日々、雨日和 | ナノ




何だかなまえの様子がおかしい。
今朝、いつもより遅い彼女が鬼灯を起こしに来るのを、布団に潜りながら待っていたりしたのだが結局あのやわらかい手が肩を揺らすことはなく。

不思議に思いつつも支度を済ませ、もしや風邪でもひいたのかと、それならば一刻も早く顔を見なければと扉を押し開けたところで、がつん、と固い何かにぶつかる音がその場に響く。

何事かと見やれば、自身のそれよりひと回りほど小さな手のひらを額に当てるなまえが呆然と立ち尽くしているのが目に入った。
寝坊をして、と謝るなまえはふらふらと瞳を宙に泳がせている。

嘘をつくときの彼女の癖。

寝過ごしたのが理由ではないのだろう。ならば何故、と首を傾げたところでほんのりと朱色を頬に散らすなまえを目にして少し驚く。それはまるで、恋い慕う者に向ける表情だった。


鬼灯はそういう方向に特別疎くはない。寧ろ敏い方だという認識はある。なまえのこの反応は、今までなかったものだ。
急な接近やからかうような言動に頬を赤らめることはあったものの、今はただ首を傾けただけだ。彼女に触れてもいない。だというのに、まるで恋をした少女のように頬を染めるなまえに、まさかとひとつの考えが頭をよぎる。

ああ、やっとここまで追いついてくれたのだろうか。
そんな希望を胸に秘めて、やわらかな額にそっと指先を滑らせた。





穏やかな風に揺られる金魚草を眺めながら今日もいい天気ですね、そうですね、とゆるやかに言葉を交わしていると、向こうからゆったりと歩いてくるお香が見えた。


「鬼灯様、なまえちゃんおはよう」
「おはようございます」
「おはようございます」


ぴったりと重なった挨拶に仲良いわねェ、と微笑まれて少し照れくさくなる。
昨夜までは胸に重苦しく巻きついていた靄のような嫉妬の念も、1度恋心を自覚してしまえば露と消えたようにどこかへいってしまっていた。彼女への思いといえば相も変わらない尊敬と、かすかな後ろめたさだけだ。
3人揃って食堂の席に着くと、そういえばと向かいに座ったお香が口を開いた。


「お勉強は進んでる?」
「あ、はい!もうすぐ寺子屋で教わる範囲は終わります」
「アラ、じゃあどのお仕事に就くか考えなくちゃね。なまえちゃんは獄卒になりたいんだったかしら」
「はい」
「なまえに拷問ができるとは到底思えませんがね」


拷問集を見て血の気を引かせていたでしょう、と言われてうっとたじろぐ。
そうなのだ。以前獄卒になりたいと鬼灯に話したとき、耐性をつけるという建前で半ば無理矢理世界の拷問集、なる本を読まされた。
しかも丁寧に彼の朗読、解説つきで。
今思えば真っ青になりあまつさえ涙を浮かべるなまえの反応を愉しみたかった、というのが本音なのだろうけれど。


「じゃあ衆合地獄なんてどう?」
「え?」
「ウチは手酷い拷問は男の獄卒の方に任せているし、ゆっくり慣れていけばなまえちゃんも…」
「駄目です」
「え、鬼灯さん?」


お香が言い終わる前にぴしゃりとその提案を跳ねのけた鬼灯は不思議そうにこちらを見やるなまえに眉を顰める。
仮にも好きな女が他の男に媚びへつらうのを目にするのも、想像するのすら堪ったものではない。自分が存外独占欲の強い方だという自覚はある。

むすりと唇をへの字に曲げ、不快感を露わにした鬼灯をどこか面白そうに見つめるお香はわかってやっているのか。それに比べ隣で首を傾げるなまえはこれっぽっちも理解していないのだろうが。


「大体、なまえに男を誘えるとは思えませんね」
「な、何ですかそれ!私だって頑張れば…」


生意気にも憤慨する彼女に苛立ちを隠すこともせず舌を打ちながら向き直る。
なまえの科白を全て聞き届ける前に、黙らせるようにそっと人差し指を彼女の唇に触れさせた。
ぴたっと口を噤んでしまったなまえに艶をふくんだ眼差しを寄せつつそのぬくもりと柔い感触を愉しんだあと、そのまま顔をのぞきこむようにして近づける。
自分のそれが割と整っているつくりをしているという自覚はある。こういう時に使ってこその見目というものだ。

流し目を作って唇からやわい頬へと指先を滑らせ、するりと手のひらでそこを覆ってやれば思い出したように顔を真っ赤に染めるなまえにすっと目を細める。


「色気もへったくれもない、こうしただけで赤くなるようでは衆合地獄なんて夢のまた夢です」
「ほ…鬼灯さんのばか!」
「罵り方まで稚拙ですね」


馬鹿にするように肩を竦める鬼灯に悔しさと恥ずかしさがぶわりと湧き上がってくる。
先ほどまで肌を重ね合わせていたそこを指でさすっても、灯った熱は簡単には消えてくれない。

もう行きます、と席を立った鬼灯を恨みがましく見つめていると、一部始終を静かに眺めていたお香がぽつりと言葉を落とした。


「ふふ、心配なのよ鬼灯様。なまえちゃんが可愛くって仕方ないから」
「そ、そんな理由じゃないと思いますけど」


損ねていた機嫌も彼女の言葉にうまく絆されてしまう。
嬉しさにゆるむ頬を自覚してわざとむ、と唇を尖らせてもくすくすと笑みをこぼすお香には全て見透かされているような気がしてならない。
なまえは諦めたように息をついて、ふわふわとどこか浮ついた気持ちのまま、食堂を後にする鬼灯の黒い背を目だけで追ったのだった。



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