アルバイト先で出会い、スーパーで出くわしたりエドワードさんを介して何度か会話を交わし、ある程度の仲が深まった頃に学くんは私にこっそり教えてくれた。
「そうだよ、エドってすごい頭いいんだよ」
「そ、そうなの?」
「そうだよ。じいちゃんの知り合いに元東大の教授がいて、数学の権威とか、とにかく凄い頭のいい人なんだけど、その人が言ってたんだよ。エドワードは天才だって」
「え、ええ……?」
「なんとかって数式もすぐ解いちゃうし、もうスペイン語、中国語も覚えたんだから」
「ええええ?」
「信じてないでしょ…」
「だって、そんな風に見えないから」
「え、そう?」
「なんかちょっとアホなイメージがあるんだよね、謎に」
「アホって、アハハ」
あ、笑ってくれた。学くんの不登校の原因はいじめらしい。つらい目に遭ったのだから、せめて学外では笑ってほしい。
そして今は、エドワードさんが風邪を引いたという連絡を、学くん→店長→私、という経緯でもらい、なぜか学くんと看病食を買いにスーパーへ来ている。学くんのお母さんはパートで、お爺さんも足が悪いので看病する人がいないのだと言う。いやそれ絶対ウソだろ風邪なんて寝てりゃ治るよ、とも思ったが、学くんがどこでどう知ったのか私のアパートの下に立っていてので、しょうがなく付き合うことにした。これは後日談だが、このアパートの大家はご意見番の柄沢爺さんらしい。ココは何から何まで柄沢家に支配されている土地である。
「お姉さんに看病してもらったら絶対喜ぶよ、エド」
「そうかなぁ」
「そうだよ、エドはお姉さん大好きだし」
「……………」
「あれ、これ言っちゃいけないやつだった?」
9歳の少年には色恋沙汰はまだ早いらしい。気にしないで、とほほ笑むと学くんはホッとしたように頬を緩めた。そして恋バナを続けてしまう。
「好きだよきっと、だってお姉さんの写真持ってるもん。しおりみたいにして本に挟んでる」
「え?」
「前に撮ったやつっぽいけど、確かにお姉さんだよ。あと知らない女の子と2人で写ってる」
「………………」
「本当はずっと前から知り合いだったの?」
これはちょっとしたホラーとして捉えるべきか。それともポリスを呼ぶべきか。いいえ、たぶん、どちらでもないが、私は底知れぬ不安を感じている。心臓が、どく、どく、と不穏なリズムを刻む。突如心臓を押えて立ち止まるものだから、学くんは心配そうに私の顔を覗き込んでくる。「大丈夫?胸が痛い?少し休む?」って。やさしい子だね、大丈夫だよ、すぐ良くなる。
「なんでもないよ、大丈夫。早く林檎買って帰ろう。あと夕飯の食材も。学くんはなに食べたい?」
「え、なんでもいいの?」
「いいよ」
「じゃ、じゃあハンバーグ!」
ものすごいド定番を言われた、目をらんらんと輝かせて。きっと大好物なんだろう。出来れば毎日食べたいほどに。
エドワードさん看病用のフルーツと、これも定番っぽい花、学くん達用にハンバーグの材料を購入してスーパーを出た。ご意見番お爺さんも夕飯の献立はハンバーグでいいんだろうか。
エドワードさんが持っているという私が写る写真とやらの件は、彼が元気になったら確かめようか。それとも寝ている間に勝手に荷物を探ろうか。林檎を薄く切るか、すりおろすか迷いながら悩み、結果、寝ている間に探ることにした上で林檎は薄切りにした。しかし困ったことに、彼は寝ておらず、額に冷えピタンを付けて本を読んでいるではないか。小難しい本そうだった。英語でも日本語でもない、あれはおそらく中国語の書物。本当に中国語もマスターしたのかと一瞬引いた。
私の姿を見つけるとエドワードさんは予想外の人物の登場に大層驚いたようで、必要もないのに身なりを気にしだした。髪を整えたり、寝間着のシワを延ばしたり。
「ど、どうしてここに」
「学くんがあなたが風邪だと教えてくれて、それでなんか…看病しに来ました」
「な、なんで」
「……本当ですよね、なんで来たんだろ、帰ろう。あ、とりあえずこれ林檎どうぞ」
「イ、イヤイヤイヤイヤ、イ、居ればいいと思うぞ!」
「や、でも、一人でゆっくり寝た方がいいですよ。あ、これも、お花」
「あ、ありがとう」
「お医者は行ったんですか?」
「アー、いや、大丈夫、寝てれば治るさ」
「アメリカあるあるですかね」
「エ?」
「ほら、アメリカって医療費凄いからみんなあまり病院に行かないって」
「アア…日本は医療制度がきちんとされてるよな、いいと思う」
「モラルハザード起きがちですけどね」
「それ以上の価値がある、国民の健康の水準が高くて寿命が長いのはその制度のおかげだと思うよ。アメストリスでも取り入れるべきだ」
アメストリス?どこそこ。アメリカのどこかの州の村か町?私が突っ込まずにいたら、彼も別段気に留める様子もなく撤回も説明もせずに林檎へ手を伸ばした。シャクシャクシャク。林檎をひとかけら租借し、飲み込んだところで、自分が何か重大なことを言い放ってしまったのだと気づいたらしい。目をカッと見開かせ、大慌てで訂正してきた。
「ア、アアアア、アメリカな!アメストリスじゃない!アメリカ!言い間違いだ!」
「はぁ」
「ね、熱のせいだ。俺はこう見えて39℃近い熱がある」
「じゃあ黙って寝てて」
「…ソウデスネ」
別にいい間違いだろうがなんだろうか私には関係ないし、どうでもいいことだ。大人しく布団に入る彼を横目に、私物がどこに置かれているのかをそれとなく探る。部屋は六畳ほどで、畳と古箪笥と机というこれまた日本の定番家具が置かれており、この人のものと思われる大きなトランクが部屋の隅に、そして上等そうな服が2,3着壁に掛けられている。ザ・旅人といった持ち物だ。きっとこの人は本当に旅に慣れていて、ついでにお金には困っていない様子。持ち物がいちいち一級品っぽいもの。そして、畳や机の上は本で埋もれている、よほどの読書家なのだろう。
部屋を物色している素振りを隠すためだけだったが、適当にした会話が彼の中ではヒットしたらしい。
「私はあなたが実はアメリカ出身のアメリカ人でなかろうとどうでもいいんですよ。別にどこの国の人だって。私や、学くん達に害のある人でないならどこの誰だって、天才じゃなくたってなんでもいい」
「………………」
「そうですか、あなたはアメストリスって国の人なんですね」
特別に心を込めた言葉じゃない。むしろ、やましい行いを消したいがためのおべっかに近い。それなのに、彼は本当に嬉しそうにほほ笑む。ふんわりとした笑顔だ。まるで、美味しいトーストの上でバターがじんわりと溶けてくみたいに。じわっ、じわっと染み入り広がるような、心からの笑みだった。やめてくれ、そんな風に笑ってもらえるようなことを私は言ってない、思ってない。この胸の痛みは、どくどくと高鳴る感情の正体は、罪悪感だ。
とっさに視線をそらしても、彼のバターみたいな笑顔は消えていかない。
「…アア、リゼンブールって小さな村出身で、羊が主な特産」
「へ、へえ、ジンギスカンですか」
「羊を見てから食うのと、食ってから見るのとじゃどっちが残酷なんだろうか」
「突然なんの質問」
「ヤ、どっちかなって」
「……食ってから見る方が残酷?ある意味、対面してるわけですから、お腹の中で」
「あはは、そっか」
謎の会話が終わると、彼は満足そうに入眠した。その時、ちょうど学くんが襖を遠慮がちに開けてきた。どうやら2人にしてあげようという配慮をしていたらしい。そんなものは無用であるのに。
「写真、みつけた?」
「ううん、どこにあるかわかるの?」
「えーと、どの本だろ…。たぶん今読んでる本だと思うけど」
人間2人がこそりこそりと動いているというのにエドワードさんはぐうすかと心地よさそうに眠っている。
今読んでる本というのはこの中国語の本だが、間には普通のしおりしか挟まっていない。ほかの本を一冊ずつ探すには時間がかかり過ぎるし面倒くさい。うん、トランク開けちゃおう。
「え、いいの?それはさすがに怒られない?」
「大丈夫だよ、なんかこの人怒らなさそうだもん」
「そうかな……、この間、自転車からポイ捨てたおじさんをめっちゃ追いかけて怒鳴り散らしてたけど」
「なにそのエピソード」
そんな過激な一面もあるのか。やっぱりやめておこうかな。でも、大きなトランクを開けてすぐ見つけてしまったのだ、写真を。私が写っているとされている写真ではない、違う誰かが写る写真をだ。使い古された手帳らしきものの間に挟まれ、にょきっと顔を出しているその写真は少し古めかしい。色も褪せている。数十年前のアメリカのポラロイド風カメラで撮られたような写真だった。そして、恋しい、寂しい、逢いたいと想う瞬間に取り出して眺めらて来ただろう歴史が写真の劣化具合に感じ取れる。構図は男性が両サイドに2人、女性が真ん中に一人いる。右側にエドワードさん、左側に短髪のイケメン、真ん中には髪の長い美女が写っている。どう見ても、どう考えても、真ん中の美女を両サイドのイケメンが想い合い、奪い合う物語しか私の凡庸なシナリオ力では思い付かない。それと同時に、唐突に頭に浮かんだ事がある。
”わたしは、このひとたちをしっている”
エドワードさんだけでなく、左のイケメンも真ん中の美女も、わたしはおそらく知っているんだろう。でも、思い出せない、名前も言えない。不思議な体験だった。幼少期の記憶が曖昧である現象に近いだろうか、それとも映画の内容を思い出せない感覚だろうか。
すると、一緒にこの写真を眺める学くんが意外な情報を与えてくれる。
「この左の男の人はエドの弟さんだよ、アルフォンスって名前で、」
「………………」
「で、真ん中の人がエドと弟さんの幼馴染で、確か、ウ、ウインリー?さんだったかな」
「…そう」
名前を聞いても何も浮かばない。でも、名前を知ると、ああ確かにこの人達の名前はそんんな感じだろうとしっくりは来た。だけど、それだけ。
「ウインリーさん、きれいな人だね」
自分でも意外だが、女性の容姿についての評価がぽつりと口からこぼれた。ほかにも指摘すべき点はあるはずなのに。ウインリーさんは可愛い顔立ちだ。撮影時はまだ10代だろうけど、20代を超えればきっと美しさにも磨きがかかるタイプだ。髪の色は何色だろう。エドワードさんと同じく金色だろうか、目の色は?弟さんも同じ髪と目の色だろうか。
こんな素敵そうな家族と幼馴染を置いてまで探し出したいその女性は、そこまで価値がある人物なのだろうか。案外そうでもないだろうなと考えてしまったが、言ったらエドワードさんがガチで怒りそうなので、ここだけの話にする。異性の好みなど人それぞれである。
「ウインリーじゃなくて、ウィンリィな」
「わっ、起きてたっ」
「……………」
「マナブ、おまえは勉強しなさい。風邪移るかもしれないし、練習問題も出してやったろ」
寝たふりに驚いた学くんが私に軽く抱き着く。確かにこれだけ騒いでりゃ例え寝てても起きるか。
素直に私物を物色していたことを謝ると、意外にもすんなり許してくれた。そして、学くんが部屋を退出するとすぐに家族達を紹介してくれた。唯一の肉親の弟であるアルフォンスさんと幼馴染のウィンリィさん、2人は結婚する予定で故郷のリゼンブールに住んでいるという。
「最後に話したのか数か月前だから、もう式はあげてるかもな」
「へえ」
「ウン」
「なんか、」
「ン?」
「弟さんよりもあなたの方がウィンリィさんとお似合いな感じ」
「……………」
「かわいい女子とツンデレ男子って感じで」
「ツ、ツンデレ?」
「ググって下さい」
「イヤ、ウン、分かった。でもさ、いや、俺はさ、なんと言うか、」
「はい?」
「ウィンリィも確かにキレイだと思うけど…、」
「はい」
「だ、だから、その、」
「はい?」
「おまえも、」
「……………」
「あなたも、とても美しいです」
なぜ、突然きちんとした日本語を、しかも敬語で訴えるのか分からない。熱のせいなのか、頬は赤く、目は潤む。真剣さは伝わった。一体なにに真剣なにかは分からないが。だってあなたは恋人(想い人)を探して日本まで遥々やってきたのでは?それなのにその道中でその辺にいた女を口説くの?そして私は謎のイケメン外国人にまんまと引っかかる女に見られているの?ふざけんじゃねえ。
フォークに林檎をひとかけらぶっさして、それをエドワードさんの口に突っ込んでやった。この行動を、彼はそれほどの動揺もなく受け止めて見せた。それがますます腹立たしく思えた。