―大丈夫ですよ そう優しく優しく囁いて、その人の手のひらが何度も背を往復する。言いようのない不安と恐怖に、がちがちと歯の根が合わない自分をあやすように摩られる背中。 顔を上げれば安堵を促すようなゆるりとしたやわらかい笑みを向けられて、これから地獄に堕ちるか否かの判決が下されるというのに呑気にとくりと跳ねる心臓が痛い。 単純だと思うけれど、他に頼るもののなかった男が唯一差し伸べてくれた手に縋るのも、…その主に恋をするのも道理というもので。 裁判所の前でという色気も何もない出会いだったが、彼女の存在が男の心を甘く締めつけることとなったのだ。 * ほのかな光を放つ上空を見上げるなまえに優しい眼差しを寄せながら、風に揺れ赤いさざ波を生み出す金魚草たちのために堆肥を準備する。 今日も大王が仕事をしないとか、夕飯は何を頼もうだとか。なまえと他愛のない会話をぽつぽつと交わすこの時間がとても気に入っている。 そのおだやかなひとときを取り潰す、そう、まるでこの金棒で滅多打ちにぶち壊すような出来事が起こったのは、桶で作った手作りの如雨露を釣りさげて金魚草に水をやっている時だった。 「好きです!付き合ってください!」 「あ゛?」 地を這うような低い声色で反応を示したのは、その告白を受けたなまえではない。 当の本人は金魚草の根元に蔓延った雑草を抜こうと腰を屈めたまま、ぽかんとその男を見上げている。顔を紅潮させてなまえを見つめる男と彼女のからまった視線を切るように鬼灯は一歩前に出た。 なまえは隣でその身を跳ねさせる金魚のごとくはくはくと口を開閉しながら、大人しくその大きな背に隠されるように庇われている。 「今何か言いましたか」 「鬼灯様…お、お嬢さんを俺にください!」 「…すみません、最近耳が遠くなっていまして。もう一度聞きます。 今、何か、言いましたか?」 男はすっかり緊張してしまっているようだった。父に娘との結婚を申し出るかのような言い回しをする彼に投げかける鬼灯の顔は、まさに般若だ。 今の鬼灯に物を言える素晴らしい度胸の持ち主がいるのなら、そう呟いただろう。 一句ごとに重みを増す声音と、黒い靄をずん、と背後に背負いながら射殺さんばかりの視線で男を貫く。 ひっと息を飲んだ彼に漸く我に返ったなまえは慌てて鬼灯の着物の袖を引いた。このままでは本当に彼をどうにかしてしまうかも知れない。 具体的には肩に担いだその鉄の塊で。 「ほ鬼灯さん…」 「なまえは黙っていてください、私は今彼と話を」 「こ、この方が話しかけたのは私です!」 いつもより更に目が据わっている。今にも金棒を振り下ろしかねない彼の様子に、慌てて鬼灯の怒りを一身に受ける男の前に立った。 びくびくと身を震わせる彼がなまえに庇われた瞬間、ほんのりと頬を赤らめたのを敏く目に止めた鬼灯は一層その眼差しを刃物のように鋭く細める。 ますます鬼灯の眉間の谷が濃くなったのを目にして早くなんとかしなければ、と焦りながらなまえは背後を振り返った。 「あの、私」 「俺を庇ってくれるんですね!なんて優しい人だ!」 「え?いえ、とても嬉しいのですけれど……私、貴方の気持ちにはお答えできません」 「そんな…あの、お話だけでも!」 「いいえ。私の好いひとは、もういますから」 唇へわずかに笑みを乗せてそう言うと、男は食い下がろうと開いた口を噤んだ。 心の髄から彼を想っていることが瞬時に理解できてしまうようなあたたかい光を帯びた瞳、幸せをそのまま映し出したような、やわらかな花のほころびを連想させるその微笑みに思わず閉口してしまう。 本当は遠くから眺める内にわかってしまっていたのだ、彼女の心にいつも居座っている者の存在も、その人に自分が露ほども敵わないだろうことも。 黙り込んでしまった彼はやがて何かを決意したように面を上げると、真剣な瞳でまっすぐになまえを見つめた。 「その人は良い方ですか?」 「はい、とても。この人を好きになってよかったと、心から思えるくらい」 「そうですか……。でも俺、諦めませんから!その方が嫌になったらいつでもー…」 わずかに悲しみをあふれさせる目を伏せたその男は、それでも諦めまいとなまえとの距離を詰めるように足を踏み出す。が、2人の間を裂くように身体を割り込ませた鬼灯はぐっと眉を寄せたままに口を開いた。 「それはないのでご心配には及びません。貴方の分まで、なまえを大切にしますよ」 「あ、え?鬼灯様…?……も、もしかしてなまえさんの想い人って」 どうやらそこまでは気がついていなかったらしい。先ほどのお嬢さん発言も、よくよく考えれば後見人である鬼灯に対しての言葉だ。 驚愕の事実にさあっと顔を青褪めさせ、申し訳ありません!と何度も足をもつれさせながら走り去っていく彼の背中を呆然と身送る。 「……ちょっと変わった人でしたね」 「これで諦めがついたのならそれでいいです。…それより」 「何ですか?」 「少し意外でした。彼に気を持たせるようなことを口にすると思っていたので」 そう呟く鬼灯はかすかに唇をゆるませ、その鉄面皮にどこか嬉しさを滲ませながらなまえを見下ろす。 そういえば好いひと云々を聞かれていたんだ、と今更ながら気恥ずかしくなり、頬が微熱に染まる前にふいっと顔を背けた。 ふっと息だけで笑う気配がして、心音が大きくなるのを誤魔化すように唇を動かす。 「私だって鬼灯さんのこと、大切にしますもん」 「何対抗心燃やしてるんです?」 「負けないくらい幸せにしてみせます!」 「ほお、では勝負といきますか」 なんて軽口を叩きながら互いを見つめあう瞳に確かな想いをふくませて、なまえはふわりと微笑んだ。 |