか覚えている。
…そして気がついたら。
まさに一面の青。蒼、碧。
どこに目を向けても360度圧巻の大パノラマ。雲がはるか遠くに見える晴天、そこを身一つで急速に落ちていく自分がそこにいる。まさか夢では?テレビでその光景を端から眺めているとも言えてしまう、他人事のようで。
続けて響き立つ大きな水飛沫の音。
深くて深くて、見たこともないほどひたすら自らの色を主張する大海原。
状況を飲み込めないまま続く不可思議。水面を下から眺めているだけなのに、神秘的とも受け取れるようなその美しさに目を奪われ、それが何なのか自分から思考を動かすことでやっと我に返った。海。そんな雄大なものに叩き付けられたはずなのに、また不思議なことに痛みはない。それどころか、
(………………いきが、)
できる。
はっきりとそう認識できた。体は静かに、しかし確実に、徐々に徐々に下降していく。沈むというより、自分が乗った観覧車が地上へ近づいていく感覚に近かった。それくらいの心地の良さ。
理由は相も変わらずわからないままだ。
だがしかし、
(…………このままサメにでも遭遇してしまえば、)
その結果は火を見るより明らかと言える。どんなサバイバルゲームだ、と少し間の抜けたことを考えてしまった。正直、山の中で遭難した、という方がいくらかかわいげがあるというものではないだろうか。少なくとも、陸であるならばいくらかはマシだ。水中で海洋生物相手に勝ち目があるわけがない。
そう、呑気に頭上にある水面を眺めているような状況ではない。いわゆる「命の危機」なのだ。
ひとまず思ったよりも落ち着いた自分の脳内に自分で驚きつつも、やっと浮上することを決め顔を上げた時、すぐ近くに気配を感じた。
ひょっとして鮫?なんて一瞬ヒヤッとしたのもつかの間、そこにいたのは人間だった。
(…え、誰?)
つい先ほどまで自分ひとりだったというのに、全く気づかなかった。次から次へと、一体私の身に何が起きているというのだろう。うんざりしながらも、心なしか自分の時よりもどんどん早く沈んでいくその体に段々と焦りを覚えはじめた。というか、
(まさか意識が、ない…?)
これは、ただ海に落ちたというより“今まさに溺れている”に近いのでは?そんなことを考えいる内にもその人の体は下へ降りていく。
これはまずい、と脳が認識するとすぐに精一杯に手を伸ばした。届かない。
両手で大きく海水をかき、足を上下に動かした。幸いにも早くに気付いたおかげで、なんとかその人の胴体に手をかけることができた。背中に手を回す。
いまいち周囲がほんのり薄暗いせいか顔はよく判別できないが、自分より明らかに大きい背丈と体つきに「ああこの人は男性なんだな」ということをぼんやりと思いながら、早く空気のあるところへ連れて行かなくてはと水中で体を滑らせた。途中、なぜだか大きくて長い棒のような物が近くに沈んでいて何もないよりは、と特に何も考えずそれを捕まえておいた。
(なんだろう、水中だからかよくわからないけど随分重いな…)
まるで、刀のような。
―――…ザバァッ…!
思ったより距離のあった海上にやっとのことで顔を出せた。口の中が若干塩辛い。
「もしもし…、大丈夫です?意識ありますか?」
ダメ元でぐったりしたその人に何度も声をかけるみるけれど、やはり反応がない。
両手が塞がっているので顔で寄せて呼吸の有無を確認してみるが、それもない。
猶予がないのはわかっているしなんとかしたいのは山々だけど、せめて陸地に上げられたなら……
「…運は悪くないみたいですね、お互い」
返事はないとわかってはいても声をかけずにはいられなかった。
(すぐ傍に地面がある、それをこんなにも有り難いと思ったことはないね…)
いるともいないとも考えことがない神様とやらに感謝を示したい気分になりながら、視線の先の小島を目指した。
――――…
(しかしなんだろうな、この状況は)
陸地に引き上げてみると思ったよりかなり背の高いその人は、気絶していることもあってさすがに重かった。が、その体を起こし、その人の左腕を胸の前で曲げ、その腕を棒のように使って肋骨の下に当てるようにして少し持ち上げ、引きずる。こうすると、一人でも人間を楽に運ぶことができる。まさかこんな時に役立つなんて思いもしなかったけど。
平らなところにゆっくりとその人を寝かせ、気道を確保。事務作業のように心肺蘇生をこなす中、横目でちらりと胸元の刺青を見た。まるで、ハートのようなこの形。
(しかもこの人、)
胸だけじゃない。指にも手にも、コートを着ているのできちんと確認したわけではないが(裸にコートってなんだ)おそらく腕にも、見たことのないようなデザインの刺青を施してある。今はっきりと認識した顔立ちはかなり整ってはいるが、目元の隈が瞼を閉じていてもくっきりしているのがまた異様な雰囲気を醸し出している。一体何者なのか…
(……………………………深く考えるのはやめよう)
ただでさえ自分の身にすら何が起こったのかわかっていないのに、他人のことを考える余裕があるわけがない。正直ここがどこかくらいは確認したいし通りがかりとはいえ助けはしたが、あまり関わらない方が後々困らないだろうと判断した。
うん。この人とはある程度のところで離れよう、と固く誓ったその時。
「……ゲホッ、!」
刺青の上に手を重ね心臓マッサージを繰り返している中、今まさに考えていた当人が呼吸を取り戻した。そのまま咳き込み続けるその人の横顔(誤飲を防ぐ為横向きにしていた)を「水は思ったより飲んでないな」と思いながら眺めるのだった。
だが、そんな呑気なことを考えていられるのは、ほんの束の間だった。
――――…
少し咳き込んで、なんとか意識を取り戻したその人の顔色は思ったほど良くはならなかった。目の隈も目立つし、普段から血色が良くないのかもしれない。いつもの癖でじっと黙って観察していたのが悪かったのか、その人は私の視線に気づくと切れ長な瞳をこれでもかというほど見開いて、私の時以上に今度はこちらを観察し始めた。凝視といっていい。
(え、な、何。何なの…?)
咄嗟に先ほどまでは向けていた目線を逸らす。わかっていたつもりだったが。特に深く考えてはいなかったものの、初見の、しかも結構なイケメンにガン見されて何も思わないほど私も鈍くはない。だが自分が平均的な顔立ちなのはよくよくわかっているし、まさかの事はないにせよなぜこんなに強い目線を向けられなければならないのか、皆目見当がつかなかった。よほど珍しいものを見ている視線とも思えないが、まさか。
(…知り合いに、似てるとか…か?)
視線に耐えられず、思わず訝しげに目線をその人へ戻したら。その人はやっと我に返ったのか、凝視していた時は微動だにさせなかった眉をピクリと揺らし、目をすっと細めた。
……顔立ちは確かにかなりいい方だが、
(目つきの方はかなり悪い部類かも…)
不穏な空気がわずかにこぼれたのを感じ取った時にはもう、遅かった。
「…誰だ、てめぇ…」
敵意に満ちた視線。それだけでなんだか背筋が冷えた気がした。
「…誰と言われても…」
目をまた合わせると今度は攻撃してくるのではないか、そう思わせるほど鋭いそれは明らかに素人のそれではなく。やはり関わるべきではなかったか、と悪いことをしたわけではないのだけどやるせない気分になる。それ以上に、また命の危機と捉えるべきか。
「俺は確か、海に落ちたはずなんだがな…」
ゆっくりと、こちらに向けた目を動かさず立ち上がるその人からは長身も手伝ってか、威圧感が凄まじい。思わず私も静かに後ずさる。
「なぜ。俺はこんなところにいる」
質問ではない、恫喝だ。頭の中の危険信号が絶えず鳴り響く。下手な答えでは無事では済まないだろうといつもは働かない第六感がフル稼働だ。しかし、素直に答えたところで信じてもらえるとも限らない。果たして、どうしたものか。
こめかみから流れ落ちる汗は、紛れもなく冷えている。痛い沈黙がやけに長く感じられた。
「…………海で、」
話し始めるときに、思わず息が詰まるかと思った。恐怖なのか…それを押して、ゆっくりと、言葉を紡ぐ。
「私も海に落ちて――、周りを見たら、あなたが近くにいて。気を失っているようだったから、放置したら確実に危ないと思って……。そうして引き上げたら、運良く近くにこの小島があったから、ひとまず応急措置しないとと思ったんです。
―呼吸も止まって、心停止していたから」
その言葉に、また我に返った時のようにその男は眉をピクリと動かした。
「…応急措置?お前がか」
「ええ……状況が状況でしたし…」
「証拠は」
「証拠、ですか?……本当にそんな状況なら、出しようがない、のですが…」
一瞬迷ったが、下手にごまかそうとする方が怖い、と判断しそのままを伝えた。思わず生唾を飲み込む。
「…なるほど、」
あながち嘘でもなさそうだな。そう続けた男の視線が私に向いているのではなく、私の後ろにあった先ほどの黒く長いそれに向けられていると気づいた時、気のせいか刺すような眼光が弱まったように思えた。
「…まさか刀が無事とはな」
「えっ、これ。刀なんですか」
「なんだ、気づかなかったのか。柄も鍔もあるだろうが」
「あ…。本当だ…」
気づかなかった。思ったより冷静なんて思っちゃいたけど、無我夢中だったのかもしれない。その刀にしては大分長いそれを掴み、持ち上げてみる。…重いような、と感じたのは気のせいではなかったようだ。
「まぁいい…敵じゃあないのならな。早く寄越せ」
「えっ。ダメです」
沈黙。
「…………ふざけてんのか」
「ふざけてません。この状況でおとなしく渡すと思います?言っちゃなんですが、あなたから危険しか感じません。女一人、警戒くらいしますよ」
「知るか、いいから寄越せ」
「さっきまで殺気漲らせてた人に渡しませんよ。こんな小島、猛獣がいるわけでないし今すぐ使うもんじゃないでしょう」
「それは、俺の物なんだが?」
「そのあなたの命の恩人は、誰なんですかね?」
さっきまでの緊張が嘘のように、思わず言い返してしまい、まるで口喧嘩のようなやりとりを続けてしまっている。いやこれ、警戒もするでしょ、さすがに刀って言われて大人しく渡さないでしょ。この人明らかに何しでかすかわかんないし!
相変わらず鋭い眼光になんとか怯まないよう、件の刀をしっかりと握りしめた。
「………フン」
しばらくこちらをじっと睨んでいたかと思いきや、男は鼻を鳴らしその場に寝転んだ。え、いいのこれは。
「まぁ女一人、いつでも片が付くか…」
こちらに言っているわけではないのだろうが、小声がはっきりとこちらまで届いた。
やっぱりだめだ。この人危ない。
冷や汗はまだ止まりそうにない。今になってこの手元の刀を手放したくなってしまうくらいには。
「女、名前は」
「はっ………?」
「名前を聞いてる」
「…………」
さっきまでナチュラルに害ある発言してた人間が、これまたナチュラルに名前を聞いてくるってどういう状況。
ちょっと、いやかなり呆気にとられたところをまた通り越して、わずかばかりの苛立ちが追い付いてきたのをぐっっっとこらえ、
「……………………柴倉、ですけど」
姓だけ伝えた。名前には違いないのだから。
「…は?なんだそりゃ。ファミリネームか?」
「え。ごく一般的な名字ですが…」
「へェ…下の名前は」
「え”」
「名前っつったらそうだろう」
正直かなり躊躇したが、断ったら何しでかすかわかったもんじゃないので渋々
「…アキラ」
と小声で答えた。
「そうか」
「(がっつり聞こえてるし)」
「何か言ったか」
「イイエ、ナニモ?」
なんなのコイツの地獄耳!脳内で思わず叫んだ。
しかしここまで来ると、タダでやられてたまるか、という強気が顔を出しそうになってくる。負けじと
「あなたは?」
と聞いてやった。
「…あぁ?」
「こっちだって名前を答えたんだから、そちらも教えてくださいよ」
「…知らねェのか?」
「は?」
「あ?」
しまった、つい素が。
「いや、初対面ですよね…?どこかで会ったわけもないですよね」
「………………………」
(え、今度は何。何の沈黙なの)
本気でまさか初対面ではないのか、と一瞬悩み始めた時。男は一言ぼそっと、
「トラファルガー・ローだ」
と答えた。
思わず聞き返しそうになった口をがっちり縫いとめた自分を、今は褒めたい気分である。
それが、
虎トラとの出会い、
だったのです。
(初めてのローさん夢。祝う気持ちはあるんです…。思ったより糖度ないだけで。あと長かったので3話くらいに分けます)
2016/10/06 投稿