「そういえば鬼灯くん、写真現像出来たよ!」 「ああ、この間のですか」 嬉しげな笑みをほころばせた顔をこちらに向け、写真を取り出すなまえ。 彼女の屈託ない笑顔を見て、大王のミスやら予算の見直しやら、山積みにされた仕事を前に気難しく寄っていたしわがゆるくほぐれていくのを感じる。胸にこぼれるあたたかい感情に眦をゆるめ、鬼灯は書類の上を這っていた筆先を止めた。 「楽しかったね、動物園!……あ、やっぱり変な顔してる」 彼女が喜々として並べたそれらの中から、鬼灯に不意をつかれて撮られた一枚を手にしたなまえはむうと唇をとがらせた。 間抜けだとでも思っているのだろうか、いっそにくらしげに写真を眺めるなまえに鬼灯は小さく首を傾げる。確かに薄く開いた唇だとか驚いたように丸められた瞳は洗練されたものではないが、彼女らしくて好みだった。愛らしい、と言えばいいのだろうか。否、彼女の飾らない一瞬を切り取ったそれに想うのは、この胸を甘く震わせるのはいとおしさだ。 しかしその想いを素直に口に出すのは憚られ、鬼灯は力なく身をしならせながらなまえの指先に収まるそれを指さす。 「ではその写真は私が頂いても?」 「いいけど、本当に写りよくないよ?かわいい動物を撮ったやつとかいっぱいあるのに」 「これがいいんです」 なまえから受け取ったそれを満足げに見つめる鬼灯を不思議そうに見ていた彼女だったが、はっと気がついたようにまぶたをまたたかせる。 「ネットにばらまいたりしないでね!?」 「貴女私のことを何だと思ってるんですか」 的外れな懸念を抱く彼女に、思わずため息がもれる。想いを告げたって、なまえの無防備でどこか抜けたところは変わらないらしい。 普通恋慕されている男が自分の写真をねだれば、何か勘づきそうなものなのだが。そのくせ鬼灯の不調や心の機微には敏いのだから困る。 そんな彼女だからこそいとしくて、心のすべてを奪われるような想いにかられるのだろうけれど。 再び、今度は彼女への情念が織り交ぜられたため息をつくと鬼灯が腹を立てたとでも思ったのか、なまえはそろりとこちらをうかがう。 「ご、ごめんね?」 「怒ってなどいませんよ、なまえさんが言うことですから」 「どういう意味!?」 こちらも鬼灯の意図するところとは別の意味に捉えたのか、複雑な顔をするなまえに肩をすくめる。 他人が口にすれば腹に一発決めてしまいたいほどのことも、なまえの唇からつむがれたものなら話は別だ。なまえだから特別なのだと言外に込められた趣意に気がつくことなくまぶたをまたたかせる彼女から鬼灯はふいと目をそらした。 つくづくなまえには甘くなってしまう己に、鬼灯は自身のことながら呆れ返る。 「鬼灯くんがその写真を持ってくなら、私はこれかな」 「……それは」 視界に映すのも拒みたい、あのだらしない横顔をばっちり捉えたそれはいつの間にかなまえの手に取られていて。 にこにこと明朗に咲く彼女の笑顔を、今ほど恨みがましく思ったことはない。 「鬼灯くんが何と言おうとこれは飾らせて頂きます!」 「飾る、ってなまえさんの部屋にある写真立てにですか、それだけはやめてください」 「ええー…何で?」 「どうしてもと言うなら……実力行使で奪い返させて頂きます」 「わっだめ!」 なまえは写真に伸ばされた手から何とか逃れようと両手を上にあげるけれど、体格差があるためにすぐ追いつかれてしまう。可能な限り背をそらしても限度があり、ふたりの距離は自然と縮んでいく。 戯れのような追いかけっこがふと終わりを迎えたのは、頬を撫でる鬼灯のやわく湿った吐息に気がついたなまえがぎくりと身を固まらせたからだ。ともすれば肌が触れるほど近くに、彼に宿る体温を感じてしまうほど間近に鬼灯が迫っている。その存外長いまつげ一本一本を数えられそうだとのんきに巡る思考をよそに、なまえは動きを止める他なかった。 それまで失態とも言える紙きれを追跡していた鬼灯も、停止した彼女を訝しみ目線を落とす。途端、鼻先がかすめそうなほどの距離でからむ瞳に、彼もまた身体の自由を制限されたのだった。 「!」 「あ…ちょっと近い、ね?」 「……、すみません」 「い、いやいやこちらこそ」 なまえはぼわりと上気していく顔に手を当てながら、身を引いた鬼灯と目を合わせることもままならずにうつむく。 鬼灯とは毎日共に過ごしているのに、少し近づいただけで胸がきゅうっと締め付けられたのは何故だろう。あまりに近い距離に驚いたのか、それとも。 じわじわと速度をあげていく心音にどこかあまやかな予感を覚える。 熱をはらんだ気配をぎこちなくたゆたわせ、ふたりは気を逸らすようにテーブルの上に広がった色とりどりの情景たちへ目を移したのだった。 * 「お?何だこれ……写真?」 「あっ」 ことの発端は、報告書類を提出しに訪れた烏頭の一言だった。鬼灯に書類を手渡し踵を返すだろうと思っていた彼が不意に足を止めたのだ。彼は、果て、幼なじみに頼んだその書類はどの案件に関するものだったかと、鬼灯が手帳を開いた際すべり落ちた紙片に視線を奪われていた。 為すすべもなく地に落ちたそれをすくおうと手を伸ばしたのは、書類の束を抱えていた鬼灯を制した烏頭で。 何気なく表を返した彼を止めるより早く、烏頭は四角く切り取られたそこに写し出された彼女を目にしてしまったようだ。 にんまりと持ち上がっていく口角に知らぬふりをして、鬼灯は彼の手から大切なそれを奪い去る。 「そこに写ってる娘、もしかして」 「あら、なぁに?」 「………お香さんまで…」 「この方…もしかして」 にやにやといやらしい笑みを浮かべる烏頭に疑問をもったのか、衆合地獄の主任補佐として報告に来ていたお香までもがなまえの写真をのぞきこむ。 鬼灯が後生大事に写真を持ち歩くなど考えられないことだ。しかもそれに女性が写り込んでいたとなると、自ずと行き着くのは彼が恋い慕う唯一のひと。 この純真そうで愛嬌のある彼女が鬼灯の想い人なのだろう、と烏頭はからかうような小憎たらしい笑顔で、お香は穏やかに唇をゆるませて思った。 「……お二人の想像通りですが、何か」 「いやーそうかそうか、何だよ可愛い娘じゃねぇか」 「なまえさんをそういう目で見ないで頂けますか」 「お前手厳しいな…」 恋人でもないのに、と烏頭の目は語っているが、恋愛感情云々を抜きにしてもなまえは鬼灯にとって恩人であり大切な存在には変わりない。いくら幼なじみとはいえ不埒な考えを持ってなまえを見るのは許しがたいことだという意味を込めて、烏頭に冷たい視線を投げる。 かちんと固まった彼を置いて、今度は好奇心に瞳を揺らめかせたお香が口を開いた。 「これは…どこか行った時に撮ったのかしら?」 「ええ、動物園に」 「動物園!?随分清い逢い引きだな」 「言っておきますが、行き先を決めたのは彼女です」 「ま、だろうなぁ」 「いいじゃない、可愛らしくて」 すっかり面白がってなまえとの逢瀬のあれこれを聞き出そうとする2人をかわしながら、鬼灯はあどけない表情を見せる写真の中の彼女を眺める。 こちらを見つめる平面の中のなまえも良いが、やはりあのやわらかな声音と日だまりを思わせる笑みがないと今ひとつ物足りない気がしてしまう。 早く職務を終わらせて、彼女が待つあの小さなアパートの一室に帰りたい、とどうしたって浮かんでしまう願望を胸に秘めながら、未だうるさく詰問する烏頭を強引に執務室から追いやった。 「さて、もうひと仕事しますかね」 切り替えるようにそうつぶやいた鬼灯の頭は、すでに目の前に山積みにされた業務に占領されているらしい。机の隅に置き去りにされた手帳に目をくれることなく、その武骨な手は淡々と書類を捲り始める。 鬼灯がなまえの写真を手帳に挟み持ち歩いていることを、当の本人は知る由もないだろう。 しかし、あのやわらかな空気をまとった彼の横顔を写した一枚を、なまえが鬼灯の目を盗んで携帯のカメラに収めていたことは彼もまた知らない。そしてそれがちゃっかり待ち受け画面に設定されているのも。 そうしてふたりは今日も、それぞれ似たような秘密を抱いていることに心づくことなく互いを想うのだった。 |