鬼滅短編 | ナノ
(下)

 適当に流し見ていたお昼の情報番組が終わり、時刻が14時を回ったことに気が付いた。
 わたしはソファに身を沈め、隣でコーヒー片手に新聞を読んでいる不死川に「ねえ」と声を掛ける。すると不死川は緩慢に視線をわたしへと移し、目の前のローテーブルにコーヒーが入ったマグカップを置いて、空いた方の手で「ん、」とわたしの頭を自分の胸元へ引き寄せた。ぽんぽん、とあやすように私の頭を撫でる彼の手つきがやけに優しい。たぶん、わたしの声から僅かに不満がにじみ出ていたのを敏感に感じ取って、機嫌をとろうとしているのだと思う。わたしはそれが分かっていながらも、まんまと彼の策にはまって、先ほどまでの不満なんてどこかへ消えてなくなってしまうのだ。
 不死川の広く厚い胸板に額を押し付け、腕を彼のからだへ巻き付けて、彼のにおいを肺いっぱいに吸い込む。柔軟剤のにおいと、不死川のにおいが混ざって、わたしの大好きなにおいがした。

「久しぶりに休みが被ったから、どこかへ出かけたかったのにな」
「あー、悪かったよ」
「べつに、いいよ」

 朝から出かける約束をしていたのに昼過ぎまで寝ていた恋人を快く許してやる、寛大な彼女なのだ、わたしは。冗談めかしてそう言うと、不死川は「ハイハイ」と適当に流してわたしの髪をくしゃりと乱した。
 わたしは、不死川実弥という男の、この節くれ立った武骨な手がすきだ。筋の入った腕がすきだ。からだに刻まれている数多の傷もいとおしく、鋭い目も、ぶっきらぼうな物言いも、彼のぜんぶがすきだ。
 不死川は、タバコを吸わない。こんなにも吸っていそうな見てくれをしているのに、絶対に吸わない。酒も嗜む程度で、自分を見失うほどは飲まない。仕事でたくさんの生徒に教えている数学は、なるべくわかりやすい授業になるように、いつも家でたくさん準備していることを、わたしは知っている。彼は、誤解されやすいけれど、実は誰よりやさしくて、ていねいで、素敵なひとなのだ。わたしは不死川がすきだ。たぶん、ずっと昔からすきだった。

 間取り1Kのちいさなアパートの一室で、わたしたちは暮らしている。
 桜の花弁が舞い散る、風の強い春の日に出会ったわたしたちが恋人という関係になるまで、そう時間はかからなかった。たぶん、わたしたちは出会うべくして出会って、結ばれるべくして結ばれたのだとわたしは思っている。わたしがそう言うと、不死川はいつも「あほか」とあきれたようにちいさく溜息をこぼして笑うのだった。

 わたしは、不死川と出会ってから今までの数年のあいだに一度たりとも、彼にあの夢の話をしたことがない。なぜかと聞かれればなんとなくとしか言いようがないのだが、とにかく、"前世"の話を口に出さないことは、二人のあいだでなんとなく暗黙の了解であったとわたしは勝手に思っている。
 当然、不死川もそういった話を口に出したことはないし、彼に至っては、そういう素振りを見せたことすらない。けれど、たぶん彼は、ぜんぶ覚えているのだろうと、わたしは思っている。それこそ、わたしが知らない部分まで、ぜんぶ。そう考えると、ちょっとズルい気もした。わたしが知らないこと、彼だけが知っているなんて、ズルい。…なんて、わたしが勝手に暗黙の了解だと思っていただけで、実際には不死川はわたしの夢に出てきたあの男とはまったくの別人であるかもしれないのだ。もしかするとわたしは、彼があの夢とまったくの無関係であった場合に少なからず失望してしまうのがこわくて、その話を切り出せないだけなのかもしれない。
 けれど不意に、聞いてみたくなった。わたしたちの"前世"を覚えているのか。わたしが死んだときの、あの約束を覚えているのか。――これも、約束だと思っているのはわたしだけかもしれないのだけれど。あの夢に関するすべてのことは、何の確証もないのである。
 そう思うと、不死川の答えを聞くのはやっぱりすこしこわくて、結局、核心に触れることはできない。

「ねぇ、不死川」
「…ンだよ」
「わたしたち、"前世"でも恋人だったのかもね」

 わたしは不死川にひっついていたからだを離し、つとめて真剣な表情で、けれど口調にすこしのユーモアを含んで、"暗黙の了解"という、二人のあいだにずっと存在していた――と、わたしが勝手に思っていた――薄い膜をそっと破った。
 不死川はすこし眉を寄せて、それから「はァ?」と呆れたような声を出す。わたしにはそれが、わざととぼけているようにも思えた。

「だって、初めて不死川に会ったとき、わたし、なんだか泣きたいような、たまらない気持ちになったもの。きっとわたしたち、巡り合うのが運面だったんだよ、たとえば、前世でまた会おうねって約束したとかさ。ね、そう思わない?」
「…思わねェな、まったく」
「ロマンのないひと」
「なんとでも言え。どっから出てくんだ、そんな発想」

 やっぱり不死川は、"前世"に関して覚えている素振りすら見せない。けれども、やっぱりわたしは彼が全部知っているのだという気がしてならないのは、いったい何故なのだろう。
 望んでいたような答えが得られなくて、がっかりしたような、ほっとしたような、複雑な自分の心境に対してちいさく溜息をついて、わたしは空になったマグカップを持ってソファから立ち上がる。

「…恋人なんかじゃ、なかったからなァ」
「うん?なんか言った?」
「なんでもねえよ」

 そう言うと不死川も立ち上がり、クローゼットのなかから薄手のコートを出して、袖を通した。「あれ、どこか行くの」わたしは首を傾げる。すると彼はわたしのトレンチコートを手渡しながら、「出かけるんだろうが」と言った。
 わたしはそれだけで嬉しくなって、洗おうとしていたマグカップを水にだけ浸けて、彼の手からコートを受け取ると、嬉々として腕を袖に通したのだった。

 アパートの外に出て、ふたり並んで歩く。日曜といえどあまり人通りは多くない、閑静な住宅街である。
 柔らかな陽射しがわたしたちをやさしく照らしている。気付けば冬が明け、またこの季節がやってきていた。とおい昔のわたしが死んだ、春。数年前のわたしが不死川と出会った、春。そして――。
 ざあ、と強い風が吹いた。風は地面から砂埃を巻き上げながら、わたしと不死川の髪やコートを強く靡かせる。わたしは、風に乗って飛んでくるちいさな砂塵が目に入らないように、ぎゅっと強く目を閉じた。その一瞬のあいだ、視界が暗闇に包まれる。
 そのとき、わたしの瞼の裏に、見覚えの無い景色が浮かび上がった。否、見覚えは、ある。ずうっと昔、生まれるよりも前から知っていた、泣きたくなるくらい懐かしい情景、人々、会話、そのすべてが閃光のように脳裏を駆け抜ける。
 わたしの、もう一つの、生と死。

 ――そうですね、死んだら終わりですけどね、それでも俺は…

 ああ、そうか。なにもかも全てを思い出し理解する瞬間は、春先の突風のように唐突で、それでいて笑ってしまうくらいにあっさりしていた。そうして、わたしは今までずっと感じていた違和感の正体に、ようやく気付く。
 そうか、わたしは。

「…名前?」

 いつのまにか、風が止んでいる。不死川が訝しげな、それでいてどこか心配そうな顔をして、俯くわたしを覗き込む。わたしは何も答えず静かに顔を上げて、ただ彼を見つめた。
 わたしたちは、前世で恋人なんかじゃなかった。
 そんな関係じゃ、なかったのだ。

「…しはん」

 ちいさく口をあけて、囁くようにそう溢せば、不死川はほんの一瞬だけ驚いたように目を見開いて、けれども直ぐにその表情から動揺を消した。そうして、わたしたちは暫く無言で見つめ合う。最初に沈黙を破ったのは、不死川の方だった。彼は、きわめて落ち着いた声色で、ただ一言「やっと、思い出したかよ」と言った。

「やっぱり、知ってたんだね、不死川は」
「…かもな」
「なんで黙ってたの?教えてくれたって、よかったじゃない」

 ――前世のわたしがあなたの"継子"で、そして…男だったってこと。
 わたしは苦笑して、ちょっと肩をすくめてみせた。不死川は「別に、ねえよ、理由なんか」といつもと何ら変わりない声で言った。

「もしかして、わたしの為だったりする?」
「はァ?」
「"結ばれるべくして結ばれた"わけじゃなかったって知ったら、わたしがショック受けると思ったとか」
「だから、どっから出てくんだよ、そんな発想」
「えへへ、まあね」
「褒めてねェ」

 呆れたように笑って、わたしの手をひいて歩き出す不死川のこと、わたしはやっぱり好きだなあって思う。
 昔のわたしたちは恋人なんかじゃなかったし、あの時のわたしたちの間にあったのは恋情でも友情でもなかったけれど、それでもわたしは――(俺は)――確かに、この不死川実弥という男を特別に思っていた。この人の為なら死んだっていいと、真剣にそう考えていたくらいには。
 その強さに憧れていたし、尊敬していたし、彼の存在に救われていた。やさしい言葉なんて、最初から最期まで何ひとつ掛けてくれやしなかったけれど、わたしはちゃんと知っていた。彼が、ほんとは誰より愛情深いひとだってこと。

「お前は、男でも女でも変わらねぇな。昔から、夢見がちな奴だった」
「ふふ、そうだね。…不死川は、ちょっとだけ変わったね。昔より、雰囲気がやさしくなった」

 繋いだ手にちょっと力をこめると、「そうかよ」なんて言いながら、不死川も握りかえしてくれる。その手のぬくもりは、春のあたたかさによく似ていた。
 わたしたちは、"前世"のわたしたちと同じようで、きっとまるきり同じというわけではない。あの時とは、環境も、状況も、関係も違うのだから。わたしは名字名前という女でしかなく、彼は不死川実弥という男でしかない。今ならそれがよく分かる。
 今のわたしたちの姿が、前世のわたしが望んでいたような未来であるかと問われれば、たぶん、すこし違うような気がする。けれど、こうして穏やかな表情の彼と並んで歩いてゆけることは間違いなく幸せだと思うし、わたしは、今の自分がけっこう好きなのだった。

 ――俺たち、また会えましたね、師範。

「…?何か言ったか」
「ううん、なんにも」

 暖かな春の光の中、また風が吹く。風は、わたしたちの肌を滑り、髪をなびかせ、コートの裾をひるがえして、そうして去っていった。

 不死川は、タバコを吸わない。酒も嗜む程度で、仕事にも熱心。それから、不死川実弥には、春が似合う。わたしは彼のすべてが好きで、きっと、ずうっと前から、そうだったのだろう。







『師範、俺はね、あなたのことが好きですよ』
『…なんだいきなり、気色悪ィ』
『あっ、ひどいな、ほんとですよ、あなたのそういう、自分を傷付けながら他人を守ろうとするところ、たまらなく好ましいと思ってるんです』
『分かったような口きくな、クソがァ』
『あはは、口悪いなぁ、もう…ねえ師範、もし生まれ変われるなら、俺は師範とまた会いたいですよ。平和な世界で、幸せに笑っているあなたを見たい』
『ふん、死んだら終わりだァ。"また"はねェ』
『そうですね、死んだら終わりですけどね、それでも俺は…不死川実弥にまた会える未来があったらいいなぁって思いながら、死んでいきたいんです』
『…くだらないこと言ってねェで剣の腕でも磨け、馬鹿』
『あはは、そうですねぇ』


 ――これはただの俺の希望の話で、ばかみたいな想像でしかないですけど…でも、そんな未来も、案外本当に、あるかもしれないですよ。



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企画サイト「kopfkino」様に寄稿したお話

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