リリアントフェイツ 2






「平和島静雄?」
誰それ。
聞き慣れない名前を秘書である波江に問い返す。元々、ひとの名前を覚えるのは得意ではない、というよりは面倒くさくて記憶に留めない、が近い。波江が覚えてくれていればそれで事足りるからだ。
それでなくとも、仕事は次から次へと舞い込んでくるのだ。今もショーを控えているので、修羅場ともいえる惨状だというのに。いちいち個人情報なんて覚えてられるかっての、と言いたい。
ましてや、俺にとって重要なものは、依頼人の名前なんてものではなく別にある。
つまり、このときの俺は断る気満々だった。
「知らないのなら、今覚えなさい」
「…ねえ、波江さん」
覚えたくない引き受けたくないの二重の意味合いを込めて、無理、と、重くひとこと告げると、無駄に頭はいいんだからわけないでしょう、と素気なく返される。この際頭の善し悪しは関係ないと思うのだ。
だいたい、今の俺の死にそうな顔を見て何も思わないのだろうか。
まったく、雇い主はこちらだというのにたいした態度だと思う。そう彼女に指摘したところで倍返しの上に辞表を叩きつけられかねないのでしないが。
俺は、手にしていたサテン生地の布をマネキンに合わせる。いつもならばさらりとした滑りよい布感触を楽しみながらイメージを膨らませるのに、と惜しむ。ただでさえ時間がないのに、先方から半ば無理矢理ひとり分のデザインを増やされたのだ。横暴だ、と口を挟む暇も与えられなかったタイトすぎるスケジュールに、いつ過労死してもおかしくないと思う。
「ねえ、今の俺の状態を見て?引き受けられると思う?」
これ以上仕事したら俺、死んじゃうよと呟けば、ならさっさと死ねばと冷たく返される。
酷い。彼女とは長い付き合いになるが、昔からこうだ。だが、普段は楽しめる舌戦も楽しむ余裕はない。デザインの最終打ち合わせは明日の朝に迫っている。さらに言えば、そういう調整も彼女の仕事のはずなのだが、きっとこの間の仕返しなのだろう−ショーが長引いて愛する弟くんとの食事がお流れになった。
案の定、彼女は俺の歎かわしいまでの現状を無視して、とどめを刺しにきた。
「明日の夕方、本人が挨拶に来るそうよ」
「……!?」
だからそのつもりで、との彼女の言に、喉元まで出かかった、なに勝手に予定決めてるの、という言葉を無理矢理に飲み込み、怨みがましく波江を睨む。
当然のように無視した波江は、手にしていた資料らしき書類を淡々と読み上げ始めた。大人げないよね、とは思ったが、思ったこと全てを口にしていれば確実に仕事を増やされ兼ねない。
「…平和島静雄、18歳。最近デビューしたモデルね」
ファッション雑誌でも見かけるようになってきたし、なかなかのイケメンよ、誠二には敵わないけど、と余計な付加情報までつけられても興味がないものは、興味ないのだ。
「ふうん…?」
適当な相槌を打ちながらも手は止めない。
さらさらと落ちてくる前髪を欝陶しげにピンでとめなおす。
そんな知らないモデルのことなんか置いておいて、いい加減に早く仕事を終わらせて熱いシャワーを浴びて暖かいベッドにダイブしたい。空腹感も忘れかけてきて久しい。
修羅場に入りこうして仕事部屋に篭って何日になるだろう、と記憶を起こそうとして軽く目眩がした。
今回はイレギュラーな追加依頼が入ったことで、稀に見る苦戦を強いられている。もちろん途中で放り出すようなことはしないが、最低限の人間らしい生活をしたいと願ってなにが悪い、とやさぐれたくもなる。
俺の無言の聞く耳なんか持ちたくありませんアピールがようやく実を結んだらしい、波江が眼前で大きなため息を零した。
「コーヒーいる?」
「うん…、あとフレンチトースト食べたい」
「はいはい」
波江は手にしていた書類を置くと、踵を返して部屋から出ていく。こんなときは少しくらい甘えてみても怒られないことは長い付き合いで知っている。甘いんだか冷たいんだかわからない彼女だが、切羽つまっていればさりげにフォローしてくれるところはありがたい。
キッチンから、水音やコーヒーの香ばしい香が漂ってくるのを楽しみながら、あとひといき、と手を動かす。
しばらくの間大人しく仕事をすれば、波江が注文通りのものを運んできてくれた。
「ありがとう」
手を止め、ソファへと移動する。あちこちに裁縫道具や布などが転がる乱雑な部屋の中、無事なのはソファ周辺であり、ここ数日間の寝床の役割も果たしている。
「食べながらなら、聞けるわね」
「……わかったよ」
向かいに座った波江は容赦ない。まあ、どうあがいたって彼女には敵わないし、フレンチトーストも作ってくれた対価だと思って話を聞こうじゃないか。
そうして俺は、熱々のフレンチトーストを口に運び、もぐもぐと咀嚼しながら仕方なく聞く態勢を取った。
「最初に言っておくけど、この依頼、断ったら貴方この業界にはいられないわね」
「なにそれ、怖いねえ…」
つまりさ、ワケアリってこと、とため息混じりに問う。知名度が上がるのと比例して厄介な依頼は日常茶飯事になりつつあるとはいえ、己の進退に関わるようなものは初めてだ。
「近いわね」
端的に肯定した波江は、けして嘘をつくことはしない。コーヒーを啜り、喉を潤したところでカップをソーサーに戻したタイミングで、書類へと目線を落とした波江はその依頼元を口した。
「羽島幽平、彼はもちろん知っているわね?」
当然だ。
彼をテレビで見ない日はないというほどに、今一番活躍している俳優だ。
感情が読み取れない端正な顔形を裏切るように、その演技力はずば抜けている。
それに、以前一度だけ彼の衣装を手掛けたことがあった。あれは彼の初舞台だっただろうか、俺自身も舞台衣装を初めて手掛けることになった仕事だったからよく覚えている。
「もちろんさ。すごいよね、彼」
あのときは作り甲斐があったよ、とは本心だ。彼は、こちらに作りたい、そんな感情を奮起させる何かを持っていた。それこそ、つねに俺が求めているもの。
ただ、なぜ彼の名前が登場するのかがわからずに首を傾げれば。
「その彼からの依頼と言っても差し支えない、と言ったら?」
「……?どういうこと?」
ますます首を傾げてしまう。
つまり、平和島静雄の衣装のデザインを引き受けろ、と羽島幽平がわざわざ口添えしている、ということか。
一介の駆け出しモデルと、有名俳優の共通点。本来ならば、そんな彼らの関係性など俺には瑣末なことだが、俺自身の進退にまで関わってくるとなれば話は別だ。
そして波江の口から明かされた事実に、俺は頷かざるを得なくなる。
「平和島静雄は、羽島幽平の兄よ」
「…なるほどね」
確かに、断るにしては分が悪いかもしれない。俺は足を組み直し、苦笑した。






to be continued…?





2012.1.20 up

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