少し長引いてしまった視察を終え、きゅう、と鳴る腹を携えて食堂へと足を向けた。 その一角に顔を揃えていたのは鬼灯とお香、それに木の精である木霊だ。いち早く彼女に気がついたのは鬼灯で、瞳がからみあい、なまえはふわりと微笑む。 すると同じくなまえを見つけたらしい木霊はひらひらと手を振りながら席に呼んだ。 「こんにちは木霊さん、どうしたんですか?」 「なまえさん!!助けてください!」 「え?」 ひし、と脚に縋り付かれて首を傾げる。鬼灯にそっと目配せすると、彼も理解出来ていないようで肩をすくめた。 困り果てた様子の木霊に腰を屈めその幼い背をさすりながら優しく話を促すと、彼は鼻をすすった後静かに口を開いた。 「なまえさん、以前うちの山に迷い込まれましたよね」 「ああ…そんなこともありましたねぇ」 「は?それはつまり……遭難ですか」 「…ええっと、すぐに木霊さんに見つけてもらいましたし遭難というほどじゃ」 「………」 鬼灯からの無言の追求をかわすように顔を背ける。 あれはなまえひとりで現世へ視察に出向いた時のこと。丁度現地が木霊の住む山に近かったので、前々から話に聞いていた山神たちに挨拶に赴いたのだ。 しかしその辺りの土地勘もなく、地理に詳しい方でもなかったために道に迷ってしまったのだ。小一時間ほど彷徨い歩いていると、運良く地獄帰りの木霊と出会うことが出来たのだった。 なまえの話に耳を傾けていた鬼灯はきゅっと眉間に力を込める。その眼差しには憂慮の色がふくまれていた。 「………なまえ、今後ひとりで山に入らないように」 「は、はい」 「それで、本題なんですけど…なまえさん、イワ姫って覚えてます?」 「ええ、覚えていますよ」 イワ姫は木霊に連れられて精霊たちや山神の元を回っていた時顔を合わせた内の1人だ。 彼女にはつれない態度を取られていたものの、根気良く声をかけるうちにぽつりぽつりと会話をしてくれるようになった。 昔心に負った悲痛な傷が彼女にコンプレックスを与えているようで、少し捻くれていたけれど根は優しく面倒見の良いひとだった。 彼女が木霊を悩ませている原因だろうか。 「イワ姫がどうかなさったんですか?」 「はい…鬼灯様たちにも説明いたしますね。 …山には神が多くおります。私のような木の精、山の大将である大山祇神、岩長姫・木花咲耶姫など……分かりにくいので、これらをまとめて山神ファミリーでいいです」 「俄然わかりやすくなった」 その山神ファミリーの中でもツートップを誇るのが岩長姫と木花咲耶姫。 通称イワ姫とサクヤ姫だ。 この2人は姉妹なのだが、妹のサクヤ姫は眉目秀麗、反面姉のイワ姫は世間一般からするとお世辞にも美人とは言い難い見目をしていた。 彼女たちはその昔、ニニギという神の元に二人揃って嫁いだのだ。しかし、姉のイワ姫のみが醜いという理由で追い返されてしまった、と。それ以来外見にひどいコンプレックスを抱くようになったイワ姫は、美人が山に入ると木を倒してしまうらしい。 そして、今夜その姉妹を招いた山神のパーティがあるのだと木霊は言う。彼女たちが邂逅する瞬間を思うと気鬱で仕方ないようだ。 「そこでイワ姫と親しいなまえさんに来て頂きたくて…!」 「私がですか?いいんでしょうか」 「もう是非!イワ姫も久しぶりに会いたがっていました!」 「私も興味ありますね」 久方ぶりに彼女と話がしたいし、鬼灯も着いてきてくれるらしい。山神たちが集まるパーティというのも好奇心がくすぐられる。 こうして、希望を見出した木霊に引っ張られるようにして富士の山へと向かうことになったのだった。 * 富士の山に到着し、とりあえずイワ姫の様子を見ようと草むらの中に身を潜ませた。 数多の精霊たちが集まるうち、木の上にどっしりと身を横たえているのがイワ姫だ。彼女たちは賑々しく会話を膨らませていく。 「新しく山神ファミリーに入った花の精のコ可愛くない?」 「え〜あの子?相当化粧で作ってね?言葉遣いもなってないしああいう子って裏の顔凄いわよ」 「…い、イワ姫さん…」 つらつらと妬みを口にするイワ姫に唇が引きつる。まるで新入社員が配属された時のお局だ。 美人を嫌うイワ姫の嗜好が知れたのか、いつしか醜いものを備えた方が山は喜ぶという伝承まで出来てしまったと木霊は肩を落とす。 そんな会話を交わしていると、不意にわっと山神たちが沸いた。何ごとかと視線を滑らせれば、輪の中心に現れたのは美しい花を纏ったサクヤ姫だった。後光が差すほどに神々しい女神は皆に歓迎され、やわらかな笑顔を咲かせている。 その様に苦しげに眉を寄せたイワ姫の心情を察したなまえは、すっくと立ち上がり彼女に近づいていく。 「あ、なまえさん!?」 「…ここはなまえに任せましょう」 「でも…」 不安そうに眉を下げる木霊を窘め、鬼灯はなまえの背を見つめる。 他人の心を汲むことに長け、その高い人徳はなまえの美点でもあり彼女を補佐官へ推薦した幾つかの理由のひとつだ。 ささくれだっていた胸の内も、彼女が漂わせる穏やかな気配に知らぬ間に溶かされてしまうような感覚を覚える。まるで雨のしずくのように、すうっと心に沁み込んでくる気質はなまえだけのものだろう。 「イワ姫さん、お久しぶりです」 「アラなまえじゃない!どうしてここに?」 「木霊さんに招待されたんです。私もパーティに参加させて頂いてもよろしいですか?」 「ええ、もちろん。っていうかアンタ、今度は迷子にならなかったのね?前は同じとこぐるぐる回ってたくせに」 「そそのことはもういいじゃないですか!」 なまえが迷子になったあの日、同じ道をぐるぐると廻っていたところをイワ姫は見ていたようで。それならば助けてくれてもよかったのにと思わなくもないが、当初風当たりが強かったことを考えると好かれていた訳でもなさそうだ。 わずかに気落ちしたなまえに気がついたイワ姫は、照れたようにふい、と目を背けながら独り言のようにこぼす。 「あの時、アンタが山に入った瞬間に木でも倒してやろうかと思ったんだけど……ゴミ拾ってたじゃない」 「はい、近頃平気でポイ捨てする方が増えてますし少しでも、と……不法投棄も何とか出来ればいいんですけど」 「アンタのそういうところ、嫌いじゃないわ」 「イワ姫さん…」 「アタシが山神ファミリー以外に友達つくるなんて稀なのよ、有り難く思いなさい」 「…はい!」 上手く気を逸らせたのか、嬉しそうに顔をほころばせるなまえと共に朗らかに笑うイワ姫に、木霊はほっと胸を撫で下ろす。 これならば何ごともなくパーティを終えられそうだ。 そう考えた木霊は鬼灯の手を引いて彼女たちの元へ向かった。 「イワ姫ー!素敵な方を御招待しましたよ」 「木霊、アンタなまえ放ってどこに…」 「………イワ姫?」 木霊に連れられた鬼灯を視界に入れた途端、彼女の周りにぶわりと花が散ったようなまぼろしを見たのだけれど、気のせいだろうか。 落ち着かない面持ちで頬を赤らめるイワ姫に、嫌な予感がざわりと胸をよぎる。ちら、と鬼灯を見やるとなまえに瞳をうつした彼は小さく首を傾げた。 まさかとは思うけれど、イワ姫は鬼灯に一目惚れしてしまったのではないだろうか。ふわふわと浮ついたような空気を帯びる彼女はまさしく乙女のそれだ。 不安と焦燥が綯い交ぜになった心を抱えて腰をおろすと、イワ姫は恥じらうように髪を整えながら口を開く。 「えっとお…鬼灯様はどんな女性が………あ、やっぱり何でもないわ…」 「私ですか?どんな女性というよりなまえが」 「あ、ああ鬼灯さんは大人しい女性より反抗的な方が好きだそうですよ!」 ね、と懸命にこちらを見上げてくるなまえにひとつ息をついた鬼灯はほとんど平坦な声音で、私は貴女に興味がありますね、とこぼした。 「矯正のし甲斐がありそうな人を見ると…燃える」 その科白を受けて頬を染めたイワ姫につきん、と胸が痛んだことには目を瞑って、鬼灯と談笑する彼女を見つめる。 なまえが鬼灯と結ばれた仲であると知ったら、彼女はきっと度重なるショックに打ちのめされてしまう。ただでさえサクヤ姫の存在が彼女の心の傷を抉るのに、なまえが追い打ちをかけるのは本意ではない。嘘をついているようで心苦しいけれど、ここは隠し通すことが最良。 そう何度も自身に言い聞かせて淀む思考に沈んでいると、鈴の鳴るような可憐な声が降りかかった。 「姉様、その方たちはどなた?」 「サッサクヤ姫!」 「あんた……今せっかくいい雰囲気になってたのに台なしよ!」 「!」 「イヤなってませんよ」 はっと顔を上げたなまえに向けてか落とされた言葉に内心安堵する。自分から隠しておいて何だけれど、やはり鬼灯に他の女性が近付くのは心臓にひやりとした氷を押し当てられたように辛いものだった。 助けを求められた木霊の手前もあるのだろうが、他人に些か心を砕き過ぎる彼女に鬼灯は片眉を持ち上げる。 イワ姫がどんな感情を覚えようが彼女の心を苛むことになろうが、所詮先刻顔を合わせただけの関係だ。鬼灯にとってはなまえだけが特別に大切な存在なのだから、イワ姫の心を守るために動く道理はない。 と言えば彼女はきっと眉を吊り上げて怒ってしまうのだろう。それに、なまえのイワ姫を傷つけたくない、という想いも鬼灯は尊重したかった。 サクヤ姫の登場で勃発しそうになる姉妹喧嘩をはらはらと見守るなまえと共に彼女らを傍観していると、不意にイワ姫がこちらに向き直った。 「ねェ鬼灯様、アタシとサクヤ…結婚するならどっちがいい!?正直におっしゃって!」 「………」 「…………私なら、私の作った脳みそ汁を笑顔で飲める方と結婚しますね」 なまえに視線を配ると、彼女はもの憂う様相を見せながらひとつ頷いた。彼女の要望通りその場しのぎのでまかせを言っただけだが、心痛をこらえるように眉を寄せたなまえに呆れ交じりのため息を吐く。 鬼灯の科白に毒気を抜かれたように意気消沈するイワ姫を見やり、もう心配ないだろうとなまえの手首を掴むとそのまま手のひらを重ねる。 「では私たちはこれで」 「は、はい!ありがとうございました!」 ぺこりと頭を下げる木霊を横目に来た道を戻る。 いつもなら恥ずかしがってどうにか逃れるのに、精霊たちの前を通る時も山をおりる時も、なまえはからめられた指先をほどこうとはしなかった。 山を中ほどまで下ったところで、なまえはきゅっと結ばれていた唇を解きほぐす。 「脳みそ汁は、」 「冗談に決まっているでしょう。それより、なまえが欲しいものはそんな問いの答えではない筈ですよ」 「……鬼灯さん…」 「ほら、来なさい」 遠慮がちにぽすりと胸元にうまった頭に、意図せずとも鬼灯の眦がやわらぐ。 なまえは何度も髪を梳くあたたかい指先と身体を優しく囲う腕に安らぎを覚え、ゆるゆると吐息した。 こんな風に身近で、誰かが鬼灯に恋に落ちる瞬間を目にするのは身を切られるように切なかった。鬼灯を映した瞳の中に甘い熱が灯り、ゆらりと燃え上がる様子が網膜に焼き付いて離れない。 どんなに平静を装おうとしても鬼灯を恋しく想う気持ちが邪魔をして、胸の奥にじりじりと焦げつく暗い感情を上手く呑み込むことが出来なかった。 「彼女に真実を伝えなくても良かったのですか?」 「…今はその時ではないと思います」 「こんな嘘、いつかは綻ぶものですよ」 「わかっています。それでも今は、だめです」 サクヤ姫という彼女を苦しめる要因が傍にいる今は、駄目だ。だがいつか彼女の溜飲が下がった時はきちんと話そう。 なまえはそう強く決心して、甘みを帯びた紫煙と鬼灯のにおいが溶け合った香りのする厚みのある胸にそっと擦り寄る。 鬼灯の腕の中に身を委ねたなまえを慈しむように抱きしめた彼は、そのたおやかな背中をそっと撫でたのだった。 |