大学に通う傍ら、私は一年前から少々趣味の悪い喫茶店でアルバイトをさせてもらっている。古代ギリシアやヨーロッパの古書がずらりと並び、独特な香りのする紅茶やチャイなどを出す個性派の喫茶店だ。全く繁盛していないが経営は何とか成り立っているらしい。若い店員が欲しいと思っていた店長と、あまり忙しい店での接客に自信がなかった私の希望が一致し、目立ったトラブルもなくアルバイト生活も二年目へ突入した。
そして、とある日、喫茶店に珍しいお客さんが現れた。その人はそれからほぼ毎日この店を訪れ、初回時に私がおすすめしたチャイをいつも頼み、店に置いてある小難しそうな本を読んで時間を過ごしている。まだ若いのに学校とか仕事とか、何かしていないのだろうか。あの人がいると店が一気にお洒落な雰囲気になる、と店長は喜んでいたけれど、私は少し怪しい人だと警戒している。だって、この店より綺麗で美味しいお茶やお菓子を出す店は周辺いくらでもある。ここが静かだから気に入ってくれているのだろうか。思い切って話しかけてみることにする。
「あの、」
「っ」
「あ、すみません、突然」
私の声に大袈裟に揺れる身体。読書に集中していたようだ。ばちっと合った瞳は、以前店長が興奮気味に語っていた通り本当に美しい。
店員に話しかけられるのがそんなに珍しいのか、少しおどおどとした様子でこちらに向き直って、読んでいた本をしおりもせずに閉じて、無理くり作った笑顔で、「な、なに?」と聞き返してきた。
「チャイのおかわりいかがですか。サービスです、いつも来て下さるから」
「あっ、あー、どうも」
「近くにお住まいなんですか」
「おすまい…?」
「あ、住んでいる場所。この店の近くですか」
「ああ、はい、そう」
「そうなんですか。私も近くなんです。ご近所かもしれませんね。あ、これもサービスです、キッシュ。私が焼いたので味の保証は出来ませんが」
「…ありがとう」
「いいえ。店長がいつも、…あ、店長ってあの黒メガネの男の人です。で、あの人が、あなたがここいるとこの店が一気にお洒落になるって喜んでました」
「おしゃれ…、言われたことないけどな」
「お洒落ですよ。ご出身はどちらですか」
「アー…」
「あ、ごめんなさい、立ち入ったことをお聞きして」
外国の人に出身を尋ねるのは失礼だったか。すぐ撤回して立ち去ろうとすると、身を乗り出し気味になって返事をくれた。
「ア、アメリカ!田舎だから、地名は知らないと思う」
「へえ、アメリカかぁ。一度行ってみたくて、留学しようか迷っているんですよ」
「留学?アメリカに?」
「ええ、大学の方でそういう制度があって。一年間ほど」
「一年?!」
「え、ええ」
何故そんなに驚くのか。これまで無言で本を読むだけだった寡黙な青年のイメージからは想像出来ない身振り手振り懸命に留学は如何なものだろうか、と訴えてくる。途中、英語が混じりながら、日本語を繋ぎ合わせて、必死に。何故だろう。
「イヤ、でも治安悪いし、語学を学ぶだけなら日本でも、問題ない、女ひとりはキケンだし、親も心配する、それに日本はとてもいい国だと思う」
「あー、はは、ありがとうございます。日本はいい国ですか?」
「…とっても」
「それは良かったです。日本には観光で?」
返事を貰う前に、カラン、ドアのベルが鳴ってお客さんがやってきた。近所の常連さんのおじさんだ、その人もまたここでのんぶり時間を潰すだけにやってくる。軽く会釈をし、アメリカ人のお客さんの元を離れた。彼はそれから約一時間後に店を出ていった。あの人、何のために日本に来たんだろう、観光もしないで。何の仕事してるんだろう、まだ学生だろうか、どこに住んでるんだろう。何故この店に来て、ただ時間を潰しているんだろう。
疑問はいくつも溢れ出るが、その一つを店長が答えてくれた。店長は誰に対しても臆することなく突っ込んで話を聞くタイプ。よく言えば社交的だが、悪く言えば図々しい。
「なんでもね、人を探しているらしいよ」
「え、人探しですか」
「そうそう!その人を探して日本に来たんだって。結構長旅だったみたいよ」
「このご時世に人探しって。ストーカーだったりして」
「いやぁ良い人だよ。ああ見えて愛想も結構いいし、それにあのルックスだよ?女性には困らないでしょ」
「ん〜。日本人からしたら外人さんなんてみんな同じ顔に見えちゃいますけどね。全員ブラッドピ〇トみたいな」
「そんなんで留学とか大丈夫なの?僕的には辞められると非常に困るんだけどね」
「でもあのお客さんが留学は勧めないって」
「へえ、話しかけたんだ」
「ええ、サービスにキッシュ出して」
「喜んだでしょ、彼」
「どうかな、普通でしたよ」
「僕ね、彼は気があると思うんだよね」
「私に?」
「そうそう、かなり自信ある」
「なにを根拠に…」
「彼が最初に店に来た時さ、僕、店先の花壇に水やってたでしょ。その時、彼は君を見て驚いた顔して店に入った感じしたよ。あれがきっと一目惚れってやつだね〜。それ以来ずっと店に来てるし」
「いやいや、無いでしょ。あの人なにも言ってこないし」
「奥手なんだよきっと」
「外人のくせに?」
「そりゃ偏見だよ。まるで君を見守るみたいにずっと店にいるしさ」
「ストーカーじゃないですか、怖いな」
「でも嫌な感じしないし、僕は応援するー」
「やめて下さいよ、有り得ないから。それにあの人は人探ししてるんでしょ」
「探してる人が女性とは限らないでしょ」
「んー…」
「うん?」
「いや、なんか、探しているのは女性な気がして」
「どうして?」
「なんとなく、ですかね。そんな感じがする」
いつも同じ席で、同じものを飲み、足を組んで難しそうな本を読んでいる姿がふっと浮かんだ。なんか、なんとなく、たぶん、彼が探しているのは女性だと、直感して思った。合理的な説明は出来ない、100%私の感であるが。
翌日も、その翌日も、そのまた翌日も飽きもせず同じ席で同じものを飲んで、難しそうな本を読む彼。どんだけ優雅な生活だよ、と思うが、彼が来る時間と帰る時間はだいたい決まっていて、風の噂に同じ町内のレストランでウェイターをしている外国人がいると聞いたから、おそらくそのレストランで彼は働いていて、合間にここへ来るのだろう。おい、人探しどうした、こんなところで油売っていていいのか、彼女待ってるぞ。どうしてか、意地悪な気持ちが沸き、彼に突っ込んだ質問をしてみた。
初夏の夕暮れ、店にはきれいなオレンジ色の光が差し込んでいる。
「あの、人を探してるんですよね。店長から聞きました」
「えっ」
露骨に動揺している。また、読んでいる本をしおりもせずに閉じ、こちらに向き直る。
「アー、そう、だね」
「探しているのは女性ですか?」
「エッ、その、いや、」
「いやいや、いいんですよ、照れなくても」
「て、照れてないけど」
「いいんですか、こんなところで油を売っていて。探しに行かなくていいんですか」
「油を売る…?」
「あー、こんなところでモタモタしていていいんですか?」
「もたもた…?」
「だ、だから、…いや、いいです、すみません。でもどうして人探しを?今のご時世、ネットでどうとでもなるでしょう?わざわざ日本に来なくても、色んな情報から辿っていけば」
「いや、日本人で日本にいるってことしか知らなかったから」
「え!そんな浅い仲な人を長旅で探してるんですか?」
「あ、あんまり自分のことを話さなかったんだ。事情があったんだと思う。だから地道に探してて、その、」
「へえ〜、すごいな。母を〇ねて三千里みたい」
「母を…ずねて三千里?」
「日本のアニメーションですよ。離れ離れになったお母さんを探して9歳の男の子が旅をするんですよ。三千里は、えっと12000キロくらい」
「へえ…、そいつは母親に会えたのか?」
「ええ。お母さんは病気だったんですけど、子供に会えて元気になって一緒に故郷へ戻ったんです」
「そうか、よかった」
「ああ、ちょうど距離的にはピッタリじゃないですか」
「なにが?」
「三千里は、日本とアメリカくらいの距離。あなたたちもきっと会えますよ」
「…………」
「あ、その人に会えたらどうするんですか?」
再会するだけでいいのか、それともずっと一緒にいたいと思っているのか。チャイのおかわりを注ぎながら彼の返答を待つ。ずいぶんとしんみりした横顔だ。その金色の髪が、夕日を浴びてオレンジ色に輝いている。なるほど確かに、彼はとても美しいひとだな。輝くひと、と言ってもいい。暗闇でも光りそうだな、なんて考えている中、返事が来た。語り口が穏やかながら苦しそうで、切なそうで、軽々しく話を振ってしまったことを後悔。探し人は、確実に女性だな、好きな人か恋人だ。店長の予想はハズレだ、こんな顔して話す女性がいるのに私に一目惚れなんて、そりゃ無い。
「…最初は、いろいろ言いたいこともあったし、いずれは一緒にアメリ…リカに戻りたいとか、思ってたけど」
「けど?」
「けど、時間が経つに連れて、そんなことはどうでもいいと思うようになった、叶えたいことが一つ一つ減ってった。もう、今は、最低限のことでいい」
「最低限、」
「一目逢えればいい」
「…………」
「一目逢って、ずっと言いたかった。元気そうでよかった、って」
髪だけでなく、瞳も美しい金色だ。探し人はやっぱり女性だ、そして、両思いだったんだろう。
そんな話をして、彼は会計を済ませて店を出ていく。その背はいつもと変りないのに、どうしてか、このまま二度と彼がこの店には現れないような気がして、胸騒ぎのような、不安感のような、焦燥感のような、追い立てられる気持ちに襲われ始める。なんだろ、これは、苦しいのか、悲しいのか、どうしたらいいのか。生まれてから一度もこんな気持ちになったことはない。ついには頭と体がバラバラになり、意図せず店を飛び出していた。私は走って彼を追う、追う。そうしてすぐに彼を見つけることが出来たが、あいにくと彼は反対側の道を歩いている、信号機は赤だ。待っていられず、大声で彼の名を呼ぶ。
「あの、エドワードさん!」
あ、振り向いた、すぐ振り向いてくれた。手を振って、制止を訴えると、向こうからもこちらへ歩み寄ってくれる。二人の間の距離、ちょうど中間点くらいで落ち合うと、どうしたのかと不思議そうな顔をしている。
「ど、どうした?」
「いや、あの、私も、お手伝いしようと思って」
「手伝い?」
「あなたの人探し。私も協力しますから」
「…………」
「だから、これからも店に来てくださいよ」
私らしくないな、こんなに人と関わろうとするのは。
彼は一瞬きょとんとして、次には眉を下げて困ったように微笑み、大きいため息を吐いている。腰に手を当て、いやはやどうしたものか、と言いたげ。なんだその反応、人がせっかく協力するっつってんのに。異国の地で頼る人もいないだろうと親切心で言ってるんだぞこっちは。おまけにぶつぶつ独り言まで言う。やっぱりこの人ヤバイ人なのか。
「アー、こんなに優しかったかな…」
「はい?何か言いました?」
「いや、」
「?」
「ありがとう、」
「…………」
「ここにいる、どこにも行かない」
まだ日本語が不慣れなのだろう、返事の内容が少しおかしい。いや、それより、なんでそんな嬉しそうに笑うのかな。白い歯を見せて、顔全体で笑ってる。あなたはそんな顔して笑う人なのか、いつもどこか悲しそうだから分からなかった。いつもの難しい顔より、笑顔の方がよほどイケメンだ。
白い雲もオレンジに染め上げてしまう強い夕日が眩しくて眩しくて、思わず目を細めてしまう私とは対照的に、まるで夕日に挑むかのように堂々としている彼は、夕日について聞きなれない話を一つした。雲が紅色に染まる、あれを紅霞と言うんだ、と。へえ、そんなこと、初めて知った。