許可が出たのは聖司さんの大学へ行きたいと言い続けてしばらく経ってからだった。講義くらいなら一緒に受けさせてやると、渋々の表情で告げた彼に、私は嬉しさのあまり抱きついてしまった。
たったひとつの歳の差。それだけのものが、同じ授業を受けたいというささやかな願いも叶えてくれない。
それが叶うのなら、1日だけで十分。
「挙動不審」
「うっ……」
「頼むから目立つな。面倒なことに巻き込むな」
散々聞いた注意を繰り返す聖司さんはキョロキョロ辺りを見回す私の頭を軽く叩くと、すたすたと先を行ってしまう。そして慌てて着いて行きながら思う。一緒に授業を受けることが嬉しいのは私だけ?
少しもやもやしながらも、目に飛び込んでくる音大ならではの様子に先程の注意も忘れて落ち着きなく辺りを見てしまうのであった。
人数が多いからという理由で聖司さんが選んだのは外国語の授業だった。彼の選択はもちろんフランス語。
適当な場所に座り教科書を広げているうちに、教授がやってきた。当然のように日本語を交えず進められる授業。
な、何言ってるのかわかんない……。
聖司さんが留学してからのことを考え、遊びに行った時困らないようにと私もフランス語を選択している。しかし授業が始まってまだ2ヶ月あまり。基礎中の基礎しか理解出来ていない私に、1学年上の授業内容が理解出来てるはずもない。
自分の中で勝手に結論付けてしまうと、授業についていく必要のなくなった私は暇を持て余すことになる。
隣の聖司さんの様子を窺えば、真剣な表情。そうだ。勉強は嫌いだけどピアノを始めとした自分の興味があることに対しては真っ直ぐなんだ。
「……なんだよ、じろじろと」
教授に向けられていた真剣な瞳が、迷惑な色を含んで私に向けられた。しまった。こっそり見ていたつもりだったのに。
「ごめんなさい、そんなに見てました?」
「見てた。気が散るから見るな」
それだけを言い捨てるともう注意は授業に戻ってしまった。あ、なんか久しぶりに冷たい聖司さんだ。
邪魔したのは私だから仕方ないんだけどね。片想いの頃は聖司さんのこんな言い方ひとつにいちいち不安になったり傷ついたりしてたっけ。
ふふと小さく笑ってから、私は今こうして一緒に授業を受けられる幸せを噛み締めることにした。
「つまらなかっただろ。あの人日本語交えないし」
「確かに内容はよくわかんなかったけど……私は聖司さんと一緒に授業受けてみたかっただけなんで」
「あ、設楽くん!ちょっとだけいいかな?」
来れて良かったです、と続くはずの言葉は見知らぬ女の人の声に遮られた。ストレートな長い髪の綺麗な人。聖司さんの様子を窺うからに顔見知りみたい。
「ああ。……あざみ、ちょっとごめん」
そう言い残してその女の人の元へ向かう聖司さん。
少し距離があるのでよくわからないが、2人が囲んでいるのは多分楽譜。
2人とも真剣な表情。お互いを高め合ってるって、ああいうことを指すんだろうな。
すぐ終わると思っていた話は、予想外に長引いた。
ヒートアップしている2人は手持ちぶさたで待っている私のことなんか、きっと見えていない。
珍しいな。ムキになってるみたいな聖司さん。
私が音楽のこと分かって、そういう論議出来るような女の子なら、私の前でもそんな表情してくれた?
咄嗟に思い浮かんだ考えを打ち消すように首を振る。
何、考えてるの。そんなこと今さらじゃない。
必死に自分に言い聞かせてみるが、一度頭に上った考えはなかなか消えない。
そうして一度不安になってしまえば止まることなく落ちていくだけ。
この距離が、ずっと消えない気がした。
「それはないでしょー」
笑い声に弾かれたように顔を上げると女の人が聖司さんの肩に手を置いて笑っていた。聖司さんも迷惑そうではなくて。
嫌だ。嫌だ。
触らないで。聖司さんも、何で触らせたりするの。
「っ……!」
頭の中が嫉妬でぐちゃぐちゃになって、思わずその場から逃げ出してしまった。
自分じゃないみたいな、汚い感情が湧き上がるのが止められない。
追いかけてきてくれることを期待して振り向いてしまった私はなんて――。
「、あざみ!」
ずるいのだろう。知ったら計算高い女だって軽蔑する?
上がった息が嬉しいなんて。
「何で勝手にいなくなるんだよ」
「……聖司さん、楽しそうだったから」
「はぁ?あれは――」
「分かってます!」
授業のことですよね。私の分からない音楽のことですよね。
口を開けばそんな嫌味のようなことしか言えない気がした。
「……何拗ねてるんだ」
呆れたような困ったような溜息が痛い。
「だって、わかんないもん」
「え」
「音楽のことなんか全然わかんないもんっ!あの人みたいに話し合える力も持ってないし、ここにいる人たちみたいに聖司さんのピアノわかることだって出来ないし」
「っ、あざみ落ち着け!」
取り乱す私を落ち着かせようと聖司さんが私の肩を掴む。思わぬ力強さに体が震える。顔が見れなくて俯くしかない。
ああ、私ちっとも変わっていなかった。片想いの時のまま、小さな事で不安になる癖。
「聖司さんなんか嫌いっ……!」
嫌い。嫌い。
一緒に授業受けられたこと喜んでくれなかったり、私をほったらかしにして女の人と笑ったり触らせたり。
全部嫌い。
――違う。
こんな自分が一番嫌い。
「……そうか」
肩を掴んだ彼の力が弱まる。怒らせた。当たり前だ。
感情に任せて、嫌いだなんて。
そんな、思ってもいないこと。
「俺は好きだけど」
その言葉が耳に届いたのと、抱きしめられたのはどちらが早かっただろうか。
「音楽のことなんか知らないくせに、俺のピアノが好きだって初めて会った時から真っ直ぐ伝えてくるお前が、俺は好きだけど」
頭上から降ってくるのは、あの教会の日みたいな真剣な声。きつく抱きしめられた力と体温。
どうして。
どうして私は不安になるんだろう。愛情を疑ったりするんだろう。
聖司さんはこんなにも思ってくれているのに。
「ぅ、……ご、めなさ……す、好きぃ……聖司さ、好き……!」
涙と嗚咽で言葉にならない。私の大好きな手が落ち着かせるように頭を撫でてくれる間、好きとごめんなさいを繰り返した。
「……ごめんなさい」
「俺はあと何年あそこに通うんだっけなぁ。あんな人通り多いとこで抱き合って、明日から有名人だろうな」
帰り道、聖司さんのチクチクとした嫌味が止まらない。もっともなことなので私はひたすら謝るしかなく。
「反省してます。ごめんなさい」
もうしないと言えない自分が情けない。だってやっぱり、聖司さんと仲良くする女の人を見たら普通でいられる自信がない。
自分がこんなに嫉妬深いなんて。あんまり知りたくなかったなぁ。
「……嫌いなんて、もう言うなよ」
さりげなく付け足されたその言葉の響きは重いもので。傷つけたことを今さら思い知る。
「い、言いません!ごめんなさい、大好きです!」
知ってる、と笑うその表情に胸が締め付けられる。
私しか見れない表情があること、ちゃんと誇りに思わなくちゃ。
また嫉妬しちゃう日がきても、この手を離さないでください。
そんな身勝手な願いとなるべく嫉妬しないという矛盾した思いを込めて、握る手に力を込めた。
end.
設楽の対応が大人すぎる気がしなくもない。
でもあのまま設楽も怒ると収拾つかない(´д`)