スマホの写真フォルダにすら数枚しか記録が無い私だが、ある日思い立ってポラロイドカメラを買った。私の性格上、デジタルカメラでは現像するまで至らないと判断して、その場ですぐに印刷できるポラロイドカメラを選択した。一番最初に写したものは、紅色に染まった雲と空だった。
平日の午後4時。季節はもうすぐ5月を迎えようとしていた。


「わ、悪い。また遅れた」


焦ったような、苦しい表情でエドワードが小走りでこちらに駆け寄ってくる姿がありありと想像出来る。午後の一時に昼ご飯を一緒にしようと約束していたが、すっぽかされて約三時間。私は彼を呼びに行くことも帰ってしまうこともせず、健気に公園の風景を見ながら待ち続けていた。
エドワードの足音がすぐそばまで近づいても、私は公園を眺めたまま、サンドイッチだけを腹ペコであろう天才に差し出してやった。彼からしてみれば、三時間も待たせたのだから怒っているに違いないと思い込んでいて(そりゃそうだ)、私の顔を回り込むように覗き込んでは拝むように両手を合わせてしきりに謝るのだ。しかし、私は怒ってなどいなかった。その情けない様子に堪えていた笑みがついこぼれてしまい、エドワードは安堵のため息を吐き出しながら私の隣に腰掛けた。


「なんだよ、怒ってんのかと思った」

「普通怒るよね、三時間ですよ」

「ご、ごめん」

「一度見に行ったの。そしたら周りも引くくらい真剣に本を読んでいたからそっとしといた」

「声掛けてくれてよかったんだぞ」

「ううん。ご飯食べるのを忘れるくらい本に夢中な人って本当にいるんだなぁって関心してるから、これからもそのままにしとくわ。腹が減ったら戻っておいて」

「……おう」

「さ、食べよう」

「え、お前、食べてないのか?」

「私は二回戦」

「…なるほど」


私は既にサンドイッチを七つほど食べ終えたあとである。バスケットの中には、エドワードの分の三つのサンドイッチと保温瓶に入れたスープ、あと私の二回戦用の特大おにぎりが三つある。彼が本に夢中で昼飯時に間に合わないなど、これで何度目だと思っているのか。さすがに二回戦用の準備くらいはする。
おにぎりを頬張りながら、次の予定を相談し合った。次の予定、というのは、彼の夢である”山登り”の約束のこと。


「ああ…、でも、身体に悪いんじゃないのか?」

「大丈夫だよ、軽い登山だし」


それは小さな嘘だった。確かに、水泳やマラソンなど身体に極端に負担をかけるスポーツは避けるよう松坂先生からも忠告を受けていた。もちろん、登山も例外ではない。けれど言葉の揚げ足を取れば、”避ける”のが良いとされているだけであり、必ずしてはいけないとは言われていない。


「それに、登山はエドの夢でしょう?」

「夢ってほどじゃ」

「泣いて五月は山登りって言ってたじゃない」

「それは忘れろっ、あれはもう忘れてくれ」

「へえ〜、重大なセクハラをしてくれちゃったことも忘れていいんですか〜?」

「そ、それは覚えててください…」

「はいはい。あ、これ、さっき撮ったの。あげる」

「ん?写真か?」


先ほど撮ったポラロイドカメラの一枚目。夕暮れにはまだ早い時間であるのに、淡い空色に浮かぶ雲にはうっすら緋の色が乗っていて、我ながら憂いのあるいい風景を切り取れたと思っている。
私は知っている。エドワードが空が好きなこと。特にこうした夕暮れ時の空が好きなこと。紅色に染まる雲のことを、『紅霞』だなんて日本人でも知らないことを知っているのだから相当だ。それとも、例の探し人にでも教わったのだろうか。
写真を受け取った彼は純粋に喜んでいるというよりはどこか切なげで、心はここにない、ここではない誰かに向けられているのだと察する。あえてそこには触れず、登山の約束の日だけを話題にした。服装と帽子はそれらしいものを既に持っているからいいとして、靴だけは登山用のものを用意しようという話になった。あとは天候を確認し、日時を決める。最初は学くんも参加予定だったが、気を使ったのか不参加に落ち着いてしまった。別に一緒でもいいのに、一緒の方が楽しいのに。何度言っても彼は「僕は行かない、勉強しないと!」とすっとぼけた面して自分の部屋へ引っ込んでしまうのだ。だから代わりに写真をいっぱい取ってきてあげようと思う。せっかく購入したこのポラロイドカメラで。


「このご時世にポラロイドカメラとはな…今はスマホでもデジタルカメラでもいくらでもあるだろ。デジカメなんて素晴らしい撮影機だぞ。バラしてみて改めて思った」

「エドは機械オタクですよね、意外と」

「好奇心旺盛と言ってくれ。パソコンもテレビも携帯電話も飛行機も何もかも俺じゃ真似できない代物ばかりだ。さすがに飛行機はバラして中を見るってわけにはいかないだろうけど乗ってはみたいな」

「海外は無理でも国内なら行けるかなぁ…。あ、そういえば、友達の旦那さんが自家用の飛行機持ってるって聞いたことある。乗せてもらえるかも」

「お、おいおい、そいつは石油王か何かか。どんだけ金持ちなんだよ。あれ一機で数億はするだろ?」

「でしょうね」

「かーっ、やっぱし世の中金だよな。金がなきゃ何も出来ねぇ」

「あら、意外。愛に生きる男かと思っていたのに」

「あ、愛に生きるために金が必要なんだろ。レストランのバイトだけじゃ、柄沢家に入れる家賃と日用品買うので精一杯だ」

「じゃあ数式を解いてお金を貰ったら?」

「エ?」

「難解で誰も解き明かしたことのない数式を解くと高額なお金が貰えるって聞いたことがある。あ、でも、身元が明かせないんじゃ駄目だろうなぁ」

「グッ…個人情報管理社会め…!俺の居場所がどんどん奪われていく」

「エドはとある星の王子だもんねぇ。その世界にはパソコンもスマホも携帯電話も飛行機もないんだもんね」

「……………」

「さ、靴、買いに行こう。リーズナブルなやつね」


広げた食品や保温瓶をバスケットに仕舞い、帰り支度を始める。と、すぐ近くを若い男女のカップルが通り過ぎた。女の子は膝までのある淡い桃色のワンピースを着ていて、柔らかい雰囲気の彼女に似合いの装いだった。低めのパンプスも全体のコーディネートとしてとても合っている。対して、私はモスグリーンのニットにジーンズ、薄汚れたスニーカーという女子力ゼロの格好。なんだか急に恥ずかしくなって、無意味ながらニットの裾をぎゅうぎゅう引っ張ってみる。


「なんだ、トイレ行きたいのか?」


何を勘違いしたのか、その様子に私がトイレに行きたいのを我慢しているのだと思われてしまった。違う!あんたに似合わない不細工な格好をしてきたことを後悔しているの!


「ちっ違う!」

「ヤ、だって、」

「もういい!今日は帰る!もう靴買うのは今度ね!」

「ええ?なんでだよ、おい、どうしたんだよ」

「なんでもありません!」

「なんでもあるだろ!」


逃げ惑う二人だった。公園の芝生の上を、じゃれ合うように追いかけっこをして、いつの間にか二人とも笑い合ってた。互いに捕まらないよう、捕まえないよう、微妙な距離感を取って追いかけっこを楽しんだ。最終的には後ろから抱き着かれる形で捕まって、共に青々とした緑の上に寝転ぶ。どこからどう見ても、私達はカップルで、恋人同士で、バカップルでしかないのに、私達はどうしたって”名もなき二人”にしかなれない。
抱きしめられても抵抗はしなかった。エドワードの抱きしめる力が強まっても、なされるがまま、だからと言って、後ろから回された手に手を添えることもせず、ただ彼のしたいようにされてやった。私の目下の目標、小さな道しるべ、するべきことやしたいことはただ一つ。この男の夢を全て叶えてやることだった。私を抱きしめることが、エドワードのしたいことであるならば、私は何の異議なく受け入れる。そうして欲しいと、私の心臓も強い鼓動で返事をする。

小さな山を登り切り、頂上までたどり着いたとき、ある一つの案が降ってきた。いつもより天近くまで来たからなのか、名案が神から授けられたようである。


「そうだ、」

「ン?」

「スカーレットって呼ぼう」

「…お前のことを?」

「違うよ。あなたの探し人のことを」

「…………」


『私』や、”もう一人の私”なんて表現しにく過ぎる。ドッペルゲンガーや”パラレルワールドの自分”でも情緒が無さすぎる。だから、彼女は今日からスカーレット。私がこう定めても、エドワードが了承しなくてはこの名は決定しない。だから尋ねた、そう呼んでもいいか、と。誰よりもあなたの許可が必要だから。
エドワードは熟考して、ゆっくりと頷いてくれた。


「スカーレット、確かに、あいつはそんな感じだな」

「…そう」

「いい名前をありがとう」


周りの人が聞けばおかしな話だと思うだろう。私にはもう一人の『私』がいて、でもその『私』はもうどこにもいなくて、今ここにいる私しか存在していなくて。エドワードは『私』を探して遠くからやって来たのに、この私で満足しようとしていて、私は『私』をスカーレットと呼ぶ覚悟をしている。エドワードからの詳しい説明を聞かずとも、全てを受け入れる覚悟をしている。
彼はいい名前をありがとうと言ってくれた。私は初めてスカーレットに嫉妬をした。彼がどれほど深く、そして強くスカーレットを愛しているかを改めて知ったからだ。辛くなった、悲しくなった、苦しくなった、痛かった。それ以上にスカーレットが羨ましかった。私では、この男にそんな切なげな表情はさせられないだろうから。
小さな山の頂上からではそれほど素晴らしい景色は見られないだろうと思っていたけれど、街並みを照らす夕日は想像以上に美しく、家やビルを包んでまるで宝石のように輝かせる。夕暮れ、夕日にはそんな力がある。真っ白な雲を紅色に染めて、紅霞にする力もある。
カシャリ。思わず一枚シャッターを押す。私は夕暮れを撮るが日課になっていた。たまに写すのは身近な人々くらい。


「スカーレットも夕日が好きだった?」


その程度の質問をする権利はあると思った。


「アア」

「そうか。スカーレットが紅霞なのね」

「…………」


まじまじと私を見る。まるで初めての生き物を見るかのような瞳で。


「な、なに?」


たじろいで訪ね返すのも無理はないほどの眼力だった。ポラロイドカメラを鞄にしまい込んで、身構えて答えを待っていると、意外な第一声が返ってきた。


「お前はすごいな」

「え?」

「超能力が使えるのか?」

「はは、なにそれ」

「だって、何も言っていないのに、何もかも分かっているから」

「あなたを見ていれば自然と分かるわよ。それに人間には足りない部分を補完する力があるから、それをフルに働かせているだけです」

「…そういうもんか?」

「そういうものです。想像力、とも言うのかな。それにあなたは分かりやすいから」

「そ、そうか?それは困るな、何もかも分かられたら溜まったもんじゃないぞ」

「そうね、セクハラ出来ないもんね」

「それは今いいだろ!つか、あれはセクハラじゃないからな!」

「自発的な合意のない接触はセクハラですよ」

「じゃ、じゃあ合意を…」

「…意外とエッチだね、エドって」

「はぁ!?俺のどこが!?この硬派でヘタレで肝心な時に何もできないチキン野郎と言われるこの俺のどこが!?」

「はは、そんな風に言われてたんだ。ウケる」

「ウケない!」

「はは、そうやって少しずつ色んなことを話して。私、聴きたいから」


そうやって、色んな話を私にして頂戴ね。そして、私とスカーレットが別人であることを認識していって。同一視されることに嫌悪感があるわけじゃない、スカーレットと自分を比べて自らを卑下しているのでもない。私はただエドワードが可哀想だと思うからこそ、別人として認識して欲しかったのだ。おそらく、スカーレットは私と同じ顔形をしていても、どこか艶があって美しく、その心は麗しく澄んでいて、まるで夕日のように人々を惹き付ける力を持つ女性なのだろう。そんな女性を愛し求めて遥々来たあなたの目の前にいるのがこの私では、あまりにもあなたが可哀想。私は比べられようが、スカーレットとの間にどれほどの差があろうとどうでもいいけれど、あなたが肩を落とす姿を見るのは忍びないのだ。
そんな私の思いを知ってか知らずか、エドワードが昔の話をすることはやはり少なかった。もしかしたら彼の中ではもう既にしっかりと私とスカーレットの区別は付いていて、同一視などするつもりはさらさらないのかもしれない。きちんと私だけを見つめてくれているのかもれない。

鬱陶しい梅雨を超えて、暑い夏が来る。エドワードと出会い、二度目の夏だった。この夏は、柄沢のお爺さんの親戚のお家へ遊びに行く計画に同行させてもらうこととなった。お爺さんの父方の実家らしく、学くんは毎夏こうして田舎を楽しんでいるのだと言う。縁側のある古い民家で流しそうめんをしたり、スカイ割りをしたり、川に遊びに行ったりと夏遊びを満喫した。謎の大学生と外人が共にやってきても戸惑わない辺りがさすが柄沢家と言ったところだろうか。
しかし、楽しく夏のある日を楽しんでいる最中、突如事件は起こった。学くんと共に遊んでいた従兄弟の男の子の大声が響く。「学が沢に落ちた!」と。その声が聞こえた途端、飛び出ていったのはエドワードだった。靴も履かず、声のする方へ転がり落ちんばかりの勢いで下っていく。その時点で私は最早追い付くことが出来ず、学くんを直接救出するよりもまずこの事態を家の人間と救急に伝える選択をした。救急への通報を家の人に任せ、私が沢へ降りたときには既にエドワードの姿はなく、従兄弟の男の子が泣きじゃくっていた。どうしたの、学くんはどの辺りに?エドワードは?尋ねても男の子は首を横に振って泣くばかりで話にならない。でも動揺し切っているのは私も同じで、何をしたらいいか分からず、ただ囂々と流れる川を覗き込むことしか出来ないでいる。その男の子の涙が移ったのか、次第にこの瞳も涙でにじみ、視界まで不確かになる。まるで真っ暗闇の中にいるみたいに、ここがどこなのかすら分からず、不安に胸を支配される。その時だ、暗闇にキラリ光る星を見つけたのは。その星はどんどんと眩いものへと変化していき、次第に目を開けているのも苦労するほどに光り輝く。


「学!よかったぁ!」


親戚の男の子の声でやっと暗闇から解放された。気づくと、学くんの姿が岸壁にある。しかし、その光景はなんとも異様だった。なんと、学くんは上着の襟をエドワードにがぶりと噛まれた状態でなんとか海上に顔を出しており、当のエドワードは左腕一本で岸壁にへばり付いている状態だった。エドワードの右腕は見つからない。直感して理解した。学くんを救うため、彼は自らの重たい腕(おそらく左足)を川の中で外したのだろう。腕一本、足一本の彼が他人を救うには、口と顎の力を使う他なく、必死の形相で学くんの襟に噛みついている。その光景に慄く親戚の少年を放り、私はまず学くんの身体を岸へと引っ張り上げた。意識の辛うじて残る学くんは泣きながら陸へと這い出て、うわ言のようにエドワードの名前を呼ぶ。


「エドが、エドがっ」

「分かってる、大丈夫だよ」


しゃくりあげる少年の背を優しく摩りながら、今度は片腕で水圧に耐え続ける英雄へと手を伸ばす。私の右手と彼の左手がしっかりと結ばれ、今回の騒動はとりあえず一件落着となった。
陸上に上がったエドワードの姿を見て、親戚の少年は慌てふためいて小さな悲鳴を上げた。私も手足が欠損している状態の人間をこの目で見るのは初めてだったから、小さい彼の気持ちを理解出来なくもない。しかし、悲鳴を上げられて思わず苦笑いをしてその場をやり過ごそうとするエドワードを見ていられず、彼をどこかに隠したくて、失礼なのだけれど匿って誰にも見せたくなくて、腕一本足一本なくなった分だけ小さくなった彼の身体を抱きしめて覆いかぶさった。触れた肌は冷たくて、そこでやっと涙がこぼれ出た。
ちょうどタイミングよく、親戚の方と救急が到着したため急いでエドワードを家への中へと連れ入った。ぐずぐず泣きながらタオルでエドワードの顔や身体を拭きまくっていると、何故まだ泣いているのか問われた。


「わ、わからない」

「学ももう大丈夫だ。水はいくらか飲んでたみたいだけど病院で適切な処置を受けるだろうし、驚かれたのだって平気だぞ?」

「でも、」

「てか、驚くなって方が無理だろう。気持ち悪いだろうし」

「気持ち悪くない!!」

「ハイ!ゴメンナサイ!」

「なんで謝るの!?」

「イヤ、だって、なんか怒ってるから…」


ぐしゃぐしゃなのはエドワードの髪だけでなく、私の顔も同じ。涙や鼻水で見るも無残な仕上がりだった。なんでこんなにも苦しくて悲しいのか、自分でも分からない。


「あ、足と腕はあとで自分で潜って探すよ。ちょうど雨続きで水量が上がってるから流れが速いだけらしい。だから心配すんなよ、な?」

「っ」

「アー、そ、そうだ、飴でも食うか?ほら、ドライブインで買ったデカい飴やるぞ」

「そんなもんいるか!」

「じゃ、じゃあ泣くなよ…もう何も怖い事なんてないぞ」

「……………」


怖いから泣いているのか、驚いて泣いているのか、分からない。スカーレットならこういうと時どういう反応をしたのだろう。どう言って何をして困る彼を救ったのだろう。それでえも、私はスカーレットではなく、私でしかないから。
再び、エドワードに首根っこに抱き着いて、わんわん泣くことしか出来ない。戸惑いが筋肉の動きで伝わってくる。ぽんぽんと優しい手つきで私の背中を叩いて、もう大丈夫だと伝えたいエドワード。でも、私は大丈夫じゃなかった、ちっとも頭の中も心も平気にならない。頭がぐちゃぐちゃで、心臓はばくばくで、初めて脳と心臓が同じ挙動を見せていた。
死んじゃったらどうしようと思ったよ。学くんも、エドワードも。腕が無かったとき、あの少年と同じように吃驚して声が出そうになったよ、情けなくて悔しいよ。私は普通の人間だから、あなたのように普通を生きてこなかっただろう猛者の相手なんて務まらないんだよ。そばにいて、これからも一緒に遊んだりしたいけれど、こんなことで躓く私にそんな資格持ち合わせているんだろうか。ねえ、スカーレット、あなたはどうだった?普通の日常を生きていたあなたは自分では到底受け止められないような出来事に出くわしたとき、どう対処していたの?その度にあなたはこんな風に泣いていた?

いつまでも抱き着いたまま泣き止まない私をあやすように、エドワードは言った。


「今夜、花火しような。線香花火?俺、あれがやってみたいんだ」


太い首に抱き着いたまま、こくこくと何度も頷いた。別に線香花火なんてどうでも良かった。しかしあいにくとその夜は雨が降った。昼間の暑い日差しが嘘のようなしとしとと降る梅雨の忘れ雨のようだった。だからしょうがなく、縁側で線香花火をした。片腕のエドワードに私が火を灯してやると、始めはちりちりと小さな火花が、次第に大きな火花が散り始めた。エドワードは感心したように、「錬成反応みたいだ」とつい母国語で口を滑らせた。私はそれを聞き逃さなかった、聞こえなかった振りをしたけれど。


「きれいだな」

「そうだね」


そこで瞳と瞳が合わさって、ああ、またキスされるなと直感した。現にエドワードの顔はこちらに近づいてくる。けれど今度はあの時のように素直に受け止めることが出来なかった。脳も心臓もどっちも好き勝手に動き、抵抗するが如くうつむいてしまう。頭がぐらぐらする、頬が熱い、心臓がどきどきする。…逃げたい、でも、捕まえていても欲しい。
そんな好き勝手なわがまま放題なことばかり考える私の右頬を、目頭辺りから口元までを左手の親指の腹で優しく撫でると、あの時とは違い、唇ではなく額にキスをくれた。ちゅ。柔らかい唇だった。どういう訳か、また涙が出た。


「また泣くのかよ。そんな嫌だった?」

「ちがう」

「じゃあなんで」

「分からない」

「…俺はお前に笑っててほしい」

「ちがうよ」

「?」

「これは、うれし涙だよ」


あなたが無事だったこと、あなたとこうして過ごせていることが、嬉しくて溜まらないのだ。私の身体の一部、この場合は”心臓”だろうか、”脳”だろうか。それらが自覚をし始めた。私はこの男が好きで、大好きで大好きでどうしようもないのだと。それが涙となって身体の変化として表れ始めている。
なんてこと、どうしよう、自覚してしまった。
これは恋だろう、そしていずれ愛になるだろう。
スカーレット、別の『私』を愛する男を、私は好きになってしまったのだ。
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