なめらかなそれにつつまれて、水底にゆっくりと沈んでいくような混濁する意識を振り払おうと、なまえは何度か薄く瞬きをする。揺蕩うようなひどく心地の良い眠りから無理やり引き起こされた感覚に不快感を覚えた。 硬い木の床に直に寝ていると錯覚するほどの薄っぺらい布団に転がっていた身体を起こすと、目を落とした先の手のひらがやけに大きく感じた。 手だけではない、足や胴も長い…いや、違う。これは本来の、16歳のなまえの姿。 慌てて辺りを見回すとそこは乱雑としたあの心地の良い部屋ではなく、頼りない空疎な壁には所々に穴が空き、時折隙間風が吹き込むなまえの家だった。 かつて生きていた頃、住んでいた小さな長屋。いくら首を巡らせてもそこに彼の姿はない。 「鬼灯さん…」 あの艶やかな長い黒髪を束ね、なまえの頭を優しく撫でてくれる大きな手はない。低く、どこか意地悪な響きをはらんだ声色で名前を呼ばれることはない。 いつだって手を引いてくれたあのぬくもりを感じることは、ない。 あの人がいない。 ぎしり、と胸のどこかが鈍く軋んだ。指先から全身へ、冷えた体温が広がる。鬼灯がどこにもいない、それだけで身動きひとつ取ることもできない。 ああ、 冷たい布切れの中に横たえた言うことを聞かない身体をもどかしく感じながら、じわじわと呼吸が止まっていくあの瞬間でさえ生きたいと願ったのに。 今心から願うのは、どうか、どうかこの心臓の鼓動よ止まれ、と。 脊髄から蝕むような堪らなく重苦しい想いに苛まれながら、ただ自分の死を望むことしか出来なかった。 * 「…!」 乱れた息と汗で肌に張り付く襦袢をうっとおしく感じながら身を起こす。慌てて周囲を見渡すとそこはところ狭しと物が置かれた鬼灯の自室で、思わず突いた手に触れたのは昨晩床に就いた時と同じ柔らかな布団だった。 ふらふらと覚束ない足元。音を立てないように気をつけながらそっと鬼灯が眠っているベッドへと近づく。 頬についた赤い寝跡だとかぴょんぴょんと好き勝手跳ねる黒髪に安堵したのと同時に、どうしようもない寂しさがなまえを襲った。 安心感と悲しみと、寂寞と焦燥と。自分でも嚥下できない、身を切られそうなほどの感情の波が次々に押し寄せて、それはなまえの理性と怜悧さを瞬く間にさらっていってしまう。 「ほお、ずきさん…」 心までも幼子になってしまったように仕様がない自身を自覚して、じわりと瞳に滲んだのは情けなさを含んだ涙。 鬼灯を目にした途端ゆるんだ心と涙腺は留まることを忘れたようにぽろぽろと塩をふくんだ水の粒を生み出して行く。 「なまえ…?泣いているんですか」 「…っ」 起こしてしまったのか、頬を滑っていく涙を辿るように鬼灯の親指がゆっくりと肌をなぞる。その優しい温度に再び溶け出しそうになる涙を必死で堪えながらベッドからおりた鬼灯に抱きついた。 「どうかしましたか?怖い夢でも見たんですか」 「鬼灯さん…ほおずきさ、」 「はい」 「どこにも、…っ私をおいてか、ないで…くださ…」 はしたないとか恥ずかしいだとか、そんな感情を覚える余裕もなくなまえは目の前にいる鬼灯を欲していた。 それほどまでに鬼灯に依存しているのだと認めることの出来ないまま、知ることのないまま。ただ自分を優しくくるんでくれるこの暖かさを取り零すことのないようにと、懸命にかき抱く。 短い腕をいっぱいに広げながらぎゅうぎゅう、と少し痛いくらいに鬼灯を抱きしめるなまえを抱き返してやる。どんな夢を見ていたのかはわからないが、何かに震え、涙をこぼす彼女を見れば何とかしてやりたいと思うのは道理で。自分のそれとは違うやわらかな髪を何度も梳く。 「…どこにも行ったりしませんよ」 気が落ち着いたのかやがて穏やかな寝息を立て始めたなまえにそう囁きながら、まぶたにかかる前髪を払ってやる。そうして現れた丸みを帯びた白い額を、今度は彼女に穏やかな安眠が訪れるようにとゆるやかに撫でた。 |