ーー7月始め。
梅雨明け前とはいえ、夏が近づくこの頃は深夜も蒸し暑い日が続いていた。
僕のバイトする弁当屋は、風俗街にあることもあって閉店時間が遅い。お店の時計が閉店時間である1時を指したのを確認して、僕はお店の看板を片付けるために外へと出た。
「暑いなぁ」
自動ドアの外へと出れば、梅雨特有の身体にまとわりつくような蒸し暑さ。思わずため息が漏れる。
さっさと片付けて中に戻ろう。少し外にいるだけでも汗が滲んできそうな気温に、僕はお店の前に出していた大きな看板を、倒さないように気を付けながらお店の軒下に寄せた。
いつも通りに片付け終えて、一歩後ろへと下がったその時だった。
ーードンッ
「おい、どこ見てんだよ? いってぇなぁ…」
ぶつかった衝撃と、自分に投げられた不機嫌そうな低い声に慌てて頭を下げる。
「っ、すみません」
「すみませんじゃねぇよ」
「お前、それ骨折れたんじゃねぇの?」
あぁ、面倒くさいのに絡まれたなぁ。頭を下げたまま、不機嫌そうに文句を言う自分がぶつかってしまった相手と、面白げに笑う連れの男の声を頭上に聞きながら、僕は気付かれないように小さく息をついた。
「あー、絶対折れたなぁ。痛い痛い」
「おい、医者代払えよ?」
「すみません…」
折れた割には全然痛くなさそうだけど。そんなことを思いつつ、どうしたものかと俯いていれば、苛立った声と共に腕を掴まれた。
「おい、ちょっと顔上げろよ」
「っ……」
力任せに掴まれた腕の痛みに顔を顰めながら見上げれば、不機嫌そうに睨む男とにやけた笑みを浮かべた男。二人とも、大分酔いが回っている雰囲気だ。
「……なんだ、カワイイ顔してんじゃねぇか」
「あぁ、本当だ」
「え…?」
にやけた男の口から出た言葉に、思わず首を傾げる。ーーなんだか、嫌な予感がする。
「おい、ちょっと遊ぼうぜ。それで医者代チャラにしてやるよ」
嫌な予感は当たったようで。掴まれた腕をそのまま引っぱられたかと思えば、街頭のない路地裏の方へと引きずられそうになり、僕は慌てて抵抗した。
「ちょ、その、困りますっ」
「お金いらねぇから、身体で払えって言ってるだけだろうが。なぁ?」
「そうそう。何十万の医者代の代わりにちょっと大人しくしてればいいんだからさぁ」
医者代って…今、僕のことを掴んでいる腕の方にぶつかった気がするんだけどなぁ。まぁ、そんなことを言ったところで逆切れされるだけだろうけれど。
「大人しくこっち来いよ!?」
「やだ、やめてください」
正直、そこまで力があるわけでもない僕が抵抗したところで、大の男二人の力には到底敵わなくて。二人がかりで無理矢理引きずられ、思わず声を荒げた。
「おい、痛い目みたくねぇだろ?」
「っ……」
ドスの利いた声で凄まれ、思わず黙り込む。
ーーこれはやばい、かなぁ。
いつもなら深夜時間帯は必ず二人体制でいるものの、今日は一緒にラストまで入る予定だったバイトが、体調不良で少し前に帰ってしまった。
少し離れたところに風俗店の立ち番の男性の姿は見えるが、酔っ払いの面倒事が多いこの辺りで、隣近所の店の人が助けてくれるということは滅多にない。ーーつまり、今この状態から助けてくれる人は誰もいないというわけで。
「素直にいうこと聞きゃ、すぐ終わらせてやるよ」
「そうそう、ちょっとかわいがってあげるだけだからさ」
「ちょっと、待って……」
抵抗もむなしく、好き勝手なことを言う二人に路地裏へと引きずられる。
……女の子ってわけじゃないし、諦めた方がラクかなぁ。けど、痛いのは嫌だなぁ。
どうしようもならなさそうな状況に、僕が諦めかけたその時だった。
「ーー何してる」
後ろからかけられた深みのある男の声。誰…?
「あ? なんだよ!?」
邪魔されたことに、再び機嫌が悪そうに眉を寄せた男が振り返りながら怒鳴る。
振り向いた先にいたのは、黒いスーツで全身を固めた男の姿。髪や瞳、スーツの中のシャツまで全て黒いせいか、今にも夜の闇にとけてしまいそうな人だった。
「何をしていると聞いたんだが」
黒い男の冷たい声音と鋭い眼光。僕を抑え付けている二人の身体がびくりと竦むのがわかった。
「っ…あんたには関係ねぇだろうが」
「俺たちはコイツに用があるだけだよ」
威勢よく言い返しているつもりだろうけれど、多分本人たちが思っているほどの威勢の良さはなくて。
もしかしたら助かるかなぁ。そんなことを思いながら、僕は三人の様子を窺う。
「お前は、こいつらに用があるのか?」
「…僕は、ないです。お店、閉めなきゃなんないし……」
黒い男の視線が僕に向けられたかと思えば、不意に話を振られ、戸惑いながらもそう答えた。
僕の言葉に黒い男は僅かに眉を寄せ、再び僕を抑え付ける男達を睨む。
「だそうだ。さっさと彼を離したらどうだ」
「だから、アンタには関係ないってーー」
僕を抑え付けていたうちの一人の男が、黒い男の胸倉に掴みかかろうとしたその時だった。
「そいつに手を出すのは勝手だがな。うちの島の外でやってもらおうか」
「ッ!?」
男の手は掴みかかることが叶わず、黒い男の手によって捻りあげられていた。捻りあげられた男は、痛みに顔を顰めながら、怒りと恐怖の入り混じった顔で黒い男を睨み付けている。
「島って……」
僕を抑え付けている男が怯えるような声で呟いた。
そういえば、うちの島がどうこうって言っていたっけ。なんのことだろうと思っていれば、黒い男が再び口を開いた。
「この辺りが東郷組の島だってことくらい、知っているだろう」
「っ!!」
東郷組の島。改めてはっきりと言われた言葉に、僕を抑え付けている男が今度こそはっきりとした恐怖を表に出し、一歩、また一歩と後ずさった。僕も引きずられるように一緒に後ずさる。
捻り上げられたままの男も怯えた様子で逃げようともがくものの、かなり強い力で捻り上げられているようで、なかなか逃げ出せずにいる。
そんな男たちの様子を冷たい目で見ていた黒い男が再び口を開いた。
「なんだ。まさか知らなかったのか」
「しっ、知らなかったです! すみませんでしたっ…!!」
黒い男の言葉に、捻り上げられている男が必死な様子でこくこくと頷く。さっきまでの強気な様子はどこにもなくて。僕は必死に許しを請うその姿に、情けないなぁなんて思いながら、黒い男がどうするのかを見ていた。
「……それなら、今回は見逃してやっても良い」
「あっ、ありがとうございますっ!!」
礼を言う男を、黒い男は興味のない様子で捻り上げていた手を離した。
「今すぐそいつを置いてどこかへ行け」
「はいっ」
二人の男は揃っていい返事をしたかと思えば、抑えていた僕のことを突き飛ばすようにして、逃げていってしまった。
突き飛ばされた僕は地面に座り込む。地面に着いた両手が震えているのを見て、怖かったんだなぁなんて、他人事のようにぼんやりと思った。
「立てるか?」
不意にかけられた、深みのある黒い男の声音。目の前に差し出された大きな手に、僕は顔を上げる。眼光の鋭さは変わらずだが、先程までよりも少しだけ、纏う空気が柔らかくなっている気がした。
僕の反応を待つように動かない相手に、ゆっくりと手を伸ばす。相手の手に指先が触れたかと思えば、しっかりと手を握られ、ぐいと引き上げられた。
「ぁっ」
勢いよく引き上げられたせいでよろければ、なんでもないように広い胸板に受け止められる。男のスーツから香る淡い香水の匂いに戸惑った。
「大丈夫か?」
「…はい。ありがとうございます」
もう一度かけられた声にゆっくり頷けば、男の胸からそっと身体を離した。
「ならいい。危ない目に遭いたくないんなら、さっさと帰るんだな」
僕が自分の足できちんと立ったのを見ると、それだけ言って背中を向けてしまう。
あ。行っちゃう。ーー多分、今ここで別れたら、この人ともう会うことはないんだろう。それが、どうしてか嫌だと思って。
気が付けば、僕は男の背中を呼び止めていた。
「あのっ」
突然の呼びかけに、男は足を止め、訝しげに僕を振り返る。
鋭い眼光が自身に向けられる。それに僅かに鼓動が早くなるのを感じながら、僕は口を開いた。
「ーーお腹すいてませんか?」
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