恒例になりつつ山登りも三回目が終了した頃、心臓が不規則に律動した。一抹の不安を消し去るために検査を受けた。結果は芳しくなかった。「心臓の動きが弱まっている」と松坂先生は深刻げな顔をした。


「先生、このこと、誰にも言わないで下さいね」

「でも、」

「守秘義務、ですよ」


人差し指を口元に当てて、口止めをする。彼のことだから本当に誰にも言わないでおいてくれるだろう。しかし困った、また山に登る約束しているのになぁ。
松坂先生はカルテに何やら書き込みをしながら、やや強い口調で私に忠告した。


「三年前の退院の時にも検診の度に言っているけれど、君の心臓が動いているのは奇跡的なことなんだよ。分かっているよね?くれぐれも無茶はしないように」

「はい」

「それに、…君ははっきり聞きたがる子だから言うけれど、平均的な寿命を望むのは、難しいかもしれない」

「110歳まで生きるのは難しいですか」

「それはだいたいの日本人が難しいだろうね」

「そうですね」

「冗談はさて置き…、僕は心配だよ。君にもしものことがあったら、エド君がどうなってしまうか」

「エドが?」


ここでエドワードが話題に出てくるのが意外であった。


「君にもしものことがあれば、彼は昔の先輩みたいになるんじゃないかって。話はエド君から聞いたんだろう?先輩の奥さんが亡くなってるって話」

「ええ」

「あの時は本当に見ていられなかった。変な宗教に入信したり、錬金術っていうものに人体錬成という禁術があるから試してみたいって言い出したり」

「人体錬成、」

「大人一人を構成する成分を全て買い集め出したりしてね、とても一人にしてはおけなかった」

「…先生が店長を支えてくれたんですね」

「僕だけじゃないよ。ご家族とかね、あとは奥さんの手紙が出てきたりして、少しずつ少しずつ目が覚めていった感じかな」


あの楽天家で呑気な店長にそんな一面があるとは、話を聞いた今も想像出来ない。あの底抜けの明るさは、愛する人を失い、その悲しみを乗り越えたからこそ得たものなのだろう。
松坂先生は心配だと言う。店長とエドワードが似ている気がする、と。愛する人を失った時、彼はどうにかなってしまうのではないかと憂いてくれている。


「愛するって…私、エドワードに愛されてます?」

「愛されてるでしょ、どう見ても」

「あはは、そうですか」

「だから心配してるんだよ。体調管理はしっかりね、自分のためだけでなく、エド君のためにも」

「大丈夫ですよ」

「うん、信じてるけどね」

「体調管理だけじゃなくて。エドは、私に何かあっても大丈夫ですよ、もう」


もし、私が死んでしまっても、私が歩むはずだった未来と共に生きる強さのある人だ。それが分かっているからか、自身の体調悪化を聞かされても胸は穏やかな鼓動を刻んでいる。もちろん、私だって死にたくはないから健康には気を付けるつもりでいる。次の軽い散策を最後に、外出は控えよう。

バイト先の厨房をお借りして始めたお菓子作り。上手に出来た日には学くんやエドワード食べて感想を貰うのが恒例となってきた。プリンやカップケーキ、チョコケーキにクッキー、フィナンシェ。もともとお菓子作りは不得手な分野だが、喜んで食べてくれる人がいると思うと作る意欲が湧くというもの。今日はキャロットケーキに挑戦だ。

学くんがおもむろにある事実を言い放った。


「エドはアップルパイが好きだよね」

「え、そうか?」

「そうだよ。ケーキ屋さん行くとアップルパイを買うじゃないか。僕、アップルパイなんて頼む人初めて見たから驚いたよ」

「アップルパイの何が驚きなんだよ。そもそも、売ってるってことは買う奴がいるから売ってんだぞ?」

「そういうことじゃなくて、みんなの購入比率の問題を言ってるんだよね、学くんは」


オーブンレンジから円形のキャロットケーキを取り出しながら、少年の代弁をしてやる。言っても、エドワードは不納得な顔をする。


「アップルパイがメインになるイメージじゃないんだよ、ケーキ屋さんでは」

「確かに日本のケーキは多種多様で凄いよな。種類があり過ぎて悩む結果、アップルパイになるぞ、俺は」

「色々食べてみたらいいのよ」

「どれを頼んで良いか分からん」

「お姉さんは沢山食べるから少しずつ貰えばいいんだよ、ね」

「うふふ、そうね、今度からそうしたげる」


今の私は子猫や赤ん坊を愛でるような優しくて柔らかい気持ちが胸いっぱいに広がっている。これも全て、恋を自覚し、愛を知ろうとしているからこそ。
にっこり笑顔の私に、エドワードは視線を外して少々照れながらお礼を述べた。「お、おう、サンキュー」だってさ。
その可愛らしい照れ方を見ていると、ついついからかいたくなってきて、学くんを巻き込んで彼の急所を突いてやった。


「それに、エドはウィンリィさんがよくアップルパイを作ってくれていたから舌に馴染んでいるのよ」

「え?そうなの?」

「な、なんで知ってんだよ、そんなこと」

「写真を見せてくれたじゃない。その中に三枚も、兄弟とウィンリィさんがアップルパイを食べてる写真があった。彼女が切り分けている写真もあったから当然作ったのは、彼女」


私の突然のお菓子作りは、単純にウィンリィさんの影響である。対抗心ではないと思いたい。ただ、彼の好みには近づきたい。幼い頃の環境や習慣は心落ち着かせ、惹かれるものだろうから。
私の完璧な推理に白旗を上げたエドワード。こくんと頷いて、彼女の得意料理だと教えてくれた。アップルパイ作りが得意なブルースカイの瞳とレモンイエローの髪を持つ美女かぁ、私なら珍しくもない黒髪黒目の取り立てて美しくもない女よりそっちを選ぶけどね。
学くんがトイレに立った瞬間を狙ったのか、エドワードはここぞとばかりに今度は私の弱い部分を突く。


「…なんか怒ってる?」

「まさか。どうして?」

「…ヤキモチだ」

「ちがいます」

「ふーん」

「あんな美人を弟さんに取られて可哀想だなぁと思うだけ」

「ああ見えてあいつは機械オタクで暴力的だからアルも大変だと思うぜ。お前が想像してる感じの女じゃないから」

「ふーん」

「ウン」

「でも、あなたの腕を作ったりサポートしてくれたりしたんでしょう」

「それはそうだけど…。ウン、それは感謝してるよ」

「私はしてないけど、スカーレットはヤキモチ焼いていたかもね」

「……や、やっぱりそうかな」

「そうよ。あなた鈍感そうだから、きっと何度も心傷めていたでしょうね、可哀想に」

「ウッ」

「それでもあなたの大切な幼馴染だから自分も好きになりたいって努力したりしたんじゃないかしら。わざとエドとウィンリィさんを二人きりにさせたり、くっ付かせようなんてしたりして」

「そう、そう!よく分かるなぁ、お前、さすがだよ」


全く可笑しい会話だった。まるでスカーレットがまだ存在していて、たまたまこの席に不在なだけの様で、私がスカーレットとエドワードをくっ付けようとしているみたい。

もし、私がスカーレットであるなら、私以上に彼女の気持ちが分かる女はいない。私も想いはそのまま彼女の想いになる。それでもきっと彼女の熱い熱量には敵わない。この男のスカーレットへの熱量が、私への恋心よりずっと強いのと同じように。私とスカーレットの分離が少しずつ現実になってきたこの頃、私達はこうやってスカーレットを間に挟んで会話を重ねるようになっていた。そう、私はウィンリィさんとスカーレット、二人の女性に嫉妬せねばならなくなったのである。


「だから、意地でもアップルパイは作らないから」

「ええ?俺アップルパイ好きなのに」

「故郷に帰ったらウィンリィさんに作ってもらいなさいよ。家族であることは変わらないでしょ」

「…ウン、そうだな」

「……………」


その反応はなんだろう。遠く距離があり過ぎてなかなか帰ることが出来ないから?それとも、帰る方法を知らない?やって来れたのだから帰ることも可能でしょうに。それとも、他に理由があるのか。
ちょうど学くんが戻ってきたので、キャロットケーキを切り分け、その傍らにホイップクリームとミントの葉を載せて出してやった。見た目はかなり上出来、味は不明だが。だが、二人は美味しい美味しいと言ってぺろりと全て平らげてくれた。

互いが休みの午後、大型デパートへ映画を見に行った。こてこての恋愛映画だった。想い合いながらもすれ違い、あらゆる障壁を乗り越えながら最後は両想いとなり結ばれる物語だった。いや、途中まではそうだと思っていた。作中の男女は確かに心からお互いを愛し求めていたけれど、周囲の環境やヒロインの感情の変化により二人の甘い時間は崩れ去り、最終的には別々の道を歩むという結末に落ち着いてしまった。私はハッピーエンドで終わるものとばかり思っていたので、映画上映終了後、着席したまま呆然と物語の余韻に浸っていた。まさか、最後は別れるだなんて思ってなかった。せっかくエドワードの夢を叶えようと恋愛映画を見に来たのに、これではまるで意味がない。しかし、そう思っていたのは私だけだったようで、エドワードは映画鑑賞後の小休止に「いい映画だったな」と呟いた。同じものを見ても、異なる感想を持つ。そんなシンプルなことに私は驚いた。


「そうかな?最後は離れ離れだったよ」

「大丈夫、きっとまた出会って結ばれる」

「彼は彼女をちゃんと迎えに行ってあげると思う?」


かなり癖のある男性だったから、一般的なヒーロー像は当てはまらない。あのまま離れ離れ、別々の人生を歩む物語があるかもしれない。それでも、エドワードは自信あり気に宣言するのだ。「彼等は結ばれるさ、障壁や困難を超えて、きっと」…これは、経験者は語る、というやつだろうか。口に添えていた紅茶のカップを軽く噛む。胸にあるのはスカーレットへの嫉妬心と、申し訳なさ。彼女のいたい場所に、私は今いる。私の家で使うための揃いの箸と箸置きを買ったり、エドワードに似合いそうな袖長めのTシャツを選んだり、本日の夕食をデパ地下で見繕ったり、これら全てはきっと彼女がしたかったこと。いいや、そうじゃない、彼女・スカーレットとエドワードがしたかったこと。嫉妬もする、申し訳ない気分にもなる。それでも、この気持ちを総べて受け止めてみせよう。

春には花見して、5月には山登りして、梅雨は家で映画見て、夏は花火と祭り。9月にはぶどう狩りして秋には紅葉見に行って、冬は嫌いだから家にこもってひたすら読書。彼の願いは実に単純だった。分かり易く言葉にしてくれる分、叶えやすい。何をしてあげたらいいのか、すぐ表情に出るから悩まずに済んだ。彼が夢中になっているときは努めて放っておいてあげた。心ゆくまでその好奇心や探求心を満たしてあげたかった。私を待たしていることなど気にしないで、今を楽しんで欲しかった。いつだって私はその時、真剣な顔をして集中してそれらを見つめるエドワードを眺めるのを楽しく思ったものだ。
花火大会の帰りの人混みの鬱陶しささえ、この人といる時ばかりは嫌ではなかった。きっと、これが恋だった。好ましくない時間でさえも愛おしい瞬間に変えてしまう、それが恋の力だ。私はその恐るべき力をこの歳になるまで知らなかった。人混みにまみれ、離れ離れになりそうになった一瞬すらも心細く、そして、決して離すまいと握られた手の力強さにここまで心臓が揺さぶられるなんて。たとえその手に人の温もりを感じられずとも、私達の関係の問題にはならない。
離れたくないな、一緒にいたいな。でもな、あなたが本当に一緒にいたいのは私じゃないんだよな。でも、でも、顔形は同じ、性格も大抵は同じなら、私で我慢してもらおう。私もこの切なさや苦しさを耐えて生きていくから、エドワードもスカーレットへの恋しさを押えていてね。人生は、全てを手に入れられるように出来てはいないのだから。


「ゴホン、ごほっ」

「大丈夫か?」

「あ、うん。人混みに少し酔っただけだから」


人混みをようやく抜けて、もうすぐ家路に着くという頃だった。咳がひとつふたつ喉から飛び出た。花火大会の時もそうだったが、火薬の匂いが良くなかったのかもしれない。今も近所の公園で子供達が手持ち花火をしていて、その煙が喉を刺激している。そのことに感づいたらしいエドワードはすぐにこの背をさすり、私の家よりも近いバイト先で少し休もうと提案してくれた。不用心なのか信用されているのか、私はバイト先の店舗の鍵を預けてもらっているのだ。
すぐさま鍵を受け取り、店舗へと招き入れ、私はカウンターの席に座らせられる。急いで冷蔵庫を開けてミネラルウォーターをコップに注いでくれるエドワードは出来る男だ。その水と常備薬を飲み込み、ようやく一息付いた。落ち着いた。大げさすぎるほど大げさに息を吐き出したからか、エドワードの心配そうな顔はより一層深刻げになる。


「あ、ああ、大丈夫、ごめん、ちょっとむせただけ」

「……ほんとか?」

「ほんとよ。それに慣れない着物と草履に疲れただけ。エドも少し休んでいけば」

「…ああ」

「本当に心配し過ぎよ、平気だから」


何度も言っても、彼の表情は悲哀に満ちていた。私がここで駆け回って健康をアピールしても、松坂先生に説明を貰っても、きっとその顔はそうやって悲しそうなままで、辛そうなままで、泣きそうなままなのだろう。きっとおそらく、私が彼よりも後に死なない限り、彼の心配は尽きない。いつまでもずっと私の体調を気に掛けてくれるだろう。それはきっと、スカーレットが病弱あるいは病気をしていたから。
聞いてはいけない、言ってはいけないことだと知りつつも、私はつい口を滑らせた。


「…スカーレットは、死んだの?」

「………………」

「…生き返らせようとしてくれたの?」


この世の時が止まったかのような時間だった。しん、と静まり返る室内には、冷蔵庫の動作音がやけに大きく響き渡り、まるでそこに生き物など存在していないかのようだった。私とエドワードはここにはない。いや、いるのはエドワードと姿見えぬスカーレットだけ。
エドワードは何も答えなかった。答えぬまま、ただカウンターの一部分を見つめ、口を噤む。しかしそれが答えだった。スカーレットは死に、彼は彼女を甦らせようと試みた。方法は言わずもがな、”錬金術”の”人体錬成”なのだろう。成功などしない、ただの夢物語。それでも縋らずにはいられないほどに失えない人。
いつかの親友の言葉が蘇ってきた。眠っていた間の二年間の間、私は霊体になってこの身体から抜け出してその王子の国へ行っていたんだ、と。きっと、その国には私と全く同じ姿形をした人形のような肉体があって、私の霊体や魂はそこに入っていたんだ。そして、彼等と出会い、出来事を共にし、最後にその肉体は滅び、私の魂は元のこの肉体へと舞い戻った。そんなところだろうか、全くの見当違いかもしれないし、総べて正解の回答かもしれない。答えを尋ねる人間がいないから分からないけれど、個人的には近からずも遠からずといったところではないかと思う。
エドワードは相変わらず一点を見つめたまま動かない。所詮、彼の苦しみや悲しみなど、私には理解出来ないことなのだ。私には王子の国にいた時の記憶がない。共に苦痛を背負い、分ち合うことは出来ない。

私とスカーレットに共通するものがあるとしたら、この姿形と多少の性格の類似、そして…。


「…心臓、」

「?」

「私とスカーレット、全く同じものは何一つない。見た目も性格も、時間の経過や環境、経験でで少しずつ変化していく。全く同様なものなんてない。だから私はスカーレットに似てはいても同じにはなれない、なれるわけがない」

「お、おい、俺は、」

「でも、全く同じものが一つだけあるのかもしれない」

「………………」

「心臓」


心臓。二度、同じ回答を主張した。彼の瞳は揺れていた。動揺と、そしてうっすら張った涙で確かにゆらゆら揺れている。
松坂先生は言った。私が目覚めた瞬間、青い雷みたいなイナズマが私の心臓から溢れてきた、と。真相は闇の中だ、エドワードが答えない限り。けれど限りなく正解に近いと思う。

私の心臓が再び強く動き出し、意識を取り戻したその刹那、スカーレットは死んだのだ。
申し訳なかった。
なんと言っていいか分からなかった。
一点を見つめ、必死に涙を堪え続ける青年に、私は掛ける言葉が見つからなかった。いや、この世に、今彼を慰める言葉など存在するわけがなかった。それでも、何か伝えたかった。必死だった。無我夢中で彼を救う言葉を探した。見つからなかった。それでも、告げずにはいられなかった。


「あ、あげるよ」

「…?」

「私の心臓、あげるよ」

「…………」

「エドに、私の心臓あげるよ」


両の手を広げ、胸元に誘うようにして訴えた。


「この心臓はスカーレットのものだから。スカーレットの心だから」

「………………」

「あげるよ、今は私の身体の中にいるの。姿が灰になっても、でも、彼女は生きてる。聞いてみて」


招き入れるように、こっち、こっち、と手で誘う。エドワードは驚きつつも私から視線を外さず、こちらに一歩一歩近づいてくる。初めて発見した珍獣にでも近づく心境なのだろうか。それでも彼は歩みを止めない。途中、ぼろりと零れた涙も気にも留めず、私の胸元に誘われるようにやってくる。そして、彼の頭を抱き込んで、この胸の鼓動に耳を当てさせる。
聞こえてる?どくん、どくん、動いているでしょう。聞こえてるでしょう。それが、スカーレットの生きている証であり、スカーレット自身。
エドワードは喉から絞り出すような涙声で、けれど悟ったように穏やかな口調でつぶやいた。


「…Finally met」


心なしか心臓まで、エドワードとこんなに近くでようやく存在を認識して再会出来て、喜び跳ねているようだった。
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