淀みなく流れるピアノの音に耳を傾ける。彼のピアノを聞くようになって3年が過ぎた。音楽には詳しくない私だが、彼のピアノに関してだけは分かることも増えた。
もっとも、それも技術的なことに関してではなく今日は少し機嫌が悪いとか良いとかその程度のものではあるが。先輩のあまのじゃくな部分もピアノの前では誤魔化せないようで、音に出る。
だから私は先輩のピアノを聞くと安心する。言葉や態度では分からない先輩の気持ちが伝わるようで。
「おい」
「わ!びっくりしたぁ」
「何ぼさっとしてるんだよ。何回も呼んだだろ」
気付けば聖司先輩の顔がすぐ近くにあって驚く。彼の言葉通り何度も呼ばれたのだろう。先輩が気分を害したように溜息を吐く。先輩は子どものようにすぐへそを曲げる。そんなところも可愛くて好きなのだけれど。
それに今のことは私が悪い。ピアノを聞いているうちにぼんやりとしてしまうことは今回が初めてではない。言い訳をさせてもらえるなら、先輩のピアノは落ち着くから。
「ごめんなさい、ぼーっとしてました」
「ピアノを聞かせろと言ったのはお前だぞ」
やっぱり怒っちゃった。
どう弁解しようか考えていたら、先輩が私の隣に腰を下ろした。最初に座った時は驚いた上質な皮の素材のソファーが二人分の体重を受け止める。
「あれ、もうピアノ止めちゃうんですか?」
「誰かさんが聞いてないみたいだからな」
う。
そう言われると何も言えない。でも聞いてなかったわけじゃない。心地良い音をもう少し聞いていたかった。
「でもまだ弾きはじめたばっかり……」
「うるさいな、休憩だよ休憩!」
また怒られちゃった。今日の先輩はご機嫌ななめ?
下手なことを口にしたらまた怒られそうなので、黙ったまま隣の先輩の様子を窺う。
「……大体、何しにきたんだよお前は」
「え」
「ピアノピアノって。ピアノが聞きたいだけなのか。せっかく2人でいるのに」
そう言った瞬間、先輩の頬が一気に赤くなった。
可愛い。……じゃなくて。
「ああ、もう!今のは無しだ!いいな?」
「嫌です」
「おま……!」
「聖司先輩ごめんなさい。もっと2人の時間大切にしなきゃ、ですよね?」
もう少しで留学してしまう先輩。準備のために数日向こうに行っていただけでも寂しかったのに、本格的に留学してしまえばもっと寂しい思いをすることは間違いない。
離れる前に、と留学前の忙しい合間をぬって2人の時間を作ってくれている先輩の優しさを、私は分かっていたはずなのに。
ごめんなさいと大好きの気持ちを込めて、隣の先輩にそっと寄りかかる。落ち着く、先輩の体温。
「……分かればいいんだ」
声に不機嫌さを滲ませつつも、抱きしめてくれる先輩。でも知ってるんだ。先輩はもう怒ってなんかない。照れているだけ。
「何がおかしい」
「あ、えっと……留学もうちょっとですね。緊張しますか?」
思わず笑ってしまった私に先輩がまたぶすっとするのが分かった。可愛いと思ったなんて告げるとまた怒ってしまうので、慌てて話題を変える。
「緊張はしない。向こうに行けば必死でそれどころじゃないだろうしな」
「上手い人たちばかりだから?」
「ああ。どこまでついていけるのか。……負けるつもりはないけどな?」
ブランクは大きいと先輩は言う。それに海外に目を向ければ先輩レベルのピアニストがあちこちにいるらしい。
「……先輩なら大丈夫です」
「大丈夫、ね」
苦笑する先輩。音楽のことなんて分からないくせに、とか思われてるんだろうな。無責任に、とか。
何も分からないけど。分からないからこそ。
「先輩のピアノ、大好きです」
初めて聞いた時からずっと。この気持ちは嘘じゃない。
「先輩の手は、ピアノを弾くためにあるみたいですね」
骨張って大きい彼の手を取る。いつだったか、喫茶店で手の大きさを比べたことがあったっけ。女のものとは比べものにならない大きな手。
この手からいつも心地良い音が生み出されるのだ。
「……俺もそう思ってた」
私の話を静かに聞いていた先輩が、自分の手を見つめながら口を開いた。
「俺の手はピアノを弾くためにあるって。それしかないって」
「でも最近違うって思うようになったんだ」
思いがけない言葉に、彼と同じように手元に落としていた視線を先輩に向けると、まっすぐな目がこちらを見ていた。
先輩はいつか私の目がずるいと言っていたが、私からすれば彼の目の方がよっぽど。
「……お前に触れるためにあるんだ」
ずるい。動けなくなる。
先輩の手が私の頬を撫でる。くすぐったくて、ドキドキする。
「ん……」
そのまま先輩の顔が近づいてきて、静かに口付けられる。何度経験しても、キスの瞬間は慣れない。
先輩が大好きって気持ちが溢れる。
「ピアノしかなかった俺にお前って大事なものができた。お前に触れる度、感謝してるんだ。これでも」
私を自分の胸元に押しやるように抱き締める先輩。素直に言葉にするのは得意じゃないのに……ああ、泣きそうだ。
「ありがとう、ございます」
本当は寂しい。先輩がピアノの道に進むことは嬉しいし、先輩のピアノをもっとたくさんの人に知って欲しいとも思う。
だけど心のどこかで海外になんて行かないでほしいと思う自分もいて。私が1番先輩の夢を応援しなくちゃいけないのに。
そんな私の葛藤とか寂しさを、先輩はちゃんと見抜いてくれていたんだ。
「なるべく時間作って帰国する」
「……うん」
「寂しくなったら言え。電話もする」
「……うん」
「浮気、するなよ?」
「……ふふ、しませんよ」
繋いだ手に力が込められる。
先輩は私の不安を取り除こうと一生懸命になってくれている。私がそれに応えなくてどうする。
私はこんなにも先輩に思われている。留学は寂しいけど、心は通じあっているから大丈夫。
「大丈夫です。きっと、先輩の手はピアノと私、両方とも赤い糸で繋がってるんですよ」
「赤い糸?」
赤い糸を信じるか、と以前尋ねられた時は言葉を濁したけれど今なら信じられる気がする。ううん、信じたい。
「ピアノからも私からも先輩は離れられないんです。覚悟しておいて下さいね?」
私からも繋いだ手に力を込める。大丈夫。繋がってる。
「……はは。言うようになったな?お前」
先輩も見えた?赤い糸。
「俺だって両方離してやるもんか」
唇を寄せられる時に閉じた視界の先に、永遠に続く赤い糸が見えた気がした。
end.
タイトルお借りしました!魔女のおはなし