鬼滅短編 | ナノ
うそつき、ほんとは
 蝶屋敷の中は、いつもほのかに薬と消毒液の匂いがする。屋敷の主である蟲柱、胡蝶しのぶは医学や薬学に精通し、怪我を負った隊士たちを受け入れ治療から機能回復訓練に至るまでひととおりの世話をすることも多いから、柱の所有する屋敷とはいえここは多くの隊士たちにとって親しみのある場所であった。名字名前にとっても、それは例外ではない。中庭で白い前掛けを付けて洗濯物を干していたアオイに一言声を掛けるなり躊躇いなく玄関を上がり、勝手知ったる様子で屋敷の床板を踏みしめ闊歩する。向かう先は勿論、傷病人用のベッドが並んでいる部屋である。名前は、部屋の入り口に立つと、こちらに背を向けるようにして寝ている男のサラリとした綺麗な黒髪を見つめた。相変わらず、女の自分も嫉妬するほど艶やかな髪質だ。

「村田。まだ寝てんの」

 部屋の中に入り、大股でベッドの傍らまで近づくと、村田は、頭をもたげてちらりと名前を見た。顔を見るなり盛大に眉を顰めて「うげ」とでも言いたげな顔をする村田に、名前は心外だ、と片眉を上げて笑みを作ってみせる。

「…なんだよ、笑いに来たのか」

 村田は白い布団の上に体を横たえたまま、ジト目で見上げてくる。その額やら腕やらに巻かれた真っ白な包帯にうすらと血の赤が滲んでいるのを視界に入れて、名前は村田に気付かれない程度に目を細める。つとめて平然とした声色で「笑う?何を?」と返せば、彼は大きな溜息を吐き出して、強くもない鬼にまたこんな怪我負わされてることだよ、と吐き捨てた。

「あはは、まさか。生きていて良かったと思ってるよ」
「笑ってるじゃねーか」
「村田が弱いのなんて、いつものことじゃんか」
「……」
「ああでも、あんたこの前、服溶かされて胡蝶さんの前で全裸になったらしいね。それはさすがに面白すぎるからやめてね」

 村田を指さし、あはは、と声を出して笑う。那田蜘蛛山の一件で、村田は敵の血鬼術にかかり溶解されかけていたところを蟲柱に救出されたのだった。その際、体までは溶かされなかったが、隊服はすべて溶け、柱とはいえ年下の女の子である胡蝶しのぶに全裸を晒してしまったことを、村田はそれなりに気にしていた。そして彼が気にしているということを、名前は当然知っている。知っているが、顔を真っ赤にして「やめろ」と怒る村田が面白くて、ついからかってしまうのだ。
 名前が鬼殺隊に入隊したのはもう何年も前になるが、村田は昔から変わらない。変わらないから、好ましかった。どこまでも平凡で、決して才能や実力があるわけではないが、ただ、今日まで生き残ってきた。鬼殺隊士にとって、生き残るということは当たり前ではない。事実、名前自身なんども、目の前で仲間の命が簡単に奪われていく瞬間を見てきた。その中には、仲の良かった子も、名前より実力のある者だって、沢山いた。いつ誰が死んでもおかしくない世界だった。だが村田も、名前も、今日までこうして生きている。

 村田と名前は、同じ時期に最終選別を突破した同期である。その年の選別は、参加した子ども達の殆ど全員が生き残り、鬼殺隊になった。――宍色の髪をした、ひとりの少年を除いて。圧倒的な強さを持っていた少年は、たったひとりで殆どの鬼を殲滅し、選別参加者の多くを助け、そして、たったひとり、死んでしまった。あの日から何年も経った今、選別で生き残った同期たちの大半が既に鬼との戦いでこの世を去り、宍色の髪の少年のことを口にする者はいなくなったが、けれど名前も、村田も、あの少年の姿を忘れてはいない。――そして、彼も。
 名前が宍色の髪の少年を思い出そうとするといつも、その隣にいた少年の姿も一緒に脳裏に浮かぶ。宍色のあの子と一緒にいた、彼。選別の序盤で怪我をして意識を失った、彼。暫く経ってから再び任務で会った時、別人のように一切の表情を消し、別人のように強くなっていた、彼。そして、いつの間にか柱にまで上り詰めていた、彼…。

「お前は、俺と違って強いもんな」

 村田は、ひとしきり笑い終えて息をついた名前に、言った。その声には、特に何の他意も含まれてはいない。ただ、思ったことをそのまま口にしただけのようだった。名前は目を丸くする。そして、肩を竦めた。

「そうでもないよ」

 ――彼に、比べたら。

 たしかに、血のにじむような努力をしてここまで来た。その体はおよそ女と思えぬほど引き締まった筋肉に覆われ、自慢だった長い髪も、鍛錬中にばっさりと落としてしまってからはずっと少年のように短い。いろいろなものを犠牲にして、強くなることだけを考えて努力したが、結局、彼には到底及ばない。彼はきっと、想像もつかぬほどにいろいろなものを犠牲にして、孤独に努力を重ねてきたのだろうな、と名前は思う。

「でもお前、また階級上がったんだろ」
「まあね。甲になった」
「次の柱候補だってみんな言ってる。俺は同期として誇らしいよ」
「まあ、村田のうっすい水の呼吸よりは、洗練されてるかもね」
「うるせー!ほんとかわいくねーな!おまえ!」

 大声を出して、また傷が痛んだのだろう、村田がウッと呻く。名前はまた、声を上げて笑った。私だって本当は、かわいくなりたいよ、とは、とてもじゃないが言えなかった。

「村田も、今よりもっと努力すれば強くなるよ。柱は無理でもさ」
「いや、別に俺はいいよ…」
「なんで」
「そういうのはとっくに、諦めてるからさ」
「諦める?」
「強くなるとか、柱になるとか、そういうことをだよ」

 お前や冨岡とは違うんだ。と村田は言った。名前は、一度ゆるりと瞬きをして、外から入り込んできた風を孕んで白いカーテンが膨らむのを、しばし見つめていた。どうやら村田には、名前と彼―冨岡義勇が、同じような位置にいるように見えるらしい。実際は、あの日の最終選別で自分たちと同じく宍色の少年に助けられた同期であるとはいえ、冨岡は今や水柱であるし、当然、天と地ほどの差があるに決まっている。それに、名前が思うに冨岡義勇という人は、望んで柱になったわけではないように見えた。ただ、これに関しては、本人から直接話を聞いたわけでもなく名前が冨岡を見ている過程で勝手にそう感じただけであるので、本当のところがどうなのかは分からない。ぼんやりとそんなことを考えながら、名前はカーテンから視線を村田に戻す。そうして「あ、そ」とできるだけそっけない風に返答した。本当は少し、冨岡義勇という存在に自分が近付けたような気がして嬉しかったのだが、それを村田に悟らせたくはなかった。

「村田が何を諦めてようが、知ったことじゃないけどさ。死なない程度に鍛えておいてよね」
「言われなくても死ぬつもりはねーよ」
「そ、なら良かった。同期がこれ以上減るの、寂しいからさ」

 名前はちょっと眉を下げて笑ってみせる。実際のところ、どんなに鍛えていても、実力や才能があったとしても、運が悪ければあっけなく死ぬ。それはもうとっくに分かっていて、だからこそこうして怪我の噂を聞きつけて姿を見に来ては、数少なくなってしまった同期が今日も生き永らえているという事実に安堵する。

「名前みたいに意志の強いやつは、何かを諦めたりすること、ないんだろうな」

 そろそろ次の任務に向かわねば、と部屋を出ようとする名前の背中に向かって、村田は嫌みのない、けれどどこか羨ましそうな響きを含んだ口調で、言った。名前は立ち止まり、ゆっくりと振り返る。

「ないね。私は諦めない」

 勝ち気な笑みとともにそれだけ言うと、村田の返事も待たずに今度こそその場を後にした。


***


 先ほど村田には言わなかったが、次の任務は、冨岡義勇と合同で向かうことになっていた。蝶屋敷からは少し離れた場所に位置する山の麓で落ち合う予定で、名前は約束の時間よりもやや早めに到着した筈だったが、冨岡は、もう既にそこにいた。
 静かに佇み、イロハモミジの巨木の梢を見上げる冨岡の表情からは、特に何の感情も読み取れない。その無表情の顔に木漏れ日が落ちているさまは、ひどくうつくしかった。思わず見とれ、束の間その場に立ち尽くす。
 ああ、好きだ。名前は思わず、そう口にしてしまいそうになって、けれど喉まで出かかったその言葉を必死に飲み込んだ。

「……来たか」

 名前の存在に気付いた冨岡が、ゆっくりと振り向く。向けられた群青色の瞳はまるで水の底のように静かで、その静謐さが、名前の胸の内をざわざわと落ち着かなくさせていることなど、この人は想像すらしていないのだろうな、と名前は少しだけ苦笑した。

「ごめん、お待たせ」
「いや」

 冨岡はそれだけ言うと、そのまま名前から視線を外してすたすたと歩き出し、迷いなく山の中に入っていく。今日は、夜が更ける前に、この山を越えなければならない。名前は置いて行かれないよう必死でその後をついていくが、しかし隣を歩くことはしなかった。否、できなかった、という方が正しい。冨岡義勇と名字名前は同期に違いないが、決して、同列ではないのだ。少なくとも名前はそう思っている。選別後に初めて再会した日から今まで、ずっと。
 努力の量も質も違う、持って生まれた才能が違う、心に抱えているものが、違う。
 そうして冨岡が水柱になった時、名前が感じていた”違い”はいよいよ確固たるものになった。決して届かぬ存在になった。そのことに対して名前はたった一度だけ、どうしようもない虚しさと寂しさを覚え、そして、自覚した。この気持ちがただの憧れや羨望ではないことを。

「(村田、ごめん。私、うそついた)」

 ――ほんとうは、あるよ。諦めてること、ひとつだけ。

 冨岡義勇は、この先何があろうとも、名前だけを見ることはない。恋人として隣に並ぶことも、唯一無二の戦友として肩を並べることも、きっと無い。冨岡の人生に、自分が交わるようなことは、今後も決して無いのだ。分かる。なぜなら、ずっと彼だけを見てきたのだから。明確な根拠など何も無いが、ただ分かるとしか言いようが無い。分かるから、諦めている。
 だが、それでよかった。名前が好きだったのは、彼のそういうところだったのだから。いつでも孤独で、きっと同期の中の誰よりも最終選別のあの日に囚われていて、それでも想像を絶する努力と静謐さの中に隠し持つ強い意志で柱にまで上り詰めた、その強さが、好きだった。たとえ、刀を振るう彼が時々、まるで泥濘の中でもがき苦しんでいるように見えたとしても、そしてそこから救い出すことが出来るのはきっと自分ではないのだと悟ったとしても、悲しくはなかった。それでよかったのだ。
 とはいえ、せめてその水面のように美しい青い瞳に一瞬でも自分を映してはくれないかと、そう思う時もある。凪いだ水面のような、感情の一切を読み取らせないその瞳の中に、ただ映り込むだけでいいから。――矛盾している、と名前は自嘲めいた笑みを零した。女らしさを捨ててまで強くなりたかったのは、少しでも冨岡が立つその場所に近付きたかったからだ。冨岡は、同期である名前や村田に目もくれず、たった一人でどんどん先へ行ってしまうから。だから少しでも同じ場所に近付くには、半歩後ろを歩くためには、強くなるしかなかった。女性として愛されることは簡単に諦められても、彼と関わりや繋がりを持つことは諦められない。結局のところ、名前という人間は諦めが悪い。

「ねえ、冨岡。モミジ、きれいだよ」

 半歩後ろから、呟くように言ったその言葉だが、しかし冨岡はぴたりと足を止めて、整った顔を頭上で枝を広げるモミジの木々に向けた。その表情からはやはり何の感情も読み取ることはできないが、赤や橙や黄の葉を付けたたくさんのイロハモミジに囲まれてひっそりと佇む冨岡の全てがうつくしく、崇高ななにかであるかのように思えるのだった。自分で言ったことではあるが名前は、モミジなど見ちゃいなかった。ただモミジの巨木の梢を見上げる冨岡の、うつくしい横顔ばかりを見ていた。届かない、と思う。手を伸ばしたところで、この想いが冨岡に届き受け入れられることはきっと無い。
 モミジを見上げていた冨岡の白い顔が、不意に、名前を振り向いた。そして、その薄い唇が小さく開かれる。

「ああ、きれいだな」

 穏やかに細められた目尻は、微笑んでいるように見えた。きれいなのは、冨岡の方だ。名前は何故だか、泣きたくなった。ああ、好きだ。どうしようもなく。

 とっくに、諦めている。でも、ほんとうは、諦めたくない。

 冨岡への想いは、いつだって矛盾している。けれど名前は、この矛盾を生涯抱えながら生きていく自分のことが、それほど嫌いではなかった。


「(好き)」


 名前がその言葉を口にする日は、今後もきっと来ない。



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企画サイト「memento mori」様に寄稿したお話

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