迷子だ。世間一般的に私の今の状況は迷子と呼ぶのだろう。高校生にもなって笑えない。しかも学校内。
言い訳が許されるなら、ここは自分の学校ではないはばたき学園だから。
生徒会の交流活動の一環で、ここ、はばたき学園にやってきた。生徒会室を確認しないまま御手洗いに行った私が間違っていた。
どうしよう。もう会議始まってるよ……。
気持ちだけが焦る。放課後のためか生徒があまり見当たらない。ここの棟自体が普段使われていないのだろうか。静けさが不安を煽る。
迷子の子どものように泣き出したい気持ちになった時、ピアノの音が耳に届いた。その音は不思議と胸にすとんと落ち、不安が消えていくのがわかった。
音色に吸い寄せられるように歩くと、辿り着いたのは音楽室。そっと中を覗いてみる。
――きれいな人。
弾いていたのは男の人だった。見惚れる、という言葉が相応しい。私はその人に惹き付けられた。
綺麗だけど、どこか悲しそうな音色。閉じた瞳の奥で何を思っているのだろう。
ふと演奏が止まった。開かれた瞳が敵意を隠しもしないでこちらを見据えていた。
「……何だよ」
「あ、ごめんなさい、邪魔するつもりじゃ……」
「部外者に覗き見されて、邪魔以外の何ものでもない」
その通りなんだけど、きつい言い方をする人だな。
少し怖い。でも伝えたい。
あなたのピアノで、私は安心できたこと。
「あ、あの……ピアノ、素敵でした!」
「……お前、誰?うちの学校じゃないみたいだけど」
「はね学の森あざみです。今日は生徒会の交流で……」
「じゃあさっさと生徒会室行けよ」
つ、冷たい……。そんなに演奏を邪魔されたことを怒っているのだろうか。
「実は、迷子になっちゃって……」
「は?迷子?校内で?」
信じられないといった表情を浮かべる彼。そりゃあ、あなたにとっては見慣れた校内かもしれないけど、私にとって初めて来る場所なんだから仕方ないじゃない。
「ピアノ、教えてくれませんか?」
「……俺がお前に?」
「あなたみたいに心が温かくなる音を出してみたいんです!一応高校に入るまではピアノもやってました」
唐突に言った言葉に、誰より自分自身が一番驚いている。こんな怖い人に無茶なお願い、聞いてもらえるわけないのに。
だけど、今まで聞いたどの音色より心に響いたの。
「嫌だ」
「お願いです!」
「嫌だ。理由がない」
「い、1曲だけ!頑張って練習もします、才能がないと思ったらもう見放してくれもいいです!」
名前も知らない人に縋りつく私はひどく情けなく映るだろうか。それでもいいと思えるくらいの音だった。
「……1曲だけだからな」
根負けした、という溜息を吐く彼。迷惑そうな顔を隠しもしない。
だけどオッケーしてくれた!嬉しい。
「ありがとうございます!」
「そこもう1回」
予想はしていたが、彼はスパルタだ。1日おきに通っているが、ここ最近は寝ても覚めてもピアノ中心の生活だ。明後日にはここまで弾いてこい、と平気で言う彼に見放されないように必死で練習する毎日。ピアノは幼い頃から習っていたが、ここまで練習に励むのは初めてだ。
彼――設楽聖司先輩。最初はどうなるかと心配だったが、意外に面倒見がいい。きちんと練習さえしていけば、それに応えてくれる。
きつい口調は不器用なだけなのだと知った。本当は優しい人。弾けるところが増える度に、先輩の知ってるいることも増えていった。
「お前、いつもここ間違えるな」
「指がギリギリなんですよね」
女の標準より少し小さいのだろうか、私の手はピアノのオクターブがギリギリ届くくらいの大きさ。華奢な女の子の手より、自分の弾きたいものを弾ける手が欲しいとずっと思っていた。
「小さい手」
「先輩は大きいですよね。いいなぁ」
自分の手を見て普通だろ、と呟く先輩。骨張った甲にすらっと長い指。
男の人の手だ。教えてくれる先輩の手によく見惚れてしまうのは秘密の話。
触れたい、と思ってしまうことも。
チャイムの音が鳴り響き、顔を上げると時計と夕焼け色をした空が下校時刻を告げていた。学校が違うため、どんなに急いで来ても練習時間は限られてしまう。
毎回下校時刻まで付き合ってくれる先輩は、やっぱり優しい。
「また明後日ですねー。今日もありがとうございました」
頭を下げてから机の上に置いてあったパックのいちごミルクに口付ける。ずっと置いてあったため温くなっているのは仕方ない。
「お前、いつもそれ飲んでるな」
「好きなんですよ。先輩も飲みますか?」
いらないと言う間を与えずにピンクの紙パックを手渡せば、受け取る先輩。いちごミルク、似合わないなぁ。
ストローからピンクの液体が先輩の口に流れ込む。途端、彼は咳き込んでしまった。
「甘すぎる。よくこんなの飲めるな」
「美味しいのにー」
仏頂面で返されたそれを再び口に含む。この甘ったるさがいいのに。
あ。
「間接キスですね」
「な……!」
思ったままを言えば、先輩は真っ赤になってしまった。たかが間接キスでこんな反応をするとは思わなかった。その意外性が可愛い。
「先輩可愛い」
「うるさい!もう帰る」
そこで本当に帰ってしまう辺りが先輩だなぁと思う。
先輩がいなくなっただけで、がらんとした寂しさが音楽室に押し寄せる。
先輩といると楽しい。先輩のことを知る度、嬉しくなる。もっと知りたいって思うんだ。
この気持ちを、何と呼ぶのか本当は気付いていた。
「弾けた……!」
一度も止まらずに弾けた。注意されたところも直せた。完成、だ。
ピアノをやっていて楽しい瞬間はこういう時。途切れ途切れの音が繋がって曲になる。先輩みたいな音は出せないけれど、私には私にしか出せない音もあると信じたい。
早く明日になって先輩に聞いて欲しい。そう考えて、ふと思った。
完成すれば約束は終わり。もう、先輩に会えない。
胸が痛い。完成は嬉しいのに。先輩に聞いて欲しいのに。
もう会えなくなるなんて。
学校が違う私たちの繋がりなんて、この曲だけなんだ。
いつも通りのピアノの時間。本当は弾ける箇所をわざと間違える。こんなことがずっと続けられるとは思っていない。けれどせめて今日だけ。もう少し長く先輩と一緒にいたいの。
そんな私の願いも届かず、私のピアノを遮るように先輩の手がバァンと不協和音を奏でる。見上げた先輩は最初の時のような冷たい目をしていた。
「何なんだ?今日のお前」
「、え……」
「やる気がないなら帰る。そんなピアノを聞くために来てるんじゃない」
扉に向かって歩きだす先輩。失望したと言葉に滲み出ていた。
だって。だって。
「ちゃんと弾いたら、もう先輩に会えなくなっちゃうもん……!」
驚いて振り返る先輩。
言ってしまった。これを言ったらもう戻れないのに。
「か、完成したんです、本当は。嬉しかったし、聞いて欲しかった。でも……」
涙が溢れて、見つめる先輩がぼやける。
本当は分かっていた。私はあの時先輩の音だけに惹かれたんじゃない。きっと一目惚れだった。
触れたいと思う感情を抱いた時点で、それはもう好きだという証拠。
「完成したら、先輩に会う理由がなくなっちゃうから……嫌だったんです」
しんと静まり返る室内。
先輩がどんな表情をしているのか確かめる勇気はなくて俯く。見慣れた違う学校の音楽室の床が目に入る。
「弾いてみろ」
「え……」
「今度はちゃんと。お前の音を聞かせろ」
先輩の顔を見ると、笑っていた。それだけで安心するのが分かる。
先輩に聞いてもらう最後になるかもしれないピアノ。
心を込めて弾こう。感謝と好きの気持ちを込めて。
演奏が始まれば不安は消えた。楽しかった。終わればやりきったという満ち足りた気持ちだけが残った。
そんな私の頭を先輩がくしゃくしゃと撫でる。そして一言。
「悪くない演奏だった」
先輩にとっての最大級の褒め言葉だと分かるから、再び涙が込み上げる。
「もう泣くな」
「た、だって……」
「また教えてやる」
「え」
「会う理由が欲しいなら作ってやる」
だからまた来いと柔らかく笑う先輩。こんな表情もするんだなぁ。
知らないことがたくさんある。それをまだまだ知りたい。
大好きです。先輩。
いつかそう言える日まで、傍にいられますように。
end.
設楽のバンビへの気持ちはまだ恋じゃないんだと思います。少し気になる程度の存在。バンビ片想い気味のお話でした。
小川さんからのリクエストで「バンビが他の高校だったら」でした。
リクエストありがとうございました!