窓側からカウンターへと指定席が移り変わってから、謎のお客さんである彼と会話を交わすことが増えた。会話の内容は他愛のないことだった。天気の話とか、体調の話とか、どこのスーパーが安いとか高いとか、近くにある並木道の桜の話とか、店長の奥さんが怖いとか、そんな身にならない世間話ばかりして、肝心だろう互いの身の上話はしなかった。しかし店長はお構いなしに気になることをどんどんと尋ね、彼は言葉に詰まりながらも丁寧に答えてやる。なるほど、店長の言う通り、愛想はそれほど悪くないらしい。


「エドワードくんは兄弟いるの?」

「ええ、弟が一人」


ちゃっかりと、エドワードくん、などと呼び、店長は彼と親密になろうとしている。よほど彼が気に入ったんだな。この辺りは外国人の観光客も少なくはないから、彼を皮切りに観光客の足休めとしてここを利用してもらおうという腹積もりなのかもしれない。店先にある黒板のメニュー表は、一昨日英語表記が書き加えられたばかりである。


「へえ、弟くんか!俺はね、兄貴!もうしっかりした兄貴でさ〜、いい大学行っていい会社入って、めちゃくちゃ親孝行してるわけ!俺なんか実家帰ると肩身狭くてね〜」

「こうやって店を経営してるだけ凄いと思う。この辺り、店を借りるための家賃だけでも高いんじゃ?」

「あら、よくご存じですね」


ようやくそこで私が会話に入ると、彼は口元に当てていたチャイ入りのカップをソーサーに置いた、カチャと陶器がぶつかる音がする。私はキッシュのカットに集中しているため、彼の表情は伺い知れない。相変わらずの流暢な日本語で的確に返事をくれる。まだ日本にやってきて日は浅いだろうに、よくもまぁそんなにペラペラ話せるものだと思う。探し人に教えてもらっていたんだろうか、そうか、その可能性は大だ。


「仕事先の店主が言ってた、この辺りは土地代が高いって」

「ああ、少し行った先のフランス料理屋さんですね」

「うん、そう」

「今度さ、そのお店に行ってみようか、ねえ。エドワードくんは平日のお昼はずっといるの?」

「ええ。平日の昼と、日曜の夜に勤めてます。ぜひ、いらしてください」


これまた流暢な日本語だ。勤めてます、ぜひいらして下さい、だってさ。
ところどころイントネーションが不安定に落ちたり上がったりしているが、言葉の選び方はほぼ完ぺきだ。今は漢字を練習中だと言う。どんな字を練習しているのかと手元を盗み見ると、不格好な字面ながら「薔薇」という二文字が白い紙の上にちょこんと並んでいる。いや、私だって書けないよ、薔薇なんて。外人のスペックってすごいんだな。
店長が休憩に入ると、私と彼の二人だけの時間になる。意図してこの時間が作られているのだと私は知っている。店長の思惑は私にもスケスケだ、私と彼の仲をなんとか近づけようとしている。だいたい、店をバイト一人だけで回させるというのは如何なものだろう、確かに流行ってはないし忙しくもない店であるが、こっちは時給900円で雇われているわけで、その時給分以上の仕事をさせられている感は結構あって、もうそろそろ時給1000円にしてくれと言ってもいいだろうか。そんなことを考え込んでしまい、少々の沈黙ののち、彼が唐突に「あ」と小さく声を上げたので、私も顔を上げた。


「この間の、調べた」

「え?この間の?」

「油を売る、は無駄な話をして仕事を怠けること」

「ああ、正解。そんな感じ」

「もたもたは、動作や物事の進行がのろくて捗らない様子」

「そ、そうそう」


意味をきちんとかみ砕かれると、私はかなり酷いことを彼に言ってしまったらしい。少し居たたまれない。しかし彼は私に言われた言葉の内容などさして気にしていないらしく、表情はにこやかなまま。むしろ意味をきちんと理解出来たことに満足しているようにさえ見えた。勉強熱心なのか、何なのか。
話題を切り替えたくて、正直そこまでの関心はないのだがこの間うっかり口走ってしまった事柄について、一応提案だけはしてみることにする。


「で、探し人はどうします?」

「アー、うん、そうだね」

「その方のお名前は?年齢とか、出身地…は、分からなくても、何か手掛かりになることとか」

「歳は…たぶん、二十三歳くらいかな」

「たぶん?」

「た、たぶん…いや、絶対!」

「いいですか、エドワードさん、あなたが一方的に、相手の方が望んでもいないのに居所を探そうとしているのならそれは犯罪ですよ、分かってますか?大問題ですよ、ポリスが来ちゃいますよ」

「オレ、日本語ワカリマセン」

「嘘おっしゃい!びっくりした、なに突然、薔薇書いてる人が何て嘘を吐くんですか」

「イヤ、ホントウに俺は別にキガイを加えるつもりはない、全然!俺は怪しい人間じゃない!」

「でも状況的には相当怪しいですよ。そこは理解して下さい」

「アー、うん、それは分かってる。俺のイマの状態は誰が見ても怪しいヤツだよな、うん、理解してる」

「今はご近所の酒屋さんに居候してるんでしょう?店長から聞きましたよ。それってホームステイってことですか?」

「ホームステイ…いや、運よく住まわせてもらってるだけだ。そこのジイさんが物好きで、なんでも怪しい外国人を匿ってみたかったとか、何とか言ってた」

「どういうことそれ…」

「イヤ、俺もよく分からない」


やっぱり、類は友を呼ぶってやつだろうか。この町内にそんな怪しいお爺さんが存在したなんて驚きだ。実は、彼が居候しているという酒屋と私のマンションは目と鼻の先にあり、徒歩1分もしない距離にある。そのことをこの人に告げないのは、いまいち信用できず、怪しんでいるからだと思う。突如として現れた正体不明の外国人、本来なら深く関わらないに越したことはない、これまでの私なら全力でスルーするところだが、ほんの少しある好奇心が彼とのつながりを店員と客の関係以上にしている。
ありふれた日常という真っ白なキャンパスにある日何者かによって落とされた黄金色の絵の具は、消すには惜しいほど美しい色をしていた。だから別の色で上塗りをせず、そのまま放置しているだけ。彼、エドワード・エルリックとの非日常はそれだけの意味合いしかなかった。


「まぁ、エドワードさんにも事情があおりでしょうから深くはお聞きしませんけどね。もしかしたら、もしかしたら相手の方もあなたが来てくれるのを待ってるかもしれませんしね」

「アア、本当に残念だよ。そうだったら一件落着なのに」

「?」

「期待はし過ぎるものじゃないな。ずっとそんな想像をしてた所為か、それなりに失望はした」

「…………」

「俺の言っていること、わかる?」

「いえ、全く」

「はは、だろうな、気にしないで。ただの独り言だから」


独り言にしちゃ大きすぎる。やっぱりこの人ヤバイ人なのか。とてもまともそうに見えるけど、心のうちには一体どんなものを抱えていて、本当はどんな人柄なんだろう。例え一生知ることが出来なくても私は気にしないしどうでもいいんだけど、普通の人だったらこういう時、どんな台詞を彼にかけてあげるんだろう。大丈夫、きっとその人は見つかりますよ?元気出して、その人もあなたに逢いたがってるはずですよ?ううん、どれもしっくり来ない。
私は昔から、人を励ましたり慰めたりするのが下手だった。力になりたいと思っても、いつも空回り、結局その役目は誰かがやってくれてしまう。どうやら私は他人から喜怒哀楽の薄い、冷たい人間というイメージを持たれるらしい。自分自身、他人からの評価をきちんと自覚出来ていないのが辛いところだ。私だって喜ぶし怒るし悲しむし楽しむ。その点、この人は寡黙な印象から一変して日本の四季のように喜怒哀楽のはっきりした人だ。本当はよく笑う人だし、結構おしゃべりだ。この店は、この人にはあまり似つかわしくないかもしれない。立地の関係から、早朝以外あまり日の差し込まないこの薄暗い店より、駅近のおしゃれなカフェの方がお似合いだ。一度だけ、この店以外には行かないのか、と尋ねたことがある。彼は即答した。「行かないな、この店の雰囲気が気に入ってる」と。少なからずは、その言葉に喜びを感じている自分がいた。だからという訳ではないが、私の全身全霊を持って、彼を慰めてみることにした。


「でも、そうやって一生懸命に探してくれるのは、お相手の方はとても嬉しいと思います」

「…そうかな」

「ええ、その人は幸せ者です」

「…………」

「まぁ、あなたたちが両思いだったら、の話ですけどね。一方的な片思いなら迷惑この上ない。本当にポリス来ちゃいますよ呼んじゃいますよ」

「…日本語ハ、ホントウニムズカシイ」

「そうです、日本語はとても難しいんです」


彼は口を一文字に結んで、都合の悪いことをすべて耳の外へ追い出している。なかなかに強いメンタルを持っているようだ。
再び盗み見た手元のノートにはいくつかの漢字が並んでいて、薔薇の隣には百合、その隣には秋桜、向日葵、桜と花の名前ばかりであった。他にも何か書かれているようだったが彼の腕が邪魔して見えない。他の文字たちがどうしても気になってしまって、彼がトイレに行った隙に覗いてみた。そこには、焔とか、鋼とか、紅霞とか、法則性のない単語がぽつぽつと隣り合っている。何故か、間違っていないのに焔の文字の上にはバッテンが引かれている。鋼と紅霞の文字間隔だけが近くて、これじゃまるで鋼紅霞、という三文字の単語のよう。外人さんは意味も分からず見た目が格好いいという理由で漢字が印字されたTシャツなどを着ているが、彼にとってのお気に入りの文字が鋼と紅霞なんだろうか。紅霞、読み方は"くれないかすみ"でいいのかな。ポケットからスマホを取り出して調べてみた。読み方は"こうか"、意味はくれない色のかすみ、夕焼けなどでくれない色に染まった雲を指すのだそうだ。ああ、そうか、これが…。納得したところでちょうど彼が戻ってきた。
上等そうな万年筆を持ち直し、また何かを書き出そうとする彼に、私はたまらず少しだけ噴き出す。ふふ、と笑みが零れてしまったのだ。まるで、胸元をくすぐられたみたい、こそばゆくて堪らなくて、自分の口元なのに自分では引き締められないなんて可笑しい。この口は私のものなのに、抗えない何者かに勝手に操られて笑ってしまう。こんなの、初めてだ。


「ど、どうした、急に」

「いや、あの、はは、ふふ、」

「?」

「あなたは本当に紅霞が好きなんですね」

「…………」

「ああ、そろそろ夕焼けですよ。今日は雲も多いから、きっと綺麗な紅霞が見れます」


本当に今日はきれいな夕焼けだった。きれいな紅色の雲だった。でも、それ以上に、紅色に染まっていたのは彼の頬だった。


「…なにをそんなに照れてるんですか。え?どういうこと?」

「べ、別に照れてない!少しアツイだけだ!」

「え?え?え?探し人のお名前は紅霞さんって方なんですか?キラキラしてるな〜。あ、もしかして日本じゃなくて中国の方なんじゃないですか?同じアジア圏ですけどかなり距離ありますよ。飛行機代あります?」

「ハッ!?」

「中国は広いからな〜。探すのは至難の業ですよ、困ったなぁ」

「ちがう、日本人であってる、日本であってる!モンダイない、この話はこれでエンド!」

「じゃあなんで今あんなに照れたんですか」

「照れてない!」

「…………」

「照れてない!俺は照れたりしない!」

「それは嘘でしょう」

「ウ、嘘だけど」

「へえ、紅霞さんか」

「まぁ、違うけどな」

「ネットで調べてみよう」

「どうせ出てこないぞ」

「こんなに変わってる名前ならすぐ探せそうなものなのに」

「チャイのおかわりくれ」

「あ、出てきた!たくさん!あ、ペンネームってやつか」

「チャイのおかわり!」

「ん〜、ペンネームばっかりか」

「おかわり!」

「そんなチャイばっかり飲んで…あ、インドの人?紅霞さんはインド人ですか」

「ハイ!?」

「だってチャイばかり飲むから」

「そっちがすすめてきたんだろ!」

「だからってチャイばかり頼むことないのに」

「じゃあコーヒーくれ」

「え!?本当はコーヒーが良かったんだ…!」


その日から、彼の注文は、一杯目だけチャイ、そのあとはずっとコーヒーがお決まりとなった。それほど好きでないと判明したチャイを何故一杯目に頼み続けるのか不思議だと首を捻る私の横で、店長はしたり顔で自信満々そうに言った。


「君が最初におススメしたからだよ」

「また適当なこと言って」

「わかんないかな〜、君って意外と鈍いよね。恋愛経験豊富そうな感じなのに」

「それセクハラですよ、奥さんにチクりますよ」

「やめて!妻には言わないで!」

「はいはい、言いませんから黙りましょう」

「……でも本当にさ、君は恋人作らないの?大学でもアプローチ多いでしょう」

「それほどは」

「へえ?」

「なんか、私って何考えてるのか分からないらしくて。冷たい印象があるんだそうです」

「そうね、それは分かる、冷たいとはちょっと違うけど」

「店長から私はどんな感じに見えてます?」

「そうだね、"心ここにあらず"、って感じかな」


言い得て妙だ、と思った。私の心は、数年前からこの胸の中にはない。それは私自身、よく分かっていることだった。
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