壁まで疾走



※本日キスの日だと聞いて





けして油断していたわけではなかった。
今の心境を表すならば、まさか、と、なぜ、が半々といったところだろうか。
「ねえ、」
「…んだよ」
ぐい、と薄くも逞しい胸元を押して距離を取ろうとして失敗した。さっきから何度同じことを繰り返したことだろう。
出合い頭、ナイフを構える暇など与えられずビルの間に引きずり込まれてどれくらい経っただろうか。その間に静雄に奪われたものは、平常心と、くちびる。
「……うん、認める」
認めるよ、と臨也は静雄に抱きしめられたまま、器用にも肩を竦めてみせた。
端からみればさぞや滑稽なことだろう。
抱き合う二人の間に甘い空気など存在しない。ましてや、自分たちは仇敵同士なのだから。
いや、この状況からすれば、だった、が正しいのかもしれないが、少なくとも臨也には静雄に殴られこそすれ抱きしめられる謂れはなかった。それなのに。
だから、冒頭の、まさか、となぜ、に繋がるわけだが、その理由を問うたところで望んだ返答が得られないことなど明白だった。
「…なにが」
「シズちゃんにしては、上出来だって言ってんの」
くちびるの辺りに感じる、鋭くも純粋な眼差し。さらに、褒められるようなことはしてねえ、と判ってるのか判っていないのか、いや多分判っていないだろう顔つき。こちらの意図はまるで伝わらず、それはいつものことなのだけれど、と臨也は堪らずに小さく吐息を吐き出した。
「ん…」
すると、焦れたようにまたひとつ抱きしめる腕に力を込められ、静雄の体温が全身に渡って伝わりそうな事態に顔をしかめる。しかめっつらを作り出せた、それは、むしろ、臨也にとっては好都合だったわけだが。
「あー…」
突然、静雄が諦めにも似た声を上げた。辛抱強く続く言葉を待ってみたけれど一向に紡がれず、ちらり、と目線だけ上方向へと動かす。
「…見んな」
「はあ?」
思いも寄らない拒絶に、臨也は瞳を見開いた。今の今までとは別の意味で頬に熱が集まる、じっとりとした感覚、それは怒りだった。
「じゃあ、俺に触らないで」
ついでに、死んで。
もっともな要求だと臨也は自らの正当性を主張した。
だいたい、殺気を纏わないのも、抱きしめてきたのも、キスをしたのも、全部静雄のほう。俺はその中のひとつだって望んでやしない、と臨也はくちびるを噛み締めた。
こんな、まるで探るように確かめるように温もりを奪い、揚句の果てにキスまで仕掛けて。全く、何を考えているのかまるで判らないのが腹立たしい。
−初めてだったのに。
こちらの気も知らずにキスするだなんて本当に酷い。
「もう、いいでしょ」
だから離して。
図らずとも動揺を誘い、あわや本心まで吐露させられそうになった。だから、上出来だと褒めたのだ。
今ならまだ間に合う。
羞恥よりも怒りが勝っている今なら。
この腕が静雄の背に回る、その前に突き放すべきなのに。
「よくねえ」
「……っ」
自由な両手をそれぞれ掴まれ、壁に縫い付けられる。
「…シズちゃ、……んっ、」
逃げることは叶わず、また奪うようなくちづけ。
嫌だ。
怖い。
長い間、対峙してきた中で、こんなにも静雄に対して恐怖を感じたことはなかった。
(シズちゃんに…?)
(…いや、違う、)
必死に否定しながら、霞みがかった視界の先を睨むけれど、くちづけは深まるばかりだった。
静雄に、好きだ、と伝えられてすぐさま逃げたのは臨也のほうだ。叶うことのない想いだと思い込んでいただけに、一度静雄への恋情と決別した自分は、好きだと告げられたところで簡単に受け入れることなんて出来ない。それほどまでに、自分が捻くれ者である自覚くらい、とうにある。
しかしまさかこんな強硬手段に出てくるとは想定外だった。さすがはケモノといったところか。
「手前からの返事待てるほど、気が長くねえみたいだから」
吐息が触れる距離で囁かれる声音は真剣そのもの。
「逃がすつもりもねえけど」
だから、そんな目で見るな、と静雄は理不尽な要求を突き付けてくる。
反して、なにがなんでも手に入れてやる、という、これではまるで子供じみた独占欲でしかないではないか。
いつから間違ってしまったの、と静雄に問い掛けたところで無意味なことくらい判っている。この男に、真実を求めたところで無駄だ。
自分たちの関係に変化を望んでなんていなかったし、まさしく今更だった。
だからと言って、俺は最初から好きだったけれど、と伝えるつもりも毛頭ない。
だいたい、不意打ちのキスひとつで落とせるだなんて嘗めないでもらいたい。
だったら、答えはひとつだ。
「捕まえられるものなら、」
捕まえてみな。
挑発がてら、臨也は素早く袖口からナイフを繰り出す。
「……っ、てぇな」
結局、切りきざめたのは、シャツ一枚。
こちらは心の奥深くまで切り込んでこられたのに、本当に忌ま忌ましい。
(だからこそ、絶対に君のモノになんてならない)
僅かにできた距離を利用して、静雄の腕の中から飛び出す。
「おい…!」
臨也、と確かに名前を呼んでくれた静雄に背を向け走り出しながら、くちびるを拭う。
「早く、死ねばいいのに…!」
後方の気配を探って、静雄が地を蹴ったことに、拭ったくちびるが緩やかに弧を描く。


本当に俺のことが好きだっていうなら証拠を見せてよ、とは傲慢、絶壁まで俺を追い詰めてよ、とは願望。
追い詰められて堕ちるしかなければ、素直に好きだと言える勇気が持てるかもしれないから。
(だから、死ぬまで俺を追いかけて)

心地よいまでの歪んだ緊迫感に、身体の奥底から込み上げてきた感情の正体には気付かぬ振りをして。










END





自分でもよく判らないのですが、くちびるを奪われた臨也が書きたかっただけです。多分。


2012.5.23 up

back

人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -