006 秋雨の中、兎は紅色に染まる。 | ナノ




「……チッ」

雨の音がしとしとと聴こえてくる車内に、苛立った司狼さんの舌打ちが小さく鳴って消える。
司狼さんが何度キーを回しても、うんともすんとも言わないエンジン。つい先程までは、普通に動いていたというのに……。
さっきまでは司狼さんも笑っていたのにな。僕――晴はそんなことを思いながら窓の外を見た。雨に濡れる窓の向こうには、赤や黄色の世界が広がっていた――。




――それは先週末の夜。二人で夕飯を食べ終えて、リビングでのんびり過ごしていた時のこと。

「わ、綺麗ですねぇ」

テレビの画面一面に映し出された真っ赤に色づいた山々。僕が思わず上げた声に、隣で雑誌を見ていた司狼さんも視線をテレビへと向けた。
テレビは少しの間、アングルを変えながら赤や黄色に紅葉した木々を映したあと、リポーターの芸能人へと切変わる。

「自然の力でこんな真っ赤になるなんて凄いですよね。実際に見たら、もっと綺麗なのかな」

もう一回映らないかな。そんなことを思いながらテレビに目を奪われていれば、不意に司狼さんに声をかけられた。

「紅葉、見たことないのか?」

それに僕は頷いて答える。

「学校や公園にある木の紅葉とか、そういうのならあるんですけど。こんな風に一面真っ赤になっているようなのは見たことないです」

小学生の頃に遠足で行く予定だった紅葉狩りは、体調を崩した母の看病で行けずに終わってしまった。そんなことを思い返しながら、司狼さんに問い返す。

「司狼さんはあるんですか?」

僕はそんな深い意味もなく聞いたんだけれど。

「――まぁ、そうだな」

何かを考えるような様子でそれだけ言ったきり、黙り込んでしまった司狼さんを不思議に思いつつ。僕の意識は再び映し出された紅葉へと戻っていった――。




「おい、出かけるぞ」

とある朝、いつものように洗濯物を干していた僕は、唐突にかけられた言葉に首を傾げた。

「僕も? どこ行くんですか」

昨日は特に何も言っていなかった気がするけれど――。そんなことを思いながら聞いたけれど、答えになる言葉が返ってくることはなく。

「行けばわかる」

それだけ言うと、司狼さんはさっさと玄関へと向かってしまう。
たまに強引なんだよなぁ。僕は待つ様子のない司狼さんに、慌てて残りの洗濯物を干せば、着の身着のまま、司狼さんを追いかけた――。




司狼さんの愛車である黒塗りのセダンに乗せられて、一時間程経っただろうか。僕は煙草を燻らしながらハンドルを切る司狼さんの横顔をちらりと見た。
どこに向かっているんだろう。車が都心から少しずつ離れていくのは感じるけれど、どこを目指しているかまではわからなくて。
――まぁ、いっか。司狼さんが一緒にいるのだから、心配することもないだろう。そう思いながら窓の外に視線を移したその時だった。

「っ……うわぁ」

車が右折した先に見えたのは、赤や黄色に紅葉した木々が生い茂る山。つい先日、テレビの中に見たのと変わらない鮮やかな色の木々に、僕は大きく目を見開いた。

「司狼さん、これっ……」

僕は慌てて隣の横顔を見るけれど、返事はなく。だが、僕の反応に満足したのか、僅かに口角を上げた司狼さんは黙って山道へと車を進めていく。
ドライブコースなのだろう。山頂へと登る車道はしっかり整備されており、車道の両側の木々が自然のトンネルのようで、車で走っているだけでも楽しい。

「凄い、綺麗だ……」

車の外へと意識を向けていれば、不意にシートの脇に置いていた右手が、自分のものよりも大きく温かな手に包まれる。思わず司狼さんの顔を見上げたけれど、表情は先程までと変わらない。けれど、確かに重ねられた手の熱が嬉しくて。僕は重なった手はそのままに、窓の外へ視線を戻せば、柔らかな笑みを浮かべた――。




山頂へと着いた僕たちは、車外へと出た。そんなに高い山というわけではないけれど、普段過ごしている都心とは違う、澄んだ空気が心地良い。
山の麓の方を見渡せる駐車場の端へと駆け寄ってみれば、麓まで続く真っ赤な木々に、その下に広がる街並みはおもちゃのように小さく可愛らしい。まるでテレビや写真の中から切り出したようなその光景に、僕は後ろをゆっくり歩いてくる司狼さんを振り返った。

「司狼さん! 見て、真っ赤ですよ!」

綺麗なその光景を早く司狼さんにも見て欲しくて。早く、と呼べば、どこか面白そうな笑みを浮かべる司狼さんがゆっくりと僕の隣へと来る。

「ね、凄い……」

フェンスから身を乗り出すようにしながら麓を見下ろす僕の隣で、ふっと司狼さんが息をついた。

「――これは、本当に凄いな」

「ですよね! この間のテレビより、何倍も綺麗ですよ!」

司狼さんが自分と同じように思ってくれたのが嬉しくて。司狼さんと顔を合わせると、にっこり笑う。
――テレビより綺麗だと思うのは、生で見ているからだけじゃなくて、司狼さんと一緒に見ているからかもしれないな。そんなことを思いながら、再び景色を見渡していれば、隣にいる司狼さんが小さく噴き出した。
どうしたのかと首を傾げれば、司狼さんが口を開く。

「……お前も、意外と子供っぽいところがあるんだな」

言われたのは意外な言葉。思わずきょとんとしてしまったけれど、自分の行動が子供っぽかったのかと思えば、羞恥で顔が熱くなるのを感じた。

「ご、ごめんなさい……」

なんだか気まずくて顔を逸らせば、照れている僕が面白いのか、司狼さんは少し楽しげな声音で言う。

「別に悪いとは言ってないだろう」

「そうですけど……」

それでも、子供扱いをされることなんて殆どなかったことを思えば、なんだか照れ臭いし気まずい。顔を背けたまま、もごもごと口ごもっていれば、大きな手に頭をくしゃりと掻き撫でられた。

「近場だし、どうかとは思ったんだが……まぁ、喜んでもらえてなによりだ」

その言葉に、思わず司狼さんを見上げれば、微笑を浮かべた司狼さんと目が合う。
司狼さんも一緒に楽しんでくれている。柔らかな司狼さんの表情にそれを感じれば、僕も自然と表情が和らいだ。

「はい、凄く嬉しかったです。ありがとう」

はにかみ笑いながらそう言えば、満足げに頷いた司狼さんが、再び僕の頭を少し乱暴に撫でやる。

「――来年はゆっくり紅葉が楽しめる温泉にでも行くか」

さらりと口にされた来年の話。深い意味はないであろうその言葉が嬉しくて。

「はいっ!」

僕は大きく頷いた。そんな僕の返事に、司狼さんも満足そうに頷く。
温泉なんて行ったことないけど、きっと楽しいんだろうな。司狼さんと一緒に出掛けて、温泉に入って、紅葉を見て……絶対楽しいに決まっている。想像するだけでも楽しくて、思わず表情が緩む。
そんな僕の頬に、司狼さんの手が触れたその時だった。
司狼さんの手が触れるよりも早く、ぽつり、と頬を濡らした水滴に空を見上げれば、先程まで綺麗に晴れていた空は雲に覆われていて。ぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。

「っ……戻るぞ」

機嫌そうに舌打ちをした司狼さんは、それだけ言うとさっさと車の方へと歩いて行ってしまった。
もう少し、のんびりしていたかったな。突然の雨を恨めしく感じながら、僕は司狼さんを追いかけ助手席へと乗り込む。
……暫く止みそうにないなぁ。そんな大降りなわけではないものの、静かにしっかりと降る雨が、車の窓ガラスや道路を濡らしていった。

「とりあえず山降りて、茶でもするか」

「はい」

もう少し見ていたかった気はするけれど、この天気では仕方がない。僕は司狼さんの言葉に素直に頷く。
けれど、いくら待ってもエンジンがかかる気配はなくて。

「司狼さん? どうしたんですか?」

さすがに心配になって、声をかけると、暫しの沈黙の後かえってきたのは大きな溜息。

「はぁー……駄目だ」

「え?」

駄目って、どうしたんだろう。首を傾げて次の言葉を待っていれば、司狼さんはエンジンをかけるのをやめ、おもむろに煙草に火をつける。

「行かないんですか?」

とりあえず山を降りるって言ったのは司狼さんなのになぁ。そんなことを思いながら聞けば、司狼さんは煙を吐き出しながら、忌々しげな様子でぼそりと呟いた。

「……動かねぇ」

思いもよらない言葉に、確認するように聞く。

「動かないって……車、壊れちゃったんですか?」

「みてぇだな。……ったく、さっきまでは問題なかったっつうのに」

――ということは。

「帰れないんですか?」

洗濯物、出しっぱなしなんだけどな。そんなことを思ってから、自宅の方も雨が降っていたら、結局どうしようもないかなんて思う。僕がそんなことを考えていれば、司狼さんは僕の質問には答えず、どこかに電話をかけ始めた。
白石(しらいし)さんかな。若頭補佐でもある司狼さんの友人のことを思い浮かべていたけれど、そうではなかったようで。

「一時間くらいでロードサービスが来るそうだ。……まぁ、それまではこのままだな」

そう言いながら短くなった煙草を消せば、すぐにまた新しい煙草に火をつける。愛煙家ではあるもののヘビースモーカーではない司狼さんが、間断なく煙草を吸うのは機嫌が悪い証拠だ。
せっかく来たのにこんなことになったら、苛立つのも仕方ないのかもしれないけれど……。隣から聞こえてきた舌打ちに、僕は少し考えてから司狼さんの服の裾を引いた。

「――司狼さん」

司狼さんは僕の声に、視線だけをこちらに向ける。

「なんだ」

眉間に皺の寄った司狼さんの顔。僕はそんな不機嫌そうな様子はお構いなしに、にっこりと笑いながら口を開いた。

「今日、連れてきくれてありがとうございました。車が壊れちゃったのは予想外でしたけど……。けど、連れてきてくれて嬉しかったです」

本当のことだ。トラブルには驚いたけれど、いつも忙しい司狼さんが、こうして時間を作って連れてきてくれたということが凄く嬉しい。それに――。

「それに、司狼さんと紅葉を見ていられるなら、このままここにいるのも良いなって思って――っん……」

そこまで言った僕の言葉は、司狼さんの口に塞がれて、最後まで言葉にできないまま消えてしまった。強い煙草の味に、自分がキスされていることを理解する。

「っ……しろ、さッ……」

抵抗を許さない、噛みつくようなキスに口内が侵される。突然のことに驚いて、キスの合間に必死に名前を呼べば、一度唇が離れた。ゆっくりと瞳を開いてみれば、至近距離で自身を睨むように見つめる、熱を宿した司狼さんの瞳。

「……可愛いことを言うお前が悪い」

低く掠れた声でそれだけ言われ、再び口内を貪られる。

「んっ……ぁ、ここ、車っ……」

自身の中に残った冷静さが、車内という状況に素直に流されることができずにいたけれど。

「どうせ雨で何も見えない……」

僕をそそのかすような司狼さんの言葉。

「っ……ふぅ……」

ロードサービスは一時間くらいかかると言っていた。止めどなく降り続く雨は、カーテンのように窓ガラスを流れて、外の景色はぼんやりとしか見えない。
もう、良いや。僕は抵抗をやめ、自身に覆いかぶさる相手の広い背中へと両腕を回した。
窓の外。雨の向こうには燃えるような赤が広がっていた――。





秋雨の中、兎は紅色に染まる。






Illustration by 黒須



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