1ヶ月という少ない時間の中で返せるものはきっと多くない。それでも面倒ごとの塊であろうなまえを放り出さずにいてくれた鬼灯のために何かしたかった。 雑用でも何でも彼にとって少しでもいい方向に向かうのなら、役に立つのなら尽くしたかった。 そんな思いで目の前の黒に向かって頭を下げる。 「私をここに置いてください!」 「……いいんですか?閻魔殿にいる以上はきっちり働いてもらいますよ」 「はい、元よりそうするつもりでした」 顔をあげた先に見えた瞳ははっとするくらいまっすぐで澱みない視線を鬼灯に注いでいた。その真摯な眼差しに目を眇め、こっくりと頷いてみせた鬼灯になまえはほっと息をついて頬をゆるめる。 「ありがとうございます!」 「言っておきますけど私は厳しいですよ」 「はい、がんばります」 「……昨日までの暗い表情が嘘のようですね」 ぽつりと落とされた言葉に思わず鬼灯を見上げると、どこかやわらかい濡羽色の虹彩に見返されて何となく気恥ずかしくなる。 思えば彼には醜態をさらしてばかりのような気がした。 冷たい現実に情けなく取り乱してしまったところも得体の知れない"鬼"という存在にひどく怯えたところも、今思い返すと羞恥でどうにかなってしまいそうなくらいの大失態だ。 なまえの頬にぼわりと立ちのぼった熱とはじらうように項垂れた頭に鬼灯は小さく首を傾げた。 「何ひとりで百面相してるんですか」 「鬼灯さんにはいろいろご迷惑をおかけしたな、と…」 「今更ですね、申し訳ないと思うのなら仕事で返してください。…ああ、その前になまえさんの部屋に案内するので着いてきてください」 冷静に投げられたその言葉のわずかな繋ぎ目に安堵の声色が混じっているように思えて、そっと鬼灯を盗み見る。 漆黒に染め抜かれた袖を翻し前を行く彼はやはり心情が表に出にくいのだろう、能面を被ったような顔からは何の思いも読みとれなかった。 けれど掴み切れなくても厳しくても、鬼灯が優しいひとだということはこれまでの彼を見ていたらわかることだった。 悲しみに嘆くなまえの背中を繰り返しゆるゆると撫でる鬼灯の手のひらはとてもあたたかいものだったから。 今でも目を閉じれば蘇る布越しに伝わった優しいぬくもりを背負ったまま、なまえは唇に微笑みを乗せたのだった。 なまえの私室となる部屋が随分使われていないことは道すがら話に聞いていたけれど、さぞかし汚れているだろうと覚悟して入ったそこは意外にも小綺麗に整えられていた。 鏡台や箪笥、必要な家具類から生活用品まで揃えられている。 ぱちぱちとまぶたをまたたかせて鬼灯を仰ぐと、ばつが悪そうに目をそらされながらも彼は大人しく口を開いた。 「もし貴女がアレのところへ行くと言っても止めるつもりでしたから、掃除など諸々を頼んでおいたんです」 「止める、って…」 とてつもなく嫌な予感を察しつつも続きを訊ねると、肩をすくめた鬼灯は事も無げに科白を連ねた。 「それはまぁ、私の持つ権力と腕力のすべてに物言わせてですね…」 「ええええ、そんなこと考えてたんですか…!」 「大体、アレの世話になんかなったら終いには孕みますよ」 「はらみ…、」 色濃く刻んだ眉間のしわを隠そうともしないでつらつらと並べ立てられた低音に昨日出会ったばかりの彼を思い起こす。 さらりと額にかかる艶やかな黒髪と淡麗な顔を彩る朗らかな笑みは"良い人"の代名詞のように思えたけれど、鬼灯が言うには女癖が恐ろしく悪いらしい。 単に気が優しく寛大な人物でもなかったようだ。恋愛経験が豊富とは言えないなまえにとって彼の世話になることは些かハードルが高かったのかも知れない。 閻魔殿に身を置くと決めてよかった、となまえは胸を撫で下ろす。 「おしゃべりはこれくらいにして、早速行きましょうか」 「あ、はい!って、どこにですか?」 「裁判所です」 「……裁判?」 鬼灯は頭上にいくつもの疑問符を浮かべるなまえを引きずって行く。そうして自身の手の中にある柔らかい体温に図らずも表情をほぐしながら寮を後にしたのだった。 * 「よって貴殿に下す判決は不喜処地獄!」 「………」 「なまえさん、ぼーっとしない」 「は、はい!」 「いやいや、鬼灯君も考えてあげなよ。1日目から裁判所で仕事することになるなんて彼女も思わなかっただろうし、びっくりしてるんだって」 ぼんやりと成り行きを見守るなまえを咎める声と催促するように伸びる手に慌てて次の亡者に関する巻物を手渡すと、同情を寄せてくれているのか八の字に眉尻を下げた閻魔が鬼灯を諭す。 彼の言葉に眉を上げた鬼灯にゆるく首を横に振ったあと、ふっと笑みをこぼしたなまえは嬉しげに口を開いた。 「いえ、どんなことでも皆さんのお役に立てるなら嬉しいです」 「なまえさんもこう言っています。彼女をだしに休憩に入ろうという魂胆なんじゃないですか」 「し、失礼だな!ワシは純粋になまえちゃんを心配して―…」 「でもまぁ、そう気を張ることはないですから」 「…はい、ありがとうございます」 なまえの心情を懸念してくれたのだろうけれど、やはりどこかに休みたいという思いもあったのだろう、大げさに肩を揺らして動揺した閻魔に鬼灯の研ぎ澄まされた冷たい視線が飛んだ。 かと思えばなまえに目を移して気を配ってくれる彼にふわりと眦を和ませる。 「へえ、仲良くなったじゃない」 「まぁ、最初よりは……って何ですかその気色の悪い顔は」 「気色悪いってひどいよ!」 大分打ち解けたように見える2人を見比べるように視線をさまよわせた閻魔は何かを秘めたような、揶揄する笑みをのぞかせた。それに目敏く勘付き彼を睨みつけた鬼灯と閻魔の間に軽く飛び交う応酬を見る限り、彼らは随分と仲が良さそうだ。 なまえが想像していた地獄のあり方とは幾分か違う部分もあるようだけれど、若干お気楽過ぎる閻魔と彼を律する厳格な鬼灯。 これで上手い具合に噛み合っていく此処を存外好きになれるかも知れない、と安堵をふくんだ微笑をもらした。 「ホラなまえちゃんに笑われちゃったじゃない!」 「……なまえ…ちゃん?」 「あ、嫌だったかな?ここにいる間少しでも仲良くなれたらと思ったんだけど…」 「大王みたいな毛むくじゃらに親しみを持たれても迷惑だそうですよ」 「そ、そんなこと言ってません!……嬉しいですよ、とっても」 なまえちゃん、と温かみのある声音で呼ばれて記憶の淵から優しく掬いあげられたのは祖母との思い出。丸い瞳がゆるやかな弧を描くところだとか、その穏やかな性格だとか。 閻魔はどこか祖母に似ていて、ゆえに彼の存在は心にするりと入り込んでしまうようだ。何よりなまえの心に近づこうとしてくれている彼の気持ちがたまらなく嬉しかった。 ほのかなぬくもりに満たされた胸元をぎゅっと握り締めると、それを横目に見やった鬼灯は悩むように顎へ手を当てる。 「では私も呼んだ方がいいですかね」 「え?」 「なまえちゃん、と」 「そ、それは…」 「大王が良くて私が駄目だとは納得出来ません」 「ええと…」 至極真面目な顔をして言い募る鬼灯にわずかに距離を詰められて、ふらふらと視線を泳がせる。 彼なりになまえとの交流を深めようとしてくれているのかも知れないけれど、厳かな雰囲気のある鬼灯からなまえちゃん、などと呼ばれるとこちらの方が恐縮してしまう。 優しいひとだと分かった今でも鬼灯に対して友人のように接するのは、なまえには少々難題だった。 思わず身体を強張らせたなまえを一瞥して吐息した鬼灯をそろそろと見上げても、彼はもうこちらを見てはくれなかった。 それに寂しさを感じて、細い針に胸をつつかれたような痛みを抱えながら鬼灯の袖を引く。 「ちゃん付けはちょっと恐れ多いというか……」 「では何と呼んだら良いのですか?」 「今まで通りでもいいんですよ?」 「それでは面白くありません」 面白さを求められてもなぁ、と困ったように笑う。 合理的な考え方を持った鬼神なのだと思っていたけれど、案外童心を残したひとなのかも知れない、となまえは鬼灯に対する認識をやや改めながら彼を見つめた。 闇夜の中に淡いかがり火が灯ったような瞳は見ているだけで吸い込まれてしまいそうで、けれど視線を外すのは何故だか躊躇われる。 「じゃあ呼び捨てとかですか?」 「ああ、それは良いかも知れません、敬称を付けずに済みますし親密な関係にも見えます」 「ねぇ、鬼灯君さっきからワシのこと目の敵にしてない?」 口元をひきつらせながらそう言う閻魔に不思議でならない、といった表情を形づくった鬼灯は小さく首を傾げた。なまえも閻魔の科白の真意を図りかね、彼につられるようにして顔を傾ける。 睦まじく首を傾ぐ2人に地獄の王はふう、とため息をついた。 「何故私が大王なんかを目の敵に」 「なんかって……。要はワシがキミを差し置いてなまえちゃんと仲良くなったのが気に入らなかったんでしょ?」 「……違います、仕事を円滑にこなすためにはある程度の信頼関係が必要ですから…」 「またまた、素直になりなよイデデデ!」 「え、閻魔さん!」 閻魔の言葉と冷やかすようないやらしい顔が気に食わなかったのか、額に青筋を立てた鬼灯はどこからか金棒を取り出して閻魔の弛んだわき腹にそれをねじ込んだ。 耳を塞ぎたくなるような生々しい音を響かせるそれに血の気を引かせ、なまえは焦ったように駆け寄る。 「今凄い音しましたよ!?」 「大丈夫ですよ、この程度日常茶飯事ですから」 「さ、刺さってる金棒のトゲが肋骨辺りに刺さってるから!!」 始めは顔を青ざめさせておろおろと2人の様子を見ていたなまえも、一応は手加減をしているらしい鬼灯にとりあえず安堵した。 結局閻魔の見解が図星だったのか否かは、的確に彼の骨を狙っていじり倒す鬼灯にしか知り得ぬところだけれど。 縁が結ばれて彼らと、鬼灯と巡り会ったのだから2人のことをもっと知りたい、といつしか芽吹いた思いが心の中ですくすくと育ち、根をおろしていくのをなまえはひそやかに感じていた。 |