面倒なゴタゴタも落ち着いてお店に戻った頃には、時計の針が1時半を指そうとしていた。
冷房が付けたままになっていた店内は涼しくて、思わずほっと息をつく。
「すぐ準備するんで、そこの椅子に座っててください」
僕が振り返りながらそう言えば、自分の後ろから入ってきた男は、軽く頷き、居心地悪そうにお店の端に並べてある椅子に腰をおろした。
「お腹すいてませんか?」
黒いスーツに身を包んだ男が、背中を向けて去ろうとした時。僕は思わずそんな声をかけていた。
「……腹?」
突然の質問に、振り返った相手が不可解そうに眉を寄せる。
「僕、そこのお弁当屋でバイトしてるんです。もし良かったら、お礼に召し上がりませんか?」
こんな誘いに乗ってくるような人には見えなかったけれど。ほかに話しかけることなんてなかったし。
「いや…」
「すぐに出来るので、どうぞ。外、暑いし」
断ろうとしているのを感じたけれど。僕はそれに気づかないふりをして、にっこり笑ってそう言った。
「生姜焼き、好きですか?」
椅子に腰かけた相手を残して厨房へ移動した僕は、冷蔵庫から下準備の済んだ材料を取り出しながら声をかける。
「嫌いじゃないが…」
なんとも複雑そうな無愛想な返事。それにくすりと笑みを漏らせば、厨房からひょっこりと顔を覗かせてにっこり笑った。
「良かった。今日の生姜焼き、僕が下味とかの準備したんです。すぐ焼くんで待っててくださいね」
「……あぁ」
ただ一言返ってきた返事に満足すれば、僕は料理に取り掛かった。
弁当のおかずは、注文が入ればすぐに焼いたり揚げたりができる状態まで下準備を済ませてあるので、ほんの少しの時間で仕上げることができてしまう。
生姜焼きを手早く炒めれば、付け合わせの漬物や胡麻和えを添えて。最後にご飯を盛れば10分もかからずに出来上がった。
せっかくだからと、通常はメニューに入っていない卵焼きも、手早く焼いてお弁当の隅に無理矢理詰めてみる。
うん、おいしそう。お弁当の出来に満足すれば、僕は両手にお弁当とお茶のペットボトルを持って、待っているであろう男の元へと急いだ。
「お待たせしました」
顔を上げてこちらを見た相手に笑みを返せば、僕は首を傾げて問いかける。
「せっかくなら温かいうちに食べていきます? 持ち帰るなら袋に入れますけど」
まぁ、持ち帰っちゃうかな。そんなことを思いつつ駄目元で聞いた言葉に、思わぬ答えが返ってきた。
「…せっかくなら頂いていこうか」
その返事に、思わず笑みが浮かぶ。
「ぜひどうぞ。テーブルがなくて申し訳ないんですけど。すぐ、箸持ってきますね」
受け取ったお弁当を組んだ足の上に乗せた相手にそう言えば、すぐにカウンターから割り箸を持ってきて渡した。
お弁当に箸に付けるのを、食事の邪魔にならないように少しだけ離れて見守る。
自分が作った生姜焼きを口に運ぶ相手を見ていると、なんだかとても緊張して。どうしてだろうと考えて、そういえば自分が作ったものを誰かに目の前で食べられるのが、とても久しぶりだったことに気づいた。
静かに咀嚼する相手に堪えきれず、どうですか? と聞きかけたその時だった。
「……美味いな」
静かに呟かれた言葉に、僕は思わず瞳を見開く。
「…良かったぁ」
大きく息を吐き、思わずしゃがみ込んだ僕に、呆れたような声が投げかけられた。
「なんだ、料理が得意だったんじゃないのか?」
「得意ですけど、目の前で誰かに食べてもらうってすごく久しぶりだったんです。ほら、お弁当は皆持ち帰って食べるでしょう?」
「そういうものか」
「そういうものです」
いまいち理解し難そうに呟く相手に、はにかみながら頷く。
「お茶、いりますか?」
「あぁ」
蓋を外したペットボトルのお茶を渡し、一口二口と飲んだそれをまた受け取る。
静かに食事する相手の隣にいるのは、思いのほか心地良かった。
「甘い卵焼き、苦手でしたか?」
卵焼きを口にした相手が一瞬眉を寄せたのを見て、僕は思わず口を開いた。
砂糖と白だしで作る、ほんのり甘めのだし巻き卵は結構自信があったんだけれど。
「苦手なんだが…これは美味い」
ばっさりと切り捨てられたかと思った言葉の後に続いた意外な言葉と、その言葉が嘘ではないとわかる満足そうな表情に、僕はほっと息をついた。
「それなら良かったです」
呟くように言ったその言葉に、相手からはそれ以上返事はなく。僕は再び、ゆっくりと弁当を食べ進める相手を見守った。
弁当を食べ終え、お茶を飲みながら一息ついている相手に、僕は再び口を開いた。
「ーーさっきはありがとうございました」
その言葉に、黙って視線だけを向けてきた相手に、そのまま言葉を続ける。
「今日はお店に僕だけだったし、助けてくれる人なんていないと思ってたんです。ーーだから、貴方が来てくれて助かりました」
「そうか」
静かに頷いた相手の雰囲気が、少し和らいで感じたからかもしれない。
「僕、兎村 晴って言います。貴方はなんて言うんですか?」
気がつけば、僕はそんな言葉を口にしていた。
「ーー橘だ」
少し悩むような沈黙のあと、短く僕の聞いた答えが返ってくる。
橘さん。それが、この人の名前。
「橘さんは、やくざなんですか?」
なんでもないことのように聞いた僕の言葉。
「怖いか?」
質問で返された言葉は、暗に先程の僕の問いが肯定されたもので。
けれど、僕は首を横に振って笑った。
「いいえ。だって、橘さんは僕のことを助けてくれましたし」
だから、怖くない。
「……肝の座った奴だ」
そう言った橘さんの顔が、僅かに笑った気がした。
また少しの沈黙のあと、椅子から腰を上げた相手を見上げて僕は口を開く。
「そろそろ帰りますか」
頷いた橘さんから、空のお弁当箱を受け取る。
「美味かった。ーー気をつけて帰れよ」
背中を向けたまま言われた言葉は、短いけれどどこか優しくて。
「良かったら、また食べに来てくださいね」
僕は闇夜に溶けていく黒いスーツの後ろ姿を見送ったーー。
ーー19時。
「それじゃあ、お先に失礼します」
「お疲れ様です」
遅番のスタッフと交代した僕は、手早く着替えてお店を出た。
お店を出て、少し歩いた先の角を曲がれば、良く見知った黒塗りのセダンを見つけて駆け寄る。ーー司狼さんの愛車だ。
「お待たせしました」
助手席のドアを開けながらそう言えば、視線で乗るように促されて助手席に座る。僕がシートベルトをしたのを見計らい、ゆっくりと車が動き出した。
「食べたいもの、あるか?」
走り始めて暫くした頃、司狼さんが口を開いた。
食べたいもの。そういえば特に考えてなかったなぁ。少し考え、思いついた答えを口にする。
「スーパー行きませんか?」
「はぁ?」
食べたいもの、ではなく、行きたい場所を答えた僕に、思わずといったように司狼さんが呆れた顔で僕を見た。
「なんだか、司狼さんに僕の作ったご飯食べて欲しくなったんです」
出逢った日の、初めて司狼さんに自分の作ったお弁当を食べてもらった時のことを思い出したからかもしれない。
いつのまにか一緒にご飯を食べに行く、よりも、僕の作ったご飯を食べてもらいたい、という気分になってしまっていた。
「駄目ですか?」
首を傾げた僕に、呆れたようなため息が返ってきた。
「……勝手にしろ」
そう言いながらも、車が僕の気に入っている、品揃えの良い大型スーパーへと向かい始めたのがわかり、僕は微笑を浮かべた。
「ありがとうございます」
さて、何を作ろうか。
司狼さんの好きなワインに合うおつまみと、
同居し始めたばかりの頃においしいと言ってくれた牛肉のトマト煮と、
あぁ、あの日と同じ卵焼きも作りたいな。
司狼さんの呆れ顔には気づかずに、僕はそんなことを考えながら笑みを浮かべた。
兎は闇夜に狼と出逢う。
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