one snowy day. | ナノ

ーー寒い、寒い冬の日のことだった。

狭いアパートの中には、男の罵声と女の泣き喚く声が響いていた。

「ーーっ……ーーーっ!!」

「ゴメ、ナサッーー……ー…」

言葉の意味なんてわからないけれど、感情を剥き出しにした怒り声や泣き声はどちらも怖い。
その声が自分に向いてしまうことを避けるように、ヒカルは部屋の隅で膝を抱えて蹲っていた。

「っ…メナサーー…ッ」

こわい。こわい、よ。罵声と、泣き声と、女が殴られる鈍い音。毎日のように続くそれが、早く終わることを祈りながら、ヒカルは目を瞑り、耳を塞ぐ。
どれだけ身体が震えても、助けを求める術なんてなくて。助けを求めるなんてことも知らなくて。ただ、怖い時間が過ぎることだけを祈っていた。

ーーどれだけの時間が過ぎたのか。男が乱暴にドアを閉めて出て行ったがした。ヒカルはゆっくりと耳を塞いでいた手を外し、瞳を開ける。
こわいのは、もうおわったの? 恐る恐る室内を見渡すと、そこには倒れこんだまま動かない女の姿。

「!!」

シータ? 女の愛称を呼ぼうとするけれど、いつしか出なくなってしまった声は、それを阻んで。ヒカルは、ゆっくりと女の元へと近付く。
だいじょうぶ? うつ伏せに倒れる女の肩を、小さな手でそっと揺する。何度かそれを繰り返すと、女は苦しそうな呻き声を上げた。

「ァ…ーー」

ゆっくりと身体を起こした女にほっとしたのも束の間、泣き濡れた冷たい緑の瞳に睨みつけられ、ヒカルは身体を強張らせる。
にげ、なきゃ…。だが、そう思った時には既に遅くて。後退ろうとした小さく軽い身体は、逃げる間もなく、叩き飛ばされ壁にぶつかった。

「ーー!! …ーーーッ!」

甲高い声で日本語と異国の言葉で言い募る女の言葉の意味は、ヒカルにはわからない。それでも、自分が責められていることだけはわかる。
一心不乱に自身を叩く女から身を守るように、ヒカルは必死に頭を抱え込むようにして丸くなった。

「っ……」

ごめんなさい。ごめんなさい。
声にならない声で、何度も何度も繰り返す。その言葉の意味なんてわからなかったけれど、男に打たれたり蹴られたりすると、シータが繰り返しそう言っているから。
だから、自分も打たれたり蹴られたりしたら、そう言わなきゃいけないんだと思った。
けれど、必死に紡ぐ“ごめんなさい”の言葉は声にならなくて。
僕がごめんなさいを言えないから、やめてくれないのかな。僕が、いけない子だから。そう思うと、痛くて苦しいけれど、我慢しなきゃいけないのだと思った。
女の罵声を遠くに聞きながら、いつしかヒカルの意識は遠退いていったーー。




「ーー」

ーーどれくらい経ったのか。ヒカルは寒さに震えて意識を取り戻した。
ゆっくりと室内を見渡すと、女もどこかへ行ってしまった様で、自分だけになっていた。
もう、打たれない。その事実にほっと安堵すれば、ヒカルは毛布を手繰り寄せ、すっぽりと包まる。煙草の臭いのこびり付いた古びた毛布だけれど、誰もいない時にこっそり包まるそれは、とても温かかった。
毛布に包まり、うとうとし始めた頃だった。
ふと窓の外を何かが落ちていった気がして、ヒカルは毛布に包まったまま窓際へと近付く。
そして、窓の外を見上げるとヒカルは大きく瞳を見開いた。

「……?」

そこには空から降り落ちてくる、雪。
真っ白いそれはとても綺麗で。ゆっくりと降り落ち、地につけばとけて消えてしまうそれに、ヒカルは瞳を奪われた。
あれは、なんだろう。ふわふわしていて、とってもきれい。
降り続く雪をヒカルは飽きることもなく視線で追った。空を見上げ、落ちるまで見守り、とけて消えてしまえばまた見上げる。何度も何度も繰り返し、雪が消えていくのを見送った。

ーーぼくも、あんなふうにきえたいな。そしたら、もういたくない。

降り落ちては消えていく雪が、羨ましかった。あんな風に消えていくことができたなら、もう苦しいことも痛いこともないだろうから。
いいなぁ。その日、雪が雨へと変わるまで、ヒカルはずっと降り落ちる雪を見ていたーー。








ーー今年もまた、寒い冬がやってきていた。
それでも、岬に風邪を引かないようにと、温かい上着をもこもこに着込まされている今年の冬はとても温かい。

「ヒカル、寒くないか?」

心配そうに岬に聞かれて、ヒカルは大丈夫と頷く。
だが、赤くなったヒカルの鼻を見て、岬はヒカルの頭をぽんぽんと叩くと腰を上げた。

「一回閉めるか」

交番の入り口は基本開けっ放しだ。いくら暖房を付けていても、吹き込む風は冷たい。
岬は引き戸に手をかけるも、舞い落ちてきた白いものが視界の隅に映ると、閉めようとした手を止めて空を見上げた。そこには降り始めたばかりの雪。

「…あ」

「?」

入り口を閉めようとしていた筈の岬が一歩、二歩と外へと出ていけば、ヒカルはどうしたのだろうと首を傾げた。
そんなヒカルに、岬は楽しそうな笑みを浮かべて振り向くと、おいでと手招きしながら口を開いた。

「ヒカル、雪降ってきたぞ」

ゆき? それが何かはわからないけれど。それでも、岬に呼ばれれば椅子から降り、小走りで岬に駆け寄る。

「ほら」

「…!」

岬に倣うように空を見上げて、ヒカルは瞳を見開いた。そこには、いつか見たのと同じ、真っ白な雪。
あれは、ゆきっていうの。ふわふわと降り落ちる雪に瞳を奪われるヒカルの肩が、岬にそっと抱き寄せられる。
そっと岬の腰に頬を擦り寄せると、ひんやりと冷えた制服の冷たさを感じた。

「初雪だなぁ」

はつゆき。岬の言葉を真似るように口を動かすヒカルに、岬が聞いた。

「雪。見たことあったか?」

みたことある。岬の言葉に、ヒカルはこくりと頷く。
恐る恐る、両手でお皿を作るようにしながら差し出してみれば、舞い落ちた雪がヒカルの掌の中に落ち、すっととけて水になった。

「っ…!!」

「あぁ、そうか。触るのは初めてなんだな。冷たいだろ」


雪の冷たさにヒカルが驚き、岬を見上げれば、岬は笑いながらヒカルの頭を撫でた。その手の温もりは温かい。

「積もったら、雪うさぎ作ろうか」

ゆきうさぎ? 首を傾げるヒカルに、岬は楽しそうに言う。

「雪で作ったうさぎだよ。うさぎ、好きだろう」

すきっ! 大きく頷いたヒカルに、岬は笑みを浮かべて頷けば、良い子だ、とヒカルの黒髪をくしゃりと掻き撫でた。

「いっぱい、いろんなことしような。楽しいことは、いっぱいあるんだから」

優しい声音で言われた言葉にこくりと頷きながら、自身の頭に乗っていた岬の手を取ると、その腕を両手でぎゅっと抱き締めた。甘える様子のヒカルに、岬はもう片方の手で再び小さな頭を撫でてやる。

ね、ゆーじ。ぼく、たのしいよ。
ゆーじといっしょにいられて、しあわせだよ。

空からは雪が降り続ける。その雪は、とけることなく、気が付けば地面は白く染まり始めていた。

ぼく、やっぱりきえたくないや。
ゆーじといっしょにいたいもの。

抱き締めた岬の腕に、ヒカルが頬を擦り寄せた。そんなヒカルに、岬の顔には優しい笑みが浮かぶ。

「ーー中、入ろうか。ココア作ってやるよ」

岬の言葉に嬉しそうに頷けば、ヒカルは岬に手を引かれて交番の中へと戻った。
繋いだ手が温かかったーー。




one snowy day.








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