びゅうびゅうと風を切りながら飛び立った白澤は、なまえと桃太郎を振り落とさないよう気を遣いながらひと思いに宙を駆ける。 上空にいても鼻につくアルコールの臭気に顔をしかめつつふわりと地に降りたつと、なまえが固い土へ足をつけたのを確認して白澤は人型へと戻った。 彼にお礼を言うや否や刑場へと駆けていくなまえの背にどこか寂寞の交じった視線を送りながら、白澤はぽつりと呟く。 「そういや聞きそびれちゃったな…」 「何をですか?」 「…ううん、いいや」 「?」 なまえと鬼灯がどの程度まで関係を進めているか。 あの常世の鬼神がいつまでも手をこまねいているとは思えないから、身も心も彼の物になってしまっているのだろうか。しかしそれをなまえの口から聞くのは、またあの幸福に染まった赤い頬を目にするのは何故だか気が引けた。 まぁ大切にしすぎて未だに手が出せない、ってのも面白いけど、と考えて白澤は半ば無理やり口角を引き上げる。 「白澤様…?」 「んー?」 「…いえ」 訝しげにこちらを見やる桃太郎には気づかないふりをしながら、白澤は叫喚地獄へと続く道を進み始めたのだった。 * 思ったより早く姿を見せたなまえの傍に、白澤と桃太郎が呆然と佇むのを目にして呆れたような眼差しを投げた鬼灯は口を開いた。 「……だからついて来るなと言ったでしょう」 周囲は泥酔した亡者たちで溢れ返り、アルコールそのものに浸かってしまっているのではないかと錯覚するほどの酒のにおいで充満していた。 思わず着物の袖で口元を覆うなまえの華奢な身体は四方八方から亡者に押し込められ、今にも彼らの波にさらわれてしまいそうだ。 それを見て取った鬼灯は、ごく自然に彼女を懐へ抱き寄せて守るようにそのたくましい腕で囲んだ。 「あ、ありがとうございます」 「いえ、匂いで酔う癖は改善されたようで何よりです」 「う…それは言わないでくださいよ……」 「なまえちゃんそんなにお酒弱いんだ?」 「これでも強くなったんです!」 こんな状況でもなまえをからかうことを忘れない鬼灯によって落とされた言葉にかすかに頬を膨らませたなまえは眉を下げる。 最近まで宴会の雰囲気やアルコールのにおいだけで酔えてしまっていたなまえも、漸く多少は酒に強くなったのか一杯ほどで意識を飛ばすこともなくなった。飲み会が開かれる度に鬼灯に看病されるのは恥ずかしくて情けなかったものだ。 きっと酒に強くなったのは鬼灯の晩酌に付き合っているおかげだなぁ、と腕の中から彼を見上げる。 「それよりどうしましょうこれ…」 「そういや酒を奪われたっていう八岐大蛇は……」 「さっきからそこにいますよ」 鬼灯がすらりと長い指で示したのは桃太郎の背後、そこに鎮座している変わった模様の岩か何かかと思われていたそれが八岐大蛇だったのだ。 人など蟻のように潰せてしまいそうなその巨体とやっつに分かれた頭。その先をしゅんと垂れさせながら落ち込むその様は何とも表現し難い可愛らしさがある。 しかし深く反省している様子を見せる彼を鋭く叱りつける鬼灯は全く容赦がない。 「ここは酒類持ち込み一切禁止なの知ってるでしょう!」 「まあまあ鬼灯さん…八岐大蛇さんも反省なさってますし」 「なまえは甘いんですよ!奪われた八塩折の酒は何度も絞った強い酒…見なさい、喜びのあまりお酒様を祭り始めましたよ!?」 「本当にお酒が大好きなんですねぇ…」 取り戻してきます!と意を決して地を鳴らしながら酒瓶へと近づいていった八岐大蛇もあの迫力には手が出せずに立ち往生している。 暫くしてすごすごと戻ってきた彼に労いの言葉をかけながら、視線を亡者たちへ戻した。 酒に向かってひれ伏すその光景は何かを呼び出す儀式にも見えて不気味だ。禁酒していた反動のようにも見える。 それ程までアルコールが好きなら、いっそ飽きるまで飲ませてみてはどうか、となまえはひとつの案を思いついた。 どうしたものかと腕を組む鬼灯の袂をくいくい、と引く。 「鬼灯さん鬼灯さん、いっそのこともうお酒を見たくなくなるまで飲ませてしまえばどうでしょう」 「ああ、押して駄目なら引いてみろって言うしね。それなら僕の所有地に養老の滝があるぜ、レンタルするよ」 なまえの提案に賛成するように声をあげたのは、いつの間にか身を隠していた岩から顔をのぞかせた白澤。そちらをちらりと見やった鬼灯は納得したように頷く。 「…そうでしたね、いくら欲しいんですか」 「とりあえず早急に50万、借り続けるなら月極めで」 「…わかりました、なまえ」 「はい」 鬼灯が獄卒たちに指示を出す間、なまえは予算案の見直しをしなければ、と考えながら内訳を書き留めておく。 一方で鬼灯に命令を下された八岐大蛇はありったけの酒を持ち込み、獄卒たちはスーツに着替えて準備を整える。 まるで上司を交えた飲み会の一場面を切り取ったように見えるそれは、確かにシチュエーションに弱い日本人にとって拷問に近いものになるだろう。 酒は飲んでも飲まれるな、と桃太郎が呟いた言葉がその場に切実に響く。 結局のところこの日から叫喚地獄は、大好きな酒を文字通り浴びるように飲まされ続ける地獄へと変わってしまったのだった。 叫喚地獄での事後処理を終えた足で帰路についた2人は煌々と光を放つ蛍光灯の下、隣り合うようにして腰をおろしていた。 酒で浸されたようなあの空間にいては居酒屋に戻る気にもなれず。 かと言って飲み会が途中でお開きになってしまい、まだ飲み足りないらしい鬼灯の晩酌に付き合うことになったなまえはコップ半分ほどの酒を口にしただけで頬を赤らめてしまっていた。 先ほどまでまともに息もできないくらいのアルコールの臭いの中にいたせいもあるのだろうが、弱いにも程がある、と鬼灯は枡いっぱいに満たされた琥珀色をぐいと呷った。 「なまえ、顔赤いですよ……この程度で酔ったんですか」 「に、においで酔わなくなっただけ進歩と思ってください…」 火照った顔に手で扇ぐようにして風を送るなまえを見て呆れたように目を細めながらも、冷えた指の背でゆるゆると頬を撫でてくれる鬼灯にゆっくりとまぶたを伏せる。 口の中に残る苦味を楽しめるほど舌は大人になっていないけれど、ふわふわと熱に浮かされたような感覚は心地が良い。 日ごろ強張っていたところがゆるくほどけていくような、気分が軽やかになる感覚。それに加えて隣にはいとしいひと、だなんて幸せという言葉意外の何に形容するべきなのか、考えも浮かばない。 自然と口元にやわらかな笑みを形づくってしまうなまえに鬼灯は静かに言葉をつむいだ。 「やっぱり家で飲むのはいいですね」 「のんびり出来ますしね」 「なまえに酌をしてもらうのも気分がいい」 「…私は……」 鬼灯さんと2人でいられるところも好きです、と言いかけて口をつぐむ。 こんなことを言えばからかわれるのは目に見えているし、何より恥ずかしい。酒のせいだけではない熱が身体をめぐるのがわかって、ますます頬が色づいていく。 何かを言いかけてやめてしまったなまえをせっつくように肩を優しく小突かれるけれど、くすりと笑みをこぼしたなまえは嫌々をするように首を横に振って、鬼灯から逃れるように身をよじらせる。 「何ですか、気になるでしょう」 「これは言えません!」 「…そう言われると意地でも吐かせたくなる私の性分、知っているでしょう?」 とん、と座卓に枡を置いた鬼灯の何かをふくむような瞳にふらりと視線を彷徨わせたなまえは、彼から離れるようにじりじりと畳の上を這う。 したたかに獲物を狙う蛇のような眼差しに射すくめられ身を震わせながら、心のどこかでは彼の牙が突きたてられるのを望んでいる自分がいることにひっそりと唇をやわらげたのだった。 |