春が来た。まだ蕾をほころばせた程度の桜の花びらだけれど、それを物珍し気に見上げ、感嘆の声をあげるエドワードは、心待ちにしていた開化に胸弾ませているようだった。
宣言通り、店長は出店を出すことを決定し、コーヒーやチャイ、紅茶とサンドイッチやスコーンを販売する。正しく言えば、私たち、だ。エドワードも暇な時間を縫って私たちの手伝いをしてくれると言い、今も店のエプロンを付けてレジ台の前に立っている。店長の思惑通り、近所のマダムたちや女子大生はいそいそと商品をエドワードの元へ運び、何やら会話を弾ませている。私はひたすらサンドイッチやコーヒーを注いでいるので内容までは分からないが、彼が一般的に言えば整った顔と高身長と美しい金色の髪と目を持つイケメンの部類で、頭脳明晰で、一応は紳士的な振る舞いが建前上は出来るハイスペック男子であることは理解しているから彼の元に女子たちが集まるのも無理からぬこと。その事実に、脳みそは冷静に分析するのに心臓だけはどく、どく、と嫌な心音を響かせる。嫌なんだろうな、私の心臓は、彼がほかの女の子と仲良くするのが。
ぎゅうっと胸元の服を握りしめ、苦悩に満ちた顔を見せてしまう私に声をかけてくれたのは、私の主治医の松坂先生だった。
「大丈夫?具合悪い?」
「せ、先生、どうしたんですか?」
「いや、先輩に誘われたから来てみたんだよ、お花見。まだちょっと開化には早いけどね」
「先輩って?」
「あれ、聴いてない?君のバイト先の店長と僕は同じ大学の先輩、後輩なんだよ。同じサークルだったんだ」
「え!知らなかった!全然!全く!」
「はは、だろうね」
そう軽く衝撃の事実を残し、松坂先生は店長の元へ向かう。エドワードは松坂先生の姿を見つけて露骨に嫌げな顔をしたが、意に介さない大人な先生はさっそく紅茶とサンドイッチを注文してくれた。
エドワードと松坂先生は険悪の中(エドが一方的に、しかも私の所為)だとばかり思っていたが、桜の花びらがその実をほころばせ、力いっぱいに咲き誇り、はらはらと生涯を終える準備をし始めた頃になるとその関係に変化が見られ、松坂先生と顔を突き合わせても嫌な顔をすることは無くなっていった。私が彼を好きだなんて馬鹿げた嘘をすっかり忘れたからだろうか。
「そろそろ出店やめようか!臨時収入もがっぽり入ったしね、はは!」
「がめついですね」
「はい、エドワードくんにもお給料だよ。これで二人でデートでもしといで」
「ちょっと何を勝手に」
「ありがとうございます。水族館でも行ってきます」
「無視しないで」
なに二人がっちり握手してんのよ。
「さー、僕は家に帰って妻とディナーでもするかな〜」
「いいですね、ラブラブで」
「んふふ、君たちも真似すればいいよ。仲良しの秘訣は気持ちをきちんと伝え合うことだよ」
胸に手を置いて、満足げに含蓄ある言葉を残していく店長。エドワードはそんな彼の姿が見えなくなるまで見送り、私もそれを真似た。
私たちが出店を構えた桜並木は小休止出来るように木製や石製のベンチがいくつかあって、町の人の憩いの場所となっている。小さな噴水や謎の石像があるそこは私もお気に入りのポイントだった。
「で、水族館はいつ行くか」
「行かないよ」
「なんで」
「見るより食べる専門だから」
「なるほどな〜。じゃあ築地?だっけか。海でもいいな、俺の故郷は海がないから見たいと思ってたんだ」
「そうなの?」
「ああ、四方を国に囲まれてるから海はない。大きな湖とかはあるけどな」
「へえ…それは行ってみてもいいかもね」
あくまで他人事のように答える。日時や待ち合わせ場所を決めて、いざ電車に乗って目的地に着いても、私の脳みそは静やかなもので、代わりに心臓ばかりが高鳴っている。
眼前には広大な海が広がる。さすがに真冬の時期のために浴びる潮風は冷たいもので、海の自由さや楽しさよりも自然の脅威や恐ろしさが際立ってしまっているが、それでもエドワードは感嘆とした声を漏らしている。桜を見たときと同じだ。彼にとって初めて目にするものばかりで新鮮なのだろう。目にするものが新鮮で驚きばかりってどんな感覚なのだろう、私も少し体験してみたい。やはり留学してみようかな。ぽつりとそんな本音が漏れると、さっきまで海に夢中になっていた青年は首をぐるんっと勢いよく私に向き直り、額に汗しながら必死に説得してくる。もちろん、留学を阻止するためだ。
「や、やめた方がいい。海外は危険だ」
「海外から来た人に言われたかないな。それに何事も経験でしょ。エドだって沢山旅してきたわけでしょう?それらは嫌な出来事だった?」
「それは…」
「じゃ、着いてくる?」
「エッ」
「ああ、パスポートないんだもん、無理だよね」
「海外に行かなくても今の時代なら色々な経験が出来るだろう。スマホもネットもある、留学とまでは行かなくても旅行とか」
「そんなに私と離れたくない?」
「……ウン」
「素直か。少しは否定して」
「素直になることにしたんだ。強がっても碌なことにはならない。それにお前はすぐ危険に巻き込まれる運命にあるぞ、日本で安全に生きるのが一番だ。それか…、」
「それか?」
「アー、イヤ、なんでもない」
「でもまぁ、エドの故郷は行ってみたいね。羊が特産のリゼンブール」
「なーんもないけどな」
「何もないのが一番だよ。好きな人たちがいて、美味しいご飯が食べれて、素敵なお家があれば十分よ」
我ながらかわいらしいことを言ったと思う。男性ならばこう言われたいんじゃないだろうか。そう意識して発言したつもりはないが、口は不思議とそう紡いでいた。本心が半分だし、もう半分はたまにはおしゃれなカフェにも行きたいしデパートで買い物もしたい気持ち。そう、私はどこにでもいる普通の女子なのだ。静かな生活と華やかな生活のどちらにも憧れ、隣の芝生は青く見える状態にも陥る。確固たる『私』など持ち合わせていないし、これと言った特技も魅力もない。何を言いたいかと言うと、頭脳明晰で女子にもモテる高身長のイケメン外国人を引き付けるほどの色香など、詰まるところまるで無いのだ。
私のかわいらしい返事に、エドワードはまんざらでもない風に口角を上げて喜んでいてくれたけれど、複雑な感情は消えない。今はもう、この人が探している女性が本当は一体誰なのか、はっきりするのがこわい。
帰りの電車を駅のベンチで待っていると、数本の桜がまだ元気に咲いているのが見えた。海と桜の色のコントラストが美しくて、つい私はスマホで写真を撮った。ついでに、不意打ちでエドワードも撮ってやった。それを店長と学くんへと送ってやる。すぐに店長から〈仲良し〜♪ヒューヒュー〉と冷やかしのラインが来たので、うさぎがブチギレしているスタンプを送り返してやった。
「店長すぐ返事くれるんだよね。私たまに奥さんに浮気相手と誤解されるんじゃないかって不安になるよ」
「はは、それはないだろ」
「そう?」
「あの夫婦は愛し合ってるから」
意外だ。私ですら店長の奥さんには会ったことが無いのに、エドワードは面識があると言うのか。そして店長と奥さんのラブラブショットでも見たのだろうか。私のいないところで?少しむっとする。
「私ですら奥さんと面識ないのに。エドはあるんだね」
「ないよ」
「え、でも、」
「写真があるだろ」
「ああ、店に飾ってあるよね。結婚式の写真」
「あの写真を見れば十分だよ」
「…そう?」
「ウン」
「でも、お休みの日もお店に来たり、この間の出店にも顔出して下さらないから、サバサバした夫婦関係なのかなって思ってた」
「ラブラブだよ。一生奥さんだけを想って生きてくんだろうって伝わってくる」
「…………」
「もう一生会えない人をずっと思い続けていくのは、言うほど簡単じゃないよな」
いつも笑顔でいる人が、心まで笑っているか人には分からない。息をするのも辛いほどの毎日を過ごしているかもしれないことを、私は知らなかった。あんなに身近にいる人の孤独や辛さ、苦しみを感じ取ることさえ、私には、
さすがにエドワードの台詞で店長の秘密に感づいて、私の口からは否定の言葉がこぼれた。
「でも、ジムとか行けって、会社勤めしてるって、」
「生きてるんだよ、店長の中にはそうやって」
「……………」
「頭が可笑しいと思うか?」
肯定も否定しなかった。ただ、全てを了解しているらしいエドワードの声を聴いていた。
「頭が変になったわけじゃない、そういう設定にして自分を慰めてるのでもない。そうやって、一緒に生きてるんだよ。奥さんが生きるはずだった未来を、一緒に」
「……………」
「松坂先生は、店長と闘病中の奥さんを見て、医学部に入り直したんだと。病に苦しむ人を救いたいって」
「しらなかった」
「店長も奥さんが亡くなったあとは、変な宗教とか団体とかにすがったらしい。それこそ、…錬金術とか。店にいっぱい変な本があるのはそういうわけらしい」
「錬金術、」
胸が、どくん、と跳ねた。
「錬金術の禁術に人体錬成ってのがあるから、店長も勉強したらしい。人間の魂や肉体を作り出そうとする術だ、出来っこないおとぎ話だけどな。あの人、ああ見えて理学部らしい」
「人体錬成、そんなのがあるの」
「もちろん、夢物語さ」
「でも、するよね」
「?」
「可能性があるって分かったら、冗談だって嘘だっておとぎ話の魔術だって分かっても、そういう方法があるって本に書いてあったらするよね」
「………………」
「うん、普通のことだよ、店長は可笑しくない、変じゃない、全然変じゃない、可笑しくない、当たり前のことだよ。私だって絶対にやるよ」
涙のにじむ瞳、こぶしを固く握りしめ、何回も繰り返した。変じゃない、普通だ、当たり前だ、誰だってするよ、可能性があるなら、だって大切な人に会える可能性が1%だってあるなら誰だって縋るよ、可笑しなことじゃない、ねえ、そうでしょ、エドワード。同意を求めて顔を上げると、エドワードはぼたぼた涙をこぼして泣いていた。こくこく、頷いて。
エドワードも誰かを死ぬほど蘇らせたいと思ったことがあるんだろう。それは一体だれ?それを尋ねていいほど、私たちの仲は深くはない。でも、いつの日かみたいにその身を抱きしめて、深すぎる悲しみを鎮める手伝いくらいはさせて欲しい。心からそう思った。