ガタン、ゴトン
規則的なリズムを刻んで今日も電車は朝日の中、通勤通学中の人々を運ぶ。
ガタン、ゴトン
ライトはそっと読んでいた文庫本から目を離し、斜め前に座っている男子高校生に目を向けた。
真っ白なカッターシャツに濃紺のブレザー、チェックのパンツに、濃い赤のネクタイ。ライトの通う私立高校の近くにある公立高校の制服で、特に珍しくもない、どこにでもあるようなデザインだ。
それを着ている男子高校生は鞄を抱くようにして、若干前屈みになって眠っている。眠りやすいようにだろうか、ネクタイは緩められ、ボタンは二つほど外されている。その隙間から僅かに鎖骨が覗いていた。
朝から乱れているその制服姿にライトは顔をしかめることはしない。ただ、じっとその寝顔を眺めていた。
私がその男子高校生を知ったのは一年前のことだった。
知ったと言っても、私は彼の名前も住所も知らない。唯一交わした言葉もほんの僅かだった。だから、『彼』という存在を知ったと言うのが正しいのだろう。
一年前の夏、私は彼の存在を知った。
その時期はどの高校もテスト週間で帰宅時間が早かった。昼過ぎに乗った電車の車内で私は読んでいた本の栞を落としたのだった。私は全くそのことに気付かなかったのだが、私の向かいに座る彼は気付いたようで、彼はわざわざ席を立って私の栞を拾ってくれたのだ。
その時交わした言葉は『落としましたよ』と『ありがとう』だけだった。
逆光で表情は解り難かったが、キラキラ光る髪の毛を綺麗だと思った。
それだけだった。
拾ってもらったその時は彼に感謝したものの、次の日にはもう彼の顔も私は忘れていた。覚えていたのは同い年ぐらいの子に栞を拾ってもらったという出来事ぐらいだったと思う。
それから一ヶ月が過ぎた頃だっただろうか。私はまた彼と出会った。いや、彼が目に入ったと言った方が良いだろう。
その日の朝、満員電車の中で私は運良く座席に座れていた。
目の前はサラリーマンにOLに学生にとごった返している。そんな中、ちらりと他より小さい影が人と人との隙間に覗く。目を凝らすと、それは小さな老婆の背中だった。私は直ぐさま立ち上がり彼女に席を譲ろうと思ったが、人が多い上に彼女がこちらに背を向けているので上手くいきそうにない。
向かいの座席に席を譲ってくれそうな人はいないのだろうか、と私が前に目を向けた時、彼がいた。私のとは違う色の銀髪の頭が見えた。
私があの時の、と気付いた時には彼は立ち上がり、彼女に席を譲っていた。
老婆が彼にお礼を言っているのと、彼がそれに恐縮しているのが見えた。
それから降りる駅まで、私は彼の電車に揺られる背中を眺めていた。電車が揺れる度、後ろで束ねられている尻尾のような髪の毛も揺れた。
それを目で追っているうちに、自分が彼の優しさで暖かい気持ちになっていくが解る。
不意に彼と言葉を交わしたいと、友達になれたらという思いが沸き上がった。
それからだろうか。私のものとは違う色の、奔放に跳ねた銀髪の頭を探すようになったのは。彼の学校の制服がやたらと目に付くようになったのは。
電車の中で彼を探すようになって気付いたことはいくつかある。
毎朝私と同じ時間の電車に乗っているということ。
それから、どうやら彼は私が頻繁に座る座席の、斜め前の座席を定位置にしているようだということ。大抵の場合はその位置で眠っているということと、周囲の迷惑にならないようにその長身を丸め、鞄を抱くようにして眠っているということ。
そして、彼は私の乗る駅の二つ前の駅で乗り降りしているということ。
電車には一人で乗り、友達とは駅前で別れているということ。
時折道具を持ち帰っていることから、部活は弓道部らしいということ。(そのことに気付いた時は、もし私と同じ剣道部だったら大会で会えたかもしれないのに、と少し残念に思った。)
いつの間にか彼と会えるというだけで、何とも思っていなかった通学時の車内が楽しみになっていた。別に彼と何か話している訳でもないのに、私は彼の姿を見るだけで気分が高揚していた。彼の寝顔に癒されていた。
友人に言わせるとこれは恋なんだそうだ。
そうなのかもしれないと、私はそれをあっさりと受け入れていた。だって、そうでなかったら、健全な男子高校生がよく知らない男子高校生を見て喜ぶなんてするだろうか。多分、しないだろう。
そう、彼が男であるとか解りきった問題もあったのに、彼を一目見たいという気持ちには迷いなんてなく、自分で言うのもおかしいが、彼への想いはひたすらに一途だった。
気持ちを否定せずにいられたのも、そもそも私は彼に思いを告げる気が初めからなかったからだ。電車という狭い空間の中でしか彼という存在に触れられない私に告白なんて、選択肢にすらなかった。だって私は彼を呼び止める名前さえ知らないのだ。
苦しくはなかった。彼を見るだけで幸せで、頑張ろうと思えた。近付きたいと思わない訳ではなかったが、この距離が良いのだと私は思い込んでいた。
もし、もしも彼と気軽に話せる仲になってしまったら、私の淡い憧れのような恋はきっと苦しいものになってしまう。
そんな予感を無意識下で私は感じていて、その未知の苦しみから己を守ろうとして、あえて彼に近付かなかったのかもしれない。
多分、私は今の一方的な関係に満足しているフリをしているのだ。
ガタン、ゴトン
――そう、私は満足しようとしていたのに。
剣道の大会を数日後に控え、遅くまで道場で練習に励んでいた帰りだった。
学校を出るともう外は真っ暗で、電車内に学生は二、三人程しかいない。乗り込んだ時にそれを確認して、流石にこんな時間にはいないか、と落胆する。
座席も空席が多く、すぐに座れた。
鞄の中から文庫本を取り出し、読み初めて暫くすると電車がまもなく発車することを伝えるアナウンスが流れてきた。
調度その時だった。ホームから走ってくる足音が聞こえて、ギリギリのタイミングで彼が私のいる車内に滑り込んできた。彼が乗ると同時に電車の扉は閉まり、発車し始めた。
荒い息を整えながら彼はこちらに歩いて来るので、私はてっきり、いつもの定位置に座るのだろうと予想した。
しかし、予想に反して彼は何故か私のすぐ右隣に座った。他にも席なら空いているのに。
何故、どうして、なんで。
彼がこんなに近くにいたことなんて今までなかった。
内心でひどく困惑している私を余所にして、彼はそのまま眠りはじめた。これもいつもと違っていた。彼はいつもみたいに身体を丸めるなんてことしなかった。何故か座ったままの状態で眠りはじめたのだ。
肩と肩が触れ合いそうな程近くに彼がいて、横を見れば近くに彼のあどけない寝顔があって、心臓が高鳴らない訳がなかった。
やがて電車が揺れて彼がもたれ掛かってきた。僅かな重みが右肩に掛かる。
普通なら嫌がるところなのに、悪くないと思っている。
ふわふわとした髪の毛が首筋にかかる。その頭に顔を埋めたくなる。柔らかな寝息を近くに感じる。呼吸する度に上下する肩に腕を伸ばしたい欲求に駆られる。
今までにないくらい緊張していたし、今までにないくらい心臓がうるさかった。
それでも、ずっとこのままでも良いと思えた。
外は真っ暗で、街のネオンがすごい速さで遠ざかっていく。向かいの窓ガラスに自分の姿と彼の姿が映っている。その光景がどうしようもなく不思議だった。彼はいつも向かいにいたのに、今は重なり合う程傍にいるのが不思議だった。
もうすぐ、彼の降りる駅だった。
とうとう電車内では彼の降りる駅の名を告げるアナウンスが流れ始めた。
彼はまだぐっすり眠っていたのだが、起こさなければならなかった。
もたれ掛かっている彼の肩に手を置き、そっと引き離す。
「起きてくれ、君が降りる駅だ」
声を掛けるとゆっくりと瞼が開き、彼の琥珀色の目に私が映っているのが見えた。
まだ寝ぼけているのか、瞳は揺らいでいる。しかし次第にはっきりし始めて、彼は状況を理解したのか、慌てて自らの身体を離した。
「…え、あ、すみません!ありがとうございます!」
僅かに頬を赤くして謝罪とお礼を言ってから、彼は停車した電車から駆け降りて行った。
私はその時の慌てた彼の表情を間近で見て、悪くない所か良いと思ってしまった。困ったような形になった眉も、寝起きで潤んだ瞳も、自らの失態を恥じて赤らんだ頬も、可愛いと思った。
そして横を見れば、まだ僅かに彼の体温の残るシートに忘れ物があることに気付く。
それは彼の学生証だった。恐らくブレザーのポケットに入っていた物が落ちたのだろう。
多分明日の朝にまた会うことになるからと思い、私は彼の学生証を鞄に仕舞った。
私はそこで初めて彼の名を知ったのだった。