千とせの君に | ナノ




想い人。
おもいびと、恋しく思う人。ひそかに思慕する人。―恋の対象。

混乱を極める思考の中で何とか帰宅を遂げたなまえは、着替えもそこそこに携帯端末を凝視していた。
辞書サービスに導かれた検索結果、そこに連ねられた文字を繋げて何度読み返してみても、遙か彼方へと追いやられた冷静さを取り戻すことは出来なかった。

弟のように思っていた記憶にある彼よりずっと大人びて、いささか成長しすぎた感が否めない見目を携えなまえの元へ訪れた彼が、想い人と言った。
誰を?
文脈と、その場になまえしか居合わせなかったところを見るとなまえを、だろう。

はっきりと鬼灯に告げられるまで察することが出来なかった。鬼灯の方もまったく素振りすら見せなかった。
否、今思い返してみれば彼から寄せられる言葉の節々には甘いものがふくまれていたような気がしないこともない。なまえに触れるやさしい指先にも、その予兆は見られたと言えるのだろう。
どちらかといえば、なまえがそれを遮断していたと、今では思う。彼との関わりの中に揺さぶられた想いは確かにあったのに、気のせいだと目を背けた。

家族だからと、弟だからと、彼を"男"として見ようとはしなかった。

それはきっと、ひどいこと。
たったひとつの恋心を捧げる相手に、無意識だったとはいえ見て見ぬ振りをされたのだ。拒絶されるよりむごいことを、愛想をつかされても仕方のないことをしてしまった。
鬼灯を想い心がちぎれてしまうほどの罪悪感に囚われるけれど、同情など、それもまた彼は望んでいないだろう。

鬼灯自身を見なければ。
幼い彼と積み重ねてきた想いを一旦まっさらに均して、まっすぐに現在の鬼灯と向き合わなければならない。
そう決意したのはいいものの、彼と繋ぎあった手のひらや頬に未だ宿る熱がなまえをたまらなく気恥ずかしくさせる。


「ああもう…!私の馬鹿………。顔が熱い…」


まぶたをおろせば、鬼灯の心地よい声が耳の奥に反響する。
やさしさといとしさをにじませた声が、"想い人"という言葉がゆるりとなまえの心身を浸食していくようで、耐えきれずに熟れきった顔をベッドへとダイブさせる。

考えすぎて知恵熱が出そうだ、と冗談まじりに思いごろりと寝返りをうちながら、なまえは擦り切った精神と稼動させすぎた思考を休ませるために、とろとろとやって来た睡魔を受け入れたのだった。





「まさか本当に熱が出るなんて…」
「何か言いました?」
「い、いえ何でもありません」
「何で敬語になってるんですか」
「ななんとなく…?」


せわしなくなまえの私室と台所を行き来する鬼灯を目で追うことにすら羞恥を感じつつ、ふう、と吐息する。
昨日きちんと布団に入らなかったのがいけなかったのか、それとも普段使わない部分を酷使したのがたたったのか、なまえはいわゆる知恵熱というものを生まれて初めて体験していた。

鼻先まで引き上げた布団からちらりと鬼灯を盗み見る。
告白ととっても良いだろう会話を繰り広げた翌日だというのに、鬼灯の態度は何ら変わりがない。…何だかなまえばかりが翻弄されている気がする。
変に意識してしまって跳ね続ける心臓を抱えながら釈然としない想いを秘め、何故だか心の奥に生まれたしこりに眉をしかめつつじとりと鬼灯を見つめてみる。
男の人らしい節くれだった指から程よく筋肉のついた上腕から首筋、そうして尖った耳までたどれば、その鋭角を描く肌のふちに瞳が釘付けになった。そこが淡い朱に彩られているのを認め、なまえは布団からのぞかせた目を丸める。


「ほ鬼灯くん」
「何ですか」
「熱…ないよね?」
「ないに決まっているでしょう。全く、頭の使いすぎで発熱って普段どんだけお気楽に生きてるんですか」
「す、すみません」


いつもの軽口すらたたく鬼灯に、ますます昨夜のことは夢まぼろしなのではないかと思ってしまうけれど彼の耳朶を縁どるその色がうつつなのだと教えてくれている。
望月のもとで告げられた科白を思い起こし、胸の中心がじんわりと熱を持って、それがあまく全身を縛る。素面ならばごまかしがきかないほどの火照りを帯びる頬に、熱があってよかったとさえ思った。

ふう、とくぐもったため息をつきつつ巡らせた目が捉えた壁掛け時計。それが指し示す時間を確認したなまえは鬼灯へと顔を向ける。


「鬼灯くん、もう仕事行かなきゃ」
「ですが…」
「だめだよ、急に休めるお仕事じゃないでしょ?」
「……」
「ね、私はだいじょうぶだから」
「………できるだけ早く戻ります」
「うん、ありがとう。いってらっしゃい」


なまえに倣って時計の針を見やった鬼灯は、迷うように逡巡したあと仕方なく頷く。
幸い高熱という訳ではないし、自分自身の看病などひとり暮らしを始めてから幾度となく経験してきたことだ。
しかし鬼灯を安心させようと浮かべた笑みは存外弱々しいものだったらしく、結局気を使わせる羽目になってしまった。出来得る限りと鬼灯は言うけれど、きっと急いて帰路につかせることになってしまうだろう。

後ろ髪を引かれるように何度もこちらを振り返って部屋を出て行く鬼灯にやんわりと胸がほどけていくのを感じながら見送る。
無理をしなければいいけれど、と鬼灯を案じつつ、なまえは寄せては返す波のように迫りくる眠気に身を委ねたのだった。



どれくらいの間眠っていただろうか。
不意に、誰かが動く度響く衣擦れの音や、粥だろうか、鼻をくすぐる豊かなにおいに眠りについていた意識がつつかれる。

するり、と髪を梳くやわらかな感覚に、なまえは五感をさらわれたような気になった。
髪を往復していたそれに意識を集中していると、優しい感触は額に触れたあと、慈しむような手つきでなまえの頭を撫でつける。その触れ方があまりにもやわらかいものだから、水の中をたゆたうようなまどろみからゆっくりと呼び戻された。


「ん…」
「あ、気がつきましたか」
「え……鬼灯くん?うそもうそんな時間?」
「いいえ、まだ昼ですよ。粥をつくったんですが、食べられそうですか?」
「うん、お腹すいた…ってそうじゃなくて、お昼ってどういうこと!?」
「こら、急に起き上がらない」


ほわりと湯気のたつ粥を目の前に差し出されて、きゅうと切なげに腹が鳴く。
熱のせいかぼんやりと靄のかかった思考の中、今朝から碌に物を食べていなかったなまえは思わず喉を上下させた。

思わず手を伸ばしそうになるけれど、それよりも何故鬼灯がここにいるのだろう。
聞けばまだ日も高い昼なかだという。なまえはまた鬼灯が無理でもしたのではと心配になり、ベッドの傍らに待機する彼を見つめた。


「仕事は?」
「今日の分の裁判は午前に終わらせたので心配ないですよ」
「仕事は裁判だけじゃないんでしょ?大丈夫なの…?」
「問題ありません、熱がある中なまえさんをひとりにすることに比べたら」
「……鬼灯くん…」


いつになく素直に言葉をつむぐ鬼灯に、ゆるく速度をあげていく心音。全身に広がるその音を聞きながら、なまえは腰元まで落ちた毛布をぎゅっと握りしめた。
指の節が白くなってしまうほど力の込められた彼女のこぶしをそっと見下ろし、鬼灯は口を開いた。


「なまえさんの熱…私のせいでしょう」
「!」
「であれば、私が面倒を見なければいけないでしょう?」


そう言ってはくれるけれど、きっと昨夜のことがなくても鬼灯はなまえを甲斐甲斐しく看てくれただろう。確信を得るほどの想いが、体温を確かめるようになまえに触れる手のひらや常より揺らいでいる瞳からにじんでいた。
その熱情を秘めたようなまなざしに、再び月明かりの元で告げられた科白がよみがえる。耳の奥に木霊する鬼灯の低い声音に促されるようにして、なまえは唇を割った。


「あの…昨日のこと、」
「……驚かせてしまってすみません。けれど、あれは紛れもなく私の本心ですから」
「……私、ね、ちゃんと考える」
「…」
「鬼灯くんと、きちんと向き合う。だから……もう少し待っててくれる…?」


鬼灯が寝台の傍らに跪くような格好をしているためか、いつも見下ろされるばかりだった目線がぴったりと重なりあった。
目を背けていた"今"の彼とようやく対面したような気がして、どこかくすぐったい胸を抱えながら鬼灯の返答を待つ。なまえの瞳を、心さえものぞくようにじっと見つめた彼はかすかに眦をやわらげながらひとつ頷いた。


「その申し出を断る理由は、私にはありません。いままで散々待たされたんですから少し待つくらいどうってことないですよ」
「…うん」


幼い彼とのはじまりでもある小さな部屋でふたり、見つめ合う。

彼らの関係がそのかたちを変えるような予感を覚えてさざめく胸を抱えながら、からむ視線に乗せる想いは異なるけれど。
それらがいつかひとつに溶けるその時を、鬼灯はひそやかに希ったのだった。


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