まだ数回しか訪れたことのないすっかり様変わりした現世に圧倒され、鬼灯に見守られながらだが何とか視察を終えることが出来た、その帰り道。 精進せねばと気負いつつ、閻魔殿へと戻る朧車から久方ぶりに目に映る地獄の寂れた景色に懐かしさが胸をよぎった。 針山の山肌が露わになった土色、薄い霧が覆う白鼠に染まる空、それをぼんやりと照らす茜色の炎の光。このいつまで経っても変わらない光景がなまえをひどく安心させる。 もうここが故郷のような感覚になってきているな、と感慨深く思っていればひょい、と目の前に差し出される白い団子。 「食べないんですか?」 「あ、はい、いただきます」 「どうぞ」 「…えっと、」 「どうぞ」 まるでなまえの唇が開くのを待つように口元から動かないそれと鬼灯を見比べる。 既視感があるのだけれど、と幼い身に起きた出来事を脳裏に描けば、今でも鮮明に蘇るそれに気恥ずかしさが湧き上がった。 ふらふらと視線を彷徨わせながら口ごもるように唸るなまえに痺れを切らしたのか、あの時と同じように、今度は箸ではなく団子の串で唇をつつかれる。 ほんのりと甘い香りに鼻をくすぐられ、とくとくと跳ねる心音を耳にしながらたまらず声をあげた。 「もう子供の身体でもないんですから自分で食べられます!」 「それでは私がつまらないんです」 「わ、私を辱めてそんなに楽しいですか…」 「愉しいですねぇ」 愉悦をにじませた瞳を細めもう一度ふにふにと突いたあと、諦めたのかその団子を自分で食べ始めた鬼灯にほっと胸を撫で下ろす。 鬼灯は今しがたまでなまえの唇に触れていた団子を咀嚼しながら、この行為が所謂間接のそれだと気がついていない彼女を呆れるやらいとおしく思うやらでわずかに表情を和らげた。 「なまえは鈍いですね」 「え?」 「気が付かないんですか?」 言いながら団子をさらった串をゆらゆらと揺らす鬼灯に首を傾げると、頭の中でかちりと合点がいく。 そうだ、あれは先まで自身の唇に触れていた。それを鬼灯が食べた、ということは… みるみるうちに林檎のように真っ赤に染まるなまえの頬を存分に堪能しながら、鬼灯はもうひとつ団子を手に取った。 「かか、間接…」 「誰もいないのですからそんなに赤くなることもないでしょう」 「いや、あんたら今俺の腹の中でいちゃついてんだからな」 我慢の限界だったのか、突っ込みをいれるような声が響いてはたと我に返る。 そういえばここは朧車の中だった。そんなことはなまえの頭からすっかり飛んでしまうほど、素知らぬ顔で団子を食べ進める目の前の彼に翻弄されていたのだ。 現実に引き戻されたように今度は顔をさっと青褪めさせたなまえは、羞恥や焦燥や自責の念にかられて思わず蹲ってしまった。 「すみません、お邪魔するつもりはなかったんですがあまりにも蚊帳の外だったのでつい…退屈しのぎに怖い話でもしようかなーとか思ってたんですけど」 「ぜひ!ぜひしてください!」 「え?そうですか?じゃあさっそく…」 もうこのこそばゆいような空気が払拭できるならなんでもいい、とお願いすると、そう言われるのを待っていたかのように早速朧車が話し出したのは何とも言い難い怪談話で。 臨死体験をした女を恐ろしく思う朧車は、生者からすると彼の方がよほど怪談じみた存在だとは気がつかないのだろうか。 見方によって恐怖の対象も変わるものだなぁ、と呑気に感心していると、どこからかおどろおどろしい声が聞こえてきた。 「怪談かァ……そう呼ばれたこともあったねえ…」 「?」 「あ、鬼灯さん提灯が…」 声の主を探すようにきょろきょろと首を巡らせる鬼灯の袖をひく。電灯代わりに吊るされた提灯は横に裂けた口を動かしてぺらぺらと話を続けた。 提灯お化けの類いは基本的に無口だった筈だが、彼女はどうやら違うらしい。 「アタシは提灯於岩ってもンさ。今でこそタクシーの明かりだけどねェ、昔ァ別嬪だったンだよォ。 アンタァ見てたらかつての夫を思い出したのさ、アレも顔は涼しい男だったねェ。アンタらの仲睦まじさも結婚したてのアタシらそっくりでさ…」 日本を代表する怪談でもある四谷怪談、彼女の話は確か私欲のために夫に毒殺されるが幽霊となり、最愛の人をとり殺すというものだった。 好いた人に裏切られるのはどんな思いだろう。 心を深く抉られるような苦しみと悲嘆に苛まれるその胸中は知り得ないことだけれど、まるで自分のことのように胸が痛んだ。 しみじみと頷く於岩の横顔はどこか寂しげで、遠く離れた誰かを想うように虚空を見つめていた。 於岩は愛しい夫との昔を思い起こしたのか、はあと感情の篭ったため息を吐き出すと朧車に声をかける。 「少ししんみりしちまった…ルビー色の湖でも眺めたいねえ」 「いやそれよりさっさと閻魔殿まで行って下さい」 「行きましょう於岩さん、私お付き合いします…!」 「ちょっと何絆されてんですか。なまえも報告書を仕上げなくてはならないでしょう」 「いいんです、徹夜します!」 涙を浮かべながら訴えるなまえをなだめるように彼女の頭に手を置く。 こうしてすぐに誰にでも心を傾けてしまうから、亡者への呵責や拷問の類いはなまえの苦手分野だ。優しいのは美点だが鬼灯としてはもう少し厳格さも学んでもらいたいところである。 「どうしたよ於岩、もしかして夫にまだ未練があるのか?」 「バカだねないよ……。…ないよ」 「於岩さ、」 悲しげな瞳を逸らす於岩に、なまえが声をかけようと軽く腰を上げたその時だった。 朧車が急停止し、膝を突いていたなまえはぐらりとバランスを崩してしまう。揺れる視界に危うく転げそうになるところを素早く反応した鬼灯に抱えられ、その力強い腕の中で振動が収まるのをじっと待った。 「平気ですか、なまえ」 「はい…何かあったんでしょうか」 ばさりと簾をよける鬼灯の隣で外を覗くと、前方を行く朧車がふらふらと不安定に空を飛んでいた。 何かに怯えるようにも見えるそれに眉をひそめる。 「あれ…俺の友人なんですけど……なんか飛び方がおかしいような……」 「何かを怖がってるような感じですね…」 「さっきお話しした怪談体験をした同僚です。まさかまた…」 「イヤ怪談は貴方がたなんですけどね」 そんな会話を裂くようにカァ、と高く響いた烏の声に辺りを見回せば、烏天狗警察が朧車と並行するように飛んでいた。 事情を聞くと指名手配犯の目撃情報があり、手配犯はどうやらあの様子がおかしい朧車の中にいるらしい。 その亡者、民谷伊右衛門という名を耳にした途端血相を変えた於岩が叫ぶ。 「いっ伊右衛門様!?こうしちゃおれないよ!朧の旦那ァ追跡してくんなァ!!」 「イヤあの堂々と勝手なマネされると困ります」 「ゴチャゴチャうるせェぞ警察!!」 しつこい追跡に我慢の限界がきたのか、伊右衛門はネコバスに乗るのが夢だったんだと身を乗り出して喚き叫ぶ。それとは随分姿形が違うけれど、朧車も地獄のネコバスと言っていいのかも知れない。 ふむ、とそんなことを考えるなまえを他所に、彼の姿を認めた於岩は感極まった様相でふるふると身を震わせ、勢い良く外へと飛び出してしまう。 伊右衛門様、伊右衛門様と何度も名前を呼びながら。 彼に命を奪われたというのに、未だ恋い焦がれるほど伊右衛門を愛している彼女にゆるくまぶたを伏せた。 「伊右衛門様アンタやっぱイイ男だよォ!鬼灯様の100倍!イイ男だよォ!!」 「……ああ…」 その言葉が癇に障ったのかいい加減堪忍袋の尾が切れたのか、まるで槍投げのように投擲された金棒が於岩ごと伊右衛門を貫いた。やってしまった、と胸元で手を握りながら小さくなっていく彼らを眺めて肩を落とす。 そのまま真っ逆さまに落ちていく2人を見下ろし、そいつら家庭裁判所に連れて行け、と低く唸った鬼灯になまえが苦笑すると彼は疲れたようにため息をついた。 「お疲れさまです」 「全くです……ところでなまえ、伊右衛門さんのこと私よりいい男だと思いますか」 「き、気にしてたんですか?……私は…、鬼灯さんが1番ですから」 小さく、けれどはっきりと呟くなまえを一瞥した鬼灯は貴女だから気になるのだ、と出かかった言葉を喉の奥にとどめる。 満足そうに眉を持ち上げた彼にくすりと笑みをこぼせばこつんと降ってくる丸められた拳を受けながら、なまえはそっと鬼灯に寄り添った。 |