座卓に並べられた2人分の食事。 なまえの両の手のひらでやっと包み込めるほどの大きさの茶碗は鬼灯の物だ。丹精込めて調理されたそれらから漂う美味そうなにおいが鼻をくすぐり、きゅう、と腹の虫が切なく鳴く。 この世界を訪れるまでは毎食誰かと共に食卓を囲む何てことは考えられず、想像すらもしなかった。なまえにとっては独りきりの食事が日常だったから。それはどこか味気がなく、喉を通る温かいそれに相反して心は冷えていった。 "誰かと食べるご飯"がこんなにも美味しいことを初めて知った。ほっこりと心が和むのも箸を口元に運ぶ度にゆるくほぐれていく頬も、あの寂れた日々にはなかったものだ。それはきっと向かいで白米をほおばる彼が居てくれるから感じられる思い。 しかし今日はあたたかい余韻に浸る余裕もなく、なまえは膝の上できゅっと握り拳を作っていた。 ほかほかと湯気をたてるそれを緊張の糸が張りつめたような眼差しで凝視していた彼女は、そろりと鬼灯を見上げる。 視界に捉えたのは得体の知れない軟体動物の足を噛み千切る彼。見慣れない生き物に肩を揺らし、暗闇を映し出すようなぎょろりとした目玉に身を縮みあがらせながらおそるおそる口を開いた。 「あの…鬼灯さん」 「何でしょう」 「えっと、…お願いが……」 言いたいことはあるのに、規格外な地獄の食物を目の前で食いつくす鬼灯に尻込みしてしまう。 しどろもどろに視線をさまよわせ、なかなか先をつむごうとしないなまえに鬼灯は顔をしかめる。 滅多に欲を出さない彼女の願いとは何だろうか。まさか今更あの神獣の元に行きたいなどと言うのでは、と焦慮しつつ言葉の続きを待つが、なまえはもごもごと言い淀んだままだ。 痺れをきらしたのか、箸を置いた鬼灯は眉根を寄せて問いかける。 「何ですか?言いたいことがあるならはっきり言いなさい」 「じゃあ…えっと、明日から食堂を使わせて頂くことは出来ないでしょうか…?」 「……食堂を?」 「あ!別にきっちり明日からじゃなくてもいいんですけど!」 恐々として背筋を伸ばす彼女が何を言い出すかと思えばそれはささやかな望みだった。 閻魔殿を出たいなどといった申し出を想像し、人知れず気を揉んでいた鬼灯からしてみれば随分と可愛いお願いだ。なまえはわずかにうつむかせたその顔に不安を垣間見せ、こちらをうかがうようにそっと上目で見つめている。 答えはもう決まっているのだが、なまえを見ていると何故か胸の奥にうずめられた悪戯心がむくむくと湧き上がってしまう。 淡く細めた瞳でなまえを射すくめれば、敏感に身を震わせるその反応も実に愉しい。 「何故食堂で食べたいんですか?」 「前お香さんに誘われて……それに、鬼灯さんも私とばかりいたらつまらないんじゃないかと思って」 「…先に言っておきますけど、不思議なことになまえの傍は飽きることがありません」 「え」 彼女と居て変に気負うこともなければ、時折おりる沈黙の帳を気まずいと思うこともなかった。 むしろ鬼灯の言動ひとつひとつになまえから返ってくる実直で無垢な答えや取りとめのない応酬に心がやわく円らかになる感覚さえ覚えるのだ。 そんな彼女との時間を倦むなど、いくら熟考しても思いつかないことだった。 しかしなまえはお香との約束を守りたいのだと言う。誠実ななまえらしい考えだが、それは鬼灯との語らいの時を諦めることに等しい。 彼女にそんな思惑がないことは理解しているが少しからかっても罰は当たらないだろう。 「そうですか、お香さんと……。私と食べるのが嫌なんですか?」 「ち、違います!そうじゃなくて」 「私は貴女と他愛ない話をしながら食事を取るこの時間を、存外気に入っていたんですけどね」 「…鬼灯さん……」 普段と何ら変わりない平らな声音と無に近い表情でも、彼の科白をまっすぐ受け取ったなまえはすっかり騙されてくれたようで、しゅんと眉を下げながら鬼灯を見上げている。 逡巡するようにまぶたを伏せた優しい彼女がささいなわがままを取り消す前に、鬼灯は肩をすくめてなまえの額を軽く小突いた。 「なまえ、純粋すぎるのも罪ですよ」 「えっ?」 「私は食堂での食事を禁止した覚えはありません。なまえの噂も唐瓜さんたちからいい具合に回った頃でしょうし、良いですよ」 「本当ですか!?って、さっき言ってくれたことは嘘だったんですか…」 やわらかい衝撃を受けた額に手を当てながらなまえはどこか拗ねたように唇をとがらせた。 こうして共に食事を取る空間を鬼灯は疎んでいるのではないかと気がかりだったため、なまえと同じくこの時間を大切にしてくれていたという事実がとても嬉しかったのに。 ふわりと浮いた心がひと瞬きの間に冷え、瞳を揺らめかせたなまえに呆れの交じった息をふっと吐いた鬼灯は引き結んでいた唇をほどいた。 「私は冗談は言いますが、嘘はつきませんよ。普段の言葉にも信憑性がなくなっては困りますから」 「………つまり…」 先ほどの言葉は嘘ではなかったということだろうか。 素知らぬ顔で食事を進める鬼灯を見つめても心の中で投げかけた問いに答えてくれる訳もなく、かと言って今更確認を取るのも気恥ずかしいものがあった。 嬉しさからほんのりと頬を色づかせたなまえは、代わりにとばかりに弾んだ声を鬼灯に注ぐ。 「わ、私も好きです、この時間!」 「…ですけど、食堂に行きたいんでしょう?」 「う………やっぱり怒ってます?」 「違うと言っているでしょう。…素行の悪い獄卒はいませんが、人も鬼も往々にして噂話が好きなんですよ」 ばり、と得体の知れない骨を噛み砕いた鬼灯は苦々しく顔をゆがめながら呟いた。 詰まる所鬼灯はなまえが好奇の眼差しの下にさらされるのを危惧しているようだ。 唯でさえ先日まで面白おかしく話の種にされていた彼女が現れたら渦中の人となってしまうのは明白だ。 閻魔や鬼灯には慣れたとはいえ、その臆病な気質は容易には染められない。大勢の鬼たちに晒し者にされてなまえが参ってはしまわないかと、悪意はなくとも傷つけられはしないかと懸念してやるくらいには彼女のことを気に入っている。 鬼灯の思いをすべてではないにしろ理解出来たなまえはあたたかいぬくもりに満たされながら、そっと咲く可憐な花のように顔をほころばせた。 「心配してくれてありがとうございます」 「まぁ、身柄を預かったからには貴女の世話をするのは義務だと思ってますし」 「鬼灯さんの気持ちが嬉しいんです。本当に、ありがとうございます」 なまえの心も守ろうとしてくれたその気遣いが言葉にならないくらいの感情を生み出してくれる。胸に芽ぐむその何れもがどこかくすぐったくて柔らかい、穏やかな春の日だまりのようなぬくもりをはらんでいてとても心地が良かった。 心を擦り合わせて、小さな触れ合いからにじむ彼の優しさがなまえをひどく安堵させてくれる。 鬼灯の隣がなまえにとって心安らぐ場所になっていくのを確かに感じた宵の口。 彼の傍に居られる時間に終わりがあったとしても、不思議な巡り合わせで此処に身を置けたことを後悔する日など来ないのだろうと痛感して、彼女は口元に乗せた微笑みを深めたのだった。 |