今では実家より落ち着くようになったアパートの白い壁に背中を預ける。剥き出しの膝を抱え、目を閉じると時計の秒針の音しか聞こえない。テレビや音楽のない自分の家はこんなに静かなのか。
目線だけを時計に向ければ、時刻はもうすぐ午後11時。あと1時間もすれば私の誕生日が終わる。
「聖司さん……」
呟いた声は、自分で思っていたより不安気なものだった。
大事な演奏会があると申し訳なさそうに告げられたのは先日の話。終わり次第会いに行くとは言ってくれたが、今日に間に合う保証はない。
しかし、わざわざ誕生日という理由だけで会いに来てくれることが嬉しい。最高のプレゼントだ。
――早く会いたい。
もう何ヵ月、あの姿を見ていないだろう。声を聞いていないだろう。抱き締めてもらって、愛を囁いてもらっていないだろう。
彼を想うと胸が締め付けられ、膝を抱えた腕に力を込めた。
静寂を破ったのは、待ち侘びたチャイムの音だった。
はやる気持ちのまま玄関に駆けた。鍵を開けるその動作さえもどかしい。
「ごめん!」
彼の姿を確認する間もなく、私は聖司さんにきつく抱き締められていた。
「こんな、ギリギリになった」
「そんな……」
「今日をずっと一緒に過ごしたかったのに……」
頭上から降ってくる、切な気な声に胸が締め付けられる。心からそう思ってくれることが伝わる。それはこの会うなりの抱擁からもわかることで。
「会えただけで、十分です」
嘘でも強がりでもなく、そう思う。少し汗ばんだ身体に乱れた呼吸が嬉しいの。
「おかえりなさい」
少しだけ身体を離し、そう笑いかける。彼の傍で一番にこの言葉を言える存在でありたい。遠距離恋愛になってから願い続けている。
どこか照れたような、聖司さんのただいまの響きが好き。
「何かして欲しいことあるか?」
部屋に入り、お茶を出すなりそう切り出された。遅くなったお詫びに、何でもしてくれるそうだ。
「隣、行ってもいいですか?」
「……ああ」
不思議そうに頷く彼のすぐ隣に腰を下ろす。互いの体温が触れ合う距離は、安心すると同時に未だにドキドキもする。
「聞いて欲しいことがあります」
ずっと言いたかった。
真っ直ぐに伝えるのは恥ずかしくて、なかなか言えなかったこと。
「ありがとうございます」
大好きとか、聖司さんに思うことはたくさんあるけれど、一番に伝えたいと思うのは感謝の気持ち。
「大好きな聖司さんの傍にいられて、私幸せです」
珍しく感情をぶつけてくれた貴方に返すわけじゃないけれど。
「こんな私なのに、ずっと彼女でいさせてくれてありがとうございます」
他にふさわしい女の子がいるんじゃないか。そう思ったことは一度や二度ではない。
だけど他でもない貴方が私を選んでくれたから。私はそのことに胸を張れる自分で在りたいと思う。
「これからも、聖司さんに好きだって、会いたいって思ってもらえるような女の子になれるように頑張りますね」
だから、貴方の隣はずっと私のものにしておいて。
物理的な距離が遠い分、どうしても不安は付き纏う。
「……何だか、決意表明みたいになっちゃいましたね」
照れくささから早口でそう笑った言葉は、果たして彼の耳に届いたのだろうか。
言い終えるより前に、私は彼にきつく抱き締められていた。
「……何だよ、もう」
「え、」
「お前の誕生日なのに、何で俺が礼を言われてるんだ」
誕生日だからこそ、ですよ。生まれた日を祝いたかったと心から言ってくれる聖司さんを愛しく思うから。
「俺も、聞いて欲しいことがある」
少し身体が離れ、見上げた先には彼の整った顔。
ジャケットのポケットを探る聖司さん。ややあって小さな箱が差し出された。
「今すぐなんて言うつもりはないけど」
箱が開かれる。
その中身はキラキラ輝く指輪。
「結婚してくれないか」
夢のような言葉。これは、現実?
「いつも寂しい思いさせてごめん。変わらない笑顔で迎えてくれてありがとう」
聖司さんの顔が見れない。
だって。だって。
私の大好きな優しい目で笑ってるに違いない。
「俺自身もピアノも、真っ直ぐに好きだって言ってくれるお前に、俺はずっと救われ続けてる」
視界がぼやける。
目に溜まった水分が溢れ、涙が伝う。
「お前以外考えられないんだ」
私だって、聖司さんじゃないと駄目だよ。
「あざみ?」
そんな優しい声で呼ばないで。頭を撫でるその手から愛が伝わってきて、どうしよう。
「……嫌か?」
嫌なんてそんなわけない。溢れる涙で言葉にならず、ぶんぶんと首を横に振る。
「駄目かと思った」
ホッと息をついた彼が甘えるように私の肩に額を乗せた。緊張していたみたい。そんな風には見えなかったのに。
「……駄目かもって、思ってたんですか?」
「思うよ、当たり前だろ。……演奏会より緊張した」
小さく付け加えられた言葉が可愛くて、思わず吹き出してしまった。聖司さんのかっこいいところ、可愛いところ、全部ひっくるめて愛しく思う。
ずっと傍に居られる権利を、ありがとう。
「忘れられない誕生日プレゼントです」
そう笑うと聖司さんも同じように笑った。
「相変わらず小さいな、お前の手」
私の手を取った聖司さんがそう呟いた。高校生に戻ったみたい。
薬指に指輪をはめてもらう。この瞬間を私はきっと、一生忘れない。
「――愛してる」
薬指の指輪にキスをしながらの愛の言葉。
せっかく泣き止んでたのに、また涙でぐしゃぐしゃの顔になっちゃうよ。
「わ、私の、方が……あい、愛してますっ……!」
「落ち着け」
「聖司さんのバカー」
「何でだよ」
バカ。ずるい。
どれだけの幸せをくれるつもりなの。
私は少しでも返せてる?
これから返していこう。
安らげる場所を作れるように頑張ろう。
そのためにまずは。
とりあえず何があっても、繋いだこの手だけは絶対離さないでおこうと誓った。
end.
ありがとうをあなたに。