まだ咥内に花のにおいがからみつくのを感じながら、なまえの手をゆるく握るそれを見つめる。なまえよりわずかに低いその体温が以前からかい交じりに言われた言葉を思い起こした。子供体温ですねと意地悪く眇められる瞳に想うものは、あの頃とは違う。 溶け合う体温に胸が締め付けられて、きゅっとあまやかに鳴るそこに思わず目を瞑った。 ただ手が触れ合っているだけなのに、それが殊更特別で大切なことに思えるのは胸に宿る恋心のせいなのだろう。 鬼灯と過ごす時間はなまえに安らぎをもたらすと共に夢心地にさせて、まるで地に足がついていないようだ。ふわふわと浮つく心を内に秘め、ゆるんでしまいそうになる頬を引き締めると、不意に歩みを止めた鬼灯に倣って顔を上げた。 「着きましたよ」 「ここって…」 「あの場所から近かったので来てみたのですが…確か高天原に来たことがあるんでしたね」 「あ、はい、白澤さんに連れてきてもらって…」 「……あれには随分遅れを取りましたね」 「?」 苦々しく眉をひそめた鬼灯は雑踏が害するショッピングモールから踵を返し、濃い色合いの空の底にうねりを描く丘をのぼり始める。 若草に覆われたたおやかな斜面に安心したのもつかの間、彼と肩を並べられる幸せに心を奪われてしまっていたらしい。足元の隆起に気がつけずぐらりと揺らぐ視界。足を滑らせたなまえを慣れたように支える力強い腕に、ほのかな熱が頬を色づかせる。 「よく転びますね、なまえは」 「す、すみません…」 「まぁ、貴女のそのドジがなければ私とも会うことはなかったのでしょうから必ずしも悪いものだとは言いませんが、私の知らないところで傷をつくるのはやめて下さいよ」 「…はい」 その言葉の響きが、何だか甘さをふくんでいる気がしてとくん、と音を立てる心臓。きっと他意はなく、彼にとっては何気ない科白なのに敏く反応を示す鼓動を懸命に戒める。 鬼灯の一挙一動に揺れ動く心を忍ばせて、しなやかな背をのぼり切ったその先に広がる景色に息をのんだ。 「わぁ…」 「さすが高天原、と言ったところでしょうか」 「はい、綺麗ですね!」 いつの間にか日暮れを迎えていたらしく、東の空は群青に食まれ星々がぽつりぽつりと淡い光を灯していた。それと真向かう山々の稜線は紅に縁取られて、そこからこぼれ落ちた夕日が辺りを赤く染め上げる。 この世の物とは思えないほどに美しい光景に、感嘆の息がもれた。 「座りましょう」 「はい…」 「ここにどうぞ」 「あっありがとうございます…!」 彼がごく自然な仕草で敷いてくれた手ぬぐいにそっと腰をおろす。 そのささやかな気遣いにすら胸がくすぐられたように感じた。急速に変化する鬼灯への想いに戸惑いながらそっと隣を見上げれば、刻々と夜の帳に包まれていく佳景を眺めていた彼が口を開いた。 「言えなかったことがあります」 「え?」 「自分でも気付けなかったことが」 「鬼灯さん?」 「白澤さんに背中を押されることになるとは……屈辱ですが、聞いて欲しいんです」 唐突に吐露し始めた言葉を、戸惑いながらも受け止めるなまえ。 まぶたをまたたかせつつもじっとこちらを見つめ、意識を傾ける彼女を大切なものと位置づけたのはいつのことだったか。 思い返せば、彼女の身の安全だけではなくその心すらも守りたいと想うのにそう時間はかからなかったように思う。 悲しみに浸りながらも前を向こうと懸命に尽力するなまえを特別な存在なのだと感じ取り、それはゆっくりと男女の間に芽吹くものへと姿を変えていった。そしてまだ淡いその兆しを認めることすら許さず、純粋に鬼灯を敬愛する彼女から隠すように胸の奥底に埋もれさせたのだ。鬼灯らしくもなくなまえとの関係に歪みが出来ることを臆していたのかもしれない。しかし人の本質すら変えるのが色事というものなのだろう。 なくしてはいけない感情をこの手から取りこぼしている自覚のないままなまえとのあたたかな記憶に沈められた恋心を探り当てたのは、不覚にも嫌悪を向ける白澤そのひとで。彼に嗾けられるまで真向かおうともしなかった甘くせつない想いも、ひと度認めてしまえば自身の意志とは関係なく成長していった。 「きっと、もう随分前からなまえのことが好きでした。 けれど貴女のいる日々が、貴女の隣が心地よくて…それを壊したくなかった。本能的に、なまえへの想いに蓋をしていたんでしょう」 「………」 「しかしそれももう終わりです」 意志などでは縛り付けられないくらいに大きくなってしまった想い。 恋煩いとはよく言ったもので、宿敵のおかげでようやく触れられた慕情は世を越えた先に身を置くなまえを求めて仕方がなかった。 会えない距離が恋を育てる、など陳腐な恋愛小説のような心境が自分の身に訪れようとは考えもしなかったし、なまえを乞うた甘くもせつない時間が、認識出来る距離が、鬼灯に芽ざした恋情を素知らぬ顔など出来ないほどにまで育てるとは思わなかった。 一日すら待てずに桃源郷へと赴いた先で、なまえが白澤と出て行ったと知らされてひどい焦りを覚えたのはつい先刻のことだ。桃太郎から2人の居場所を聞き出す時己がどんな顔をしていたかは、わからない。 制御のきかない想いほど処理に困るものはない。彼女に打ち明けることで何らかの結びを迎えることになるとは思いながらも、もう胸のうちに留めておけないほどにふくらんでしまったそれを抱えてはいられなかった。 思考を巡らせた果てにつむいだ言葉を受け、呼吸することすら忘れてしまったように微動だにしないなまえに首を傾げて、鬼灯は彼女の眼前でひらりと手のひらを泳がせた。 「聞いてます?」 「き、きいてます!きいて……」 「なまえが好きだと言ったんですよ」 「す……え?」 久方ぶりに再会した彼女が生み出す声色に、鬼灯を見つめるその濡れた瞳に以前とは異なる熱がふくまれていると感じたのは思い違いだったのだろうか。 鬼灯の虹彩がゆらりとわずかに震えると、なまえは我に返ったように口を開いた。 「も、もう一回…言って下さい…」 「………なまえを好いています。…何度言わせるんですか、貴女は私を困らせるのが得意ですね」 「わ、私……っ」 いつも気難しくひそめられている眉は弱ったように垂れ、しかしなまえを見下ろす黒曜石の瞳は優しくにじんでいる。その奥に秘められた甘くすら感じる熱情が、心に迫るようだった。頬に、心臓に、なまえのすべてにあまやかな熱が巡る。 鬼灯の言葉を反芻し、きゅうっと締め付けられる胸が苦しい。喉元にせつなく込み上げる何かにたまらない想いにかられながらも、なまえを満たすのはあたたかな幸福だった。 それに促され、そっと唇を割る。 「私も、好きです。鬼灯さんが大好きです…!」 言葉もなく抱き寄せられ瞳からこぼれ落ちた涙がひと雫、鬼灯の漆黒の着物へ染み込んでいく。ぎゅうとなまえを抱きすくめる腕は加減を掴めないのか、きつく締められたり、ゆるくほどけたりを繰り返す。相も変わらないその仕草がどうしようもなくいとしくて、鬼灯のぬくもりに身を預ければ髪を梳くように撫でてくれる彼の指。 「…最大の難問は解決しましたね、これで心置きなく地獄へ帰れます」 「難問、だったんですか?」 「当然でしょう、なまえを失うかもしれなかったんですから」 「それ白澤さんが言ってた話ですか…?」 「ええ、まぁ」 「もう、2人とも私の意見は聞いてくれないんですから…」 「仕方ないでしょう、必死だったんですよ我々も」 ばつが悪そうに耳元でそう囁いた鬼灯に、とくん、と心臓が跳ねる。 耳慣れた低音が以前よりずっと熱くやわらかいものをふくんでいるように聞こえるのは思い違いではないだろう。 髪に戯れにからむ指先すら恋しく思いながら、青藍に散りばめられた星々を仰ぐ。天穹から降りそそぐその淡くあたたかな光は、まるで2人を祝福するようにまたたいたのだった。 * 「あ!帰ってきた!」 「おっ本当だ!」 「あ…」 耳にすっかり慣れ親しんだ声が辺りに弾む。それに視線を持ち上げれば飛び込んできた、恋しい友人たちの姿になまえの胸はゆるやかなぬくもりにふわりと包まれた。 閻魔殿の玄関ともいえる門口に並んで立っていたのは唐瓜に茄子、お香や閻魔大王、そしていつか言葉を交わした獄卒たちの面々だ。 彼らの様子に戸惑いつつ、隣に佇んでいてくれる鬼灯を見上げれば返される優しさをふくんだ眼差し。 その濡羽色の虹彩に促されるようにして一、二歩頼りなく進んだなまえは、はじかれたように駆け出した。 「どうして…」 「なまえちゃんが今日帰ってくるって鬼灯様に聞いたから、待ってたのよォ」 「そう、皆で!」 「皆で…?」 「なまえ、おかえり」 「おかえりなさい、なまえちゃん」 唐瓜とお香の言葉を皮切りに、明るい声がわっと湧き、辺りに咲くのはさやかな笑顔。なまえを心良く迎えてくれるその賑々しい声たちに、自然と背筋が伸びる。以前よりも胸を張ってこの場所を家だと明言出来る気がして、心ににじむ喜びに頬がゆるんでしまう。顔をほころばせると共にじわりと瞳を覆う涙をこらえるように、きゅっと唇を引き結んだ。 そんななまえの頭を宥めるように、いとおしむように撫でるあたたかい手のひら。 顔を上げなくてもわかる、この胸をせつなく締め付ける体温は鬼灯のもの。甘く高鳴る鼓動を抱えながら、ゆっくりと大切なひとたちに向き直る。 「ただいま…っ」 ぽかぽかと胸に宿るぬくもりとこれから先の未来も寄り添っていけるのだと実感して、形容し難い幸福に再び視界が溶ける。 たまらず縋った鬼灯の手がなまえのそれに指先をからませていくのを感じながら、彼女は幸せに満ちた花笑みをこぼしたのだった。 |