*雨だれ*
心地よい雨の音に耳を澄ます──。
梅雨の最中の日曜の午後。休日の部活の時間は数時間前に既に終えている。
それでも尚、何やかやと理由をつけて音楽室に留まっている私を追い返すでもなく。この吹奏楽部の顧問であり、私の担任の教師でもある“先生”──こと氷室零一サンは準備室の自分用の椅子に腰掛けたまま動こうとはしない。
「雨、止みませんね」
沈黙に耐えかねて終に口を開いてしまう私に、やはり目を向けもせず。
「……そうだな」
一言だけ、呟いて窓の外を眺めている。
耳には。サーサーと降りしきる雨の音に混じって、時折タンタンタンタン……と一定のリズムを刻む雨だれの音が聴こえてくる。
「雨だれって…」
「ん?」
「何だかメトロノームみたいだな〜と思いません?」
「確かに正確にリズムを打っているようには聴こえるな」
瞳を閉じてその音に聴き入ると、本当にメトロノームが左右に揺れる様子が思い起こされた。
「そういえば……」
立ち上がって、ピアノの前へ歩を進める。そして。鍵盤にそっと触れて数回鳴らしてみる“ラ”の音。
「……もしかして、ショパンか?」
「さすが先生! よく分かりましたねっ」
「雨だれ、から連想して、その音だ。他には思いつかないだろう」
少し照れながら、先生は何でもないことのように呟く。
「ショパンのプレリュードか……」
先生は漸く準備室から私のいる音楽室……そしてピアノの方へやって来て、引き継ぐように“ラ”の音を弾いてみせた。
♪ポーン
静かに響く第一音から始まり。一つ一つ音を確認しながら、思い出すように。でもミスもすることなく、確かに音を奏でながら……やがて先生なりの解釈が加わったショパンが紡がれていく。
「作品28、第15番だったか」
「はい。雨だれ、とは曲全体の伴奏が変イ音(ラ)で通されていることでイメージからついたタイトルですよね?」
「正解だ、勉強しているようだな。……だが実技はどうだ? 君も弾いてみるか?」
うっ……。突然の申し出に、思わず苦笑いになってしまう。
「滅相もございません。私の腕はまだまだ先生にお聴かせする程のレベルじゃありませんのでっ」
「ほう? ではどのくらいで聴ける程のレベルになれる?」
私のピアノの腕前は……まだまだ練習不足もあるし、自信を持って先生の前で弾くことなんて出来ないレベル。絶対、先生はそれを分かっていて、わざと言ってる。からかって楽しんでる表情だ、アレは。
こういう時の先生って、ほんっと性質が悪いというか……。
「──何度言っても分からないようだな。私の前で見栄を張ることはないと言っいるだろう? 学習能力がないのか、君には」
呆れるように。でも、何だか優しい眼差しで。その表情にドキリとしながら、正面から受け止めてしまった先生の視線に戸惑い──どうすることも出来ずにそのまま見つめ返す羽目になる。
「じゃあ、これから、毎日レッスンしてもらえます……?」
淡い期待を含み、そう問いかけるけれど。
「毎日は無理だ。偶にならいいだろうが、な」
「偶に……ですか」
拍子抜けしてしまったけれど。それでも真っ直ぐに受け止めてくれたことが嬉しくて。
「約束、ですよ? ちゃんと守ってくださいね?」
「私は一度した約束は守る主義だ。嘘は嫌いだからな」
ねえ、先生?
じゃあ、その赤く染まった頬の理由を訊いたら……正直に答えてくれますか?
ううん。答えはいらないのかもしれない。近づくほどに、高鳴っていく胸の鼓動と、耳に響いてくる規則正しい雨だれの音が。
2人を──優しく包んでくれるから。